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やっぱり足りなかった何か~2022カタールW杯 round of 16 クロアチア1-1(PK3-1)日本

スーパーセーブ連発のGKリバコビッチ pic. by Getty Images

ベスト8への壁は、やはり高かった。
日本はクロアチアにPK戦の末敗れ、またも16強どまりだった。

絶対に、「感動をありがとう」とかいう耳障りのいい大人なコトバで総括してはならない。
私はそう思う。
「感動をありがとう」とか「死者に鞭打つようなマネはやめてくれ」と本気で思っているような方は、不快に思うと思うので、この先は読み進まれないことを強くお勧めする。

たかがPK、されどPK

これまで、ベスト8に最も近づいた決勝トーナメント1回戦は、2010南ア大会のパラグアイ戦だった。
その試合、120分間両者スコアレスで推移し、結果はPK戦5-3で日本の負け。
後攻の日本は、3人目の駒野が外し、5人目が蹴ることすらできず、5人全員が決めたパラグアイに敗れたのだ。
つまり、5/5 対 3/4 での負けである。

それから12年。何が変わったか。

今回は、PK戦3-1で日本の負け。
先攻の日本は、3人目の浅野以外3人が失敗し、5人目が蹴る前にクロアチアに敗れた。
つまり、3/4 対 1/4 での負けである。

相手は、前回2018ロシア大会のファイナリストであり、パラグアイとは確かに「格」が違う。
引分けとはいえ得点も獲ったので、その点も、確かに進歩だろう。
だが、それだけの進歩に12年もかかった。

逆に言おうか。
12年かかっても、その程度の進歩しかできなかった。

確かに、「新しい景色をみる」可能性は高まったが、その可能性の高まりは「とても僅かだった」と言わざるを得ない。

出番の少なかった「10番」南野拓実は、ファーストキッカーに立候補したらしいが、GKに阻まれた。
試合では「違いを見せられず悔しい思いをした」2番手の三笘薫は、やはりGKに阻まれた。
4番手のキャプテン吉田麻也は、やはりGKに阻まれた。
余談ながら、スペイン戦勝利後のインタビューで「これだから代表は辞められない」という、とてつもなく傲慢な発言をした彼を、私は全然赦す気になれない。

責任感でキッカーに立候補したことは、大いに評価できる。
PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気を持つ者だけなんだし。
しかし、結局は「決めなくてはならない」プレッシャーに押しつぶされた、つまり、メンタルの弱さを露呈してしまった点は、全く評価できない。

ヒーローになれなかったもう片方、GK権田についてはどうだろう。
クロアチア3人目の失敗は、権田のセーブによるものではなく、ゴールポストによるものだ。つまり「自損事故」だ。
言ってしまえば、権田はリバコビッチに比べるべくもない並みのGKだったということだ。

南野の虚ろな目を見た瞬間よぎった不安が、見事に的中してしまった。
言い方は悪いが、何やってんだよ! である。
年俸をウン億円も獲得しているプロフェッショナルが、しかも日の丸を背負って「国の代表」選手として、あんな下手くそなPK戦の戦い方でいいのか。

新たな景色を見るために、あと「PK戦の勝利が必要」というシチュエーションがありうることは、当然想定していたはずだ。
だとして、それが「4人蹴って成功者1人、1人もセーブできない」というショボい結果なの?
12年間で、PKの練習はどれだけやったの?
PK戦にフォーカスし積み上げてきたものは、何だったの?

私は、深く深く、失望した。
全くもって、受け入れがたい。
同じ「負け」るにしても、例えば11人全員のサドンデスに突入し、最後はGKが蹴ってそれで負けるような「負け方」というモノがあるだろう。
それならまあ、少しは受け入れることができそうだけれど。

たかがPK、されどPKだと、私は思う。

サポーターもアマから脱却しろ

スペイン戦の後、「三笘の1mm」を称賛する声が多く聞かれた。
そうであるならサポーターは、当初目標であるベスト8以上に「僅かに届かなかったことは何だったのか」、真摯に考えを馳せるべきだ。

考えてもみて欲しい。
W杯の決勝トーナメント常連の中に、負けた代表に「感動をありがとう」などと寝惚けたコトバをかける国は、1ヶ国でもあるだろうか。

私は何も、ねぎらいの言葉を否定しているのではない。
ねぎらうなら「お疲れさまでした」だし、そういう言葉であれば、私も喜んで選手にかけるだろう。
しかし口が裂けても、「感動をありがとう」などという思考停止ワードは口にしない。パッケージ化されたエンタメコンテンツを安全な場所から鑑賞しているが如きコメントは、死んでも吐かない。
何故なら、私も一緒に戦っているからだ。
日本代表の歴史を、一緒に作っているからだ。
少なくとも、気持ち、矜持の上では。

前回2018ロシア大会の後だったか、代表選手の一人が

帰国したら、みんなに『感動をありがとう』と言われた。
そのことに、ものすごく違和感を感じた。
自分ら選手は、この上なく悔しい思いでいっぱいで、この先何を積み上げればいいのか考えるのに必死なのに。

という主旨のことを、メディアで語っていた。

そう、選手はプロフェッショナルなのだ。
「過程」ではなく「結果」において全て判断される、そういう地獄のような場所に身を置いて、日々精進しているのである。
悔しさも悲しさもすべてバネに変え、負けた途端に「次の4年後への準備」がスタートする、そういう悲壮な決意をもって前に進んでいくプロなのだ。

代表チームを構成する選手が、そういうプロの意識で戦っているのだから、我々サポーターも、甘ったるいアマでいる訳にはいかない。

いや、だって、ドイツとスペインに勝ったんだぜ。
もう既に「新しい景色を半分見た」ことになるんじゃない?

そういう声も聞こえてきそうだ。
私も、心情的には、要は感情の根っこの部分では、そういう言説も理解しているつもりだ。
現にGL突破が成就した日、私もそんな気が少しだけした。
白状すると。

しかしながら、既に終わった、しかも準備ができたドイツ戦やスペイン戦をいくら愛でても、「新しい景色を見た」ことには絶対ならない。
つまり、組み合わせ抽選会があった半年前から、ゲームプランを練りに練り、慎重に選手選考し、用意周到に対策を用意してきた、単なる「結果」に過ぎない。
そもそも、グループステージを突破することは、ベスト8以上に駒を進めるために必要な「手段」であり、それ自体を目標とすべきではない。
それに加え、当初の目標が達成できなかった途端に、その過程を愛でることなど、手の込んだ「問題のすり替え」でしかない。

負けたら終わりのノックアウトステージで、想定外のことにも臨機応変に対処しながら勝利をつかみ取る、そういうことが成し遂げられて初めて見える景色を、我々は「新しい景色」と定義し、それを目標にしたのではなかったか。

ご存知のとおり、ベスト8へのチャレンジは今回が4度目。
過去は、練習試合でも一度も試したことがない三都主のワントップという暴挙で自滅し(2002日韓)、疲弊した主力組に替わった控えが違いを出せずに得点できず(2010南ア)、想定外のリードからの失点でパニックになり(2018ロシア)、一度も「決勝トーナメント1回戦の壁」を超えることができなかった。

これまでの反省もあって、主力とサブの差がない26人を厳選し、ゲームプランを慎重に実戦で落とし込んだ今回は、突破の可能性が大きく膨らんだ。
それでも届かなかった、ベスト8。
それは、とりもなおさず、まだ決定的に何かが足りなかった、ということだ。
その「たかが1勝、されど1勝」を勝ち取らなければ、本当の意味の「新しい景色」を見たことにはならない。

「感動をありがとう」などと言っている俄かファンは、今回、何百万人と、いやもしかしたら何千万人と増えただろう。
その中の一人でも多くが、単なるファンから、いちサポーターへ変容してくれることを切に望む。

「新しい景色」を見るまで、代表を「サポート」し続けようではないか。

あらゆる観点で「足りなかったもの」を検証せよ

ワールドカップの、特に決勝トーナメントに入ってからの試合は、総力戦である。
総力戦とは、選手はもちろんのこと、サポーター、監督・コーチなどの現場スタッフ、日本サッカー協会などの後方支援、全ての総合力が試される場ということだ。

つまり、反省すべきことがらは、検証すべき観点は、他にも沢山あるはずなのだ。

前述したとおり、一番プロなのは、選手である。
ヨーロッパを中心に、インテンシティの高いピッチ内の競り合いと厳しい環境の中で、まさにトップレベルの選手たちと日々しのぎを削っている彼らは、一番プロフェッショナルな存在だ。
そして、長々と説いてきたとおり、健全な批判精神をもって我々サポーターも、脱アマ化を進めていかなければならない。

そう考えると、新たな景色を見るために、一番ダメな部分はどこか、自明だろう。

先ずは監督だ。

もういい加減長文になってきたので、結論だけ書く。
ワールドカップのベスト8以上の試合で指揮を執った実績がない監督に、新たな景色を見る責任を負わせること自体、無理があったのだ。
もちろん森保監督も、その器ではない。

スペイン戦の後、彼の「選手たちはもう既に、新しい景色を見せてくれていませんか」的なコメントを聞いて、あぁこりゃ駄目だと思った。
選手をねぎらってくれというのを、目標未達の段階でプレスに発信するって、指揮官としてどうなのさ。
部下を大事にする中間管理職的「いい人」はいいけど、でもそういう器に大きな仕事を任せられますか?ってハナシだ。
私は、試合後ふかぶかとサポーターにお辞儀などしなくていいから、コミットした目標をキッチリと遂行できるような監督がいい。
そんなことは、JFA(日本サッカー協会)の広報担当にでもまかせておけばよろしい。

巷も、お花畑な「感動をありがとう」論調の延長戦で、今後も森保監督「で」いいんじゃないという空気になっている。
しかし私は、今回の「目的不達」の責任と、その過程で露呈した「能力のなさ」を鑑み、続投は1mmもありえないと思っている。

もう一つのアマチュアの極み、それはJFAである。
もうこれは、断固として駄目だ。

記憶の新しいトコロで言えば、4年前。
ロシア大会直前に、ハリルホジッチ監督が更迭された際の、理由や背景や本大会で出来たこと出来なかったことの反省など、何一つ説明していない。
おそらく、反省もしていないし、だから論理的にそれが説明できないし、そもそも説明する気があるのか、それすらも疑わしい。
この時点で、もうアウトである。

もちろん、ベスト8以上請負人的なプロの監督を引っ張ってこれないのも、JFAのアマチュアリズムの弊害だ。

トップを始め要職を、サッカー界出身者以外に総取替しないと駄目なトコロまで、腐っている。
私はそう思っている。

だってそうだろう。
やや乱暴に解りやすくまとめるなら、現在のJFAの幹部(患部)は、サッカーアマチュア時代に活躍した、脳みそ筋肉系の(何かあっても根性論で片付けてきた)元選手の方々である。
プロフェッショナルの基本リテラシーであるロジカルシンキングを身につけているとは到底思えないし、JFAの言動も、それを裏付けているではないか。

結論だけ書いたが、監督論、協会論については、いずれどこかでキチンと考えてみたいと思う。

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