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美しいと認識する力・3:イマニュエル・カント「判断力批判」

美しいと認識する対象、心が動かされるものやことは、静的な絶対・至高だけではなく、逸脱を含む動的な運動を伴うものなのだろう。

11月5日にバレエを観に行ってきた。仲良しの友達(*1)が行っているバレエ教室の発表会ということで演目は「ドン・キホーテ」ということだった。私はバレエに関しては、まったく無知である。

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他にも知人でバレエをしている人・バレエに関わっている人は知っているので、まったくバレエのことを知らないわけではない。というか、まったく知らないと言うとその方々に失礼だなと我ながら思うのだが、実際はまったく知らないと潔く言ったほうがよいだろう。

だから、 Amazon で調べて「ドン・キホーテ」のDVDのうち良さそうなものを選んで購入した。

当日までの数日間、時間を作って鑑賞して作品に親しんだ。

ドン・キホーテといえば、風車に突っ込んでいった人だよね、というくらいは知っていたが、こちらも実際には読んだことはない。原作も読んでおこうと思ったが、岩波文庫で全6冊の大部(*2)であることがわかり、こちらは、とうてい5日間で読み終えることはできないと諦め、断念した。

ネタバレ厳禁な映画やテレビドラマ、ミステリー小説とは違い、楽しく鑑賞するには、あらかじめスジや登場人物、そしてバレエの姿と形に親しんでおくことは大事である。

楽しい、美しい、心を動かされる、というのは本来個人的な体験であるが、それが多くの人に時代を超えて共有され、またこれが積極的に演じられて多くの人の前に提示されるのは、美が強制を伴っているからである。衣装や化粧、大道具・小道具などの舞台の構成や、出演者の姿や、一つ一つの身体の動き、技、そして演出、それぞれのあるべき形式があり、それが見るものに共有されているからこそ、美しさと感動を味わうことができる。

また、今回はプロの公演ではなく、一教室の発表会ではあるわけだが、美しいと感じ感動を呼びおこす、そのようなある一定の形式を目指して努力してきた成果を見せる場なわけである。ある美しい形を目指しているからこそ、失敗も失敗としてわかるわけだし、成功は成功としてわかる。出演者と感動と美しさを分かち合うことが「知ること」によって初めてできるわけだ。

美しさは、美しさを認識する力を要求する。時に「観客が試される」などと言われるのは、バレエに限らず、このような趣味の領域ではついてまわることだろう。

美しさや感動が個人的なものでありながら、このように他の個人に強制するものであり、だからして客観的なものであるとするならば、その究極や至高のもの、つまり、誰にとっても美しいと感じる、誰にとっても感動できる、そういうものがあるのだろうか。

そのような究極があると思うからこそ、その高みを目指し美しさと感動を磨いていく。しかし、究極・至高というものがあったとして、そこに到達したとすると、それ以上の何かはなく永遠や絶対と同じように変化がない、世界のどこに行ってもどの時代でも同じものになってしまう。そのような静的な世界は、生の動的な性質が失われるだろう。そのうえ、至高を理解できる(あるいは理解できると認定された)人、そして、至高のものを所有できる財を持つ人、そういった一部の人だけが至高を独占できることとなる。

そこに、様式美として硬直化してしまう弊害や、権威主義のはびこる温床となり、また、一方で訓練や努力をしなくても皆が持っている単純な快感や情動に訴える大衆迎合化の温床があるのだ。

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美しいと認識する力は、理性による道徳にもない、悟性による論理にもない、また、単なる感覚的な快の感情でもない。そのような美しいと認識する力を私達は皆持っているということだ。しかし、その形式は地があって像が浮き出るような、そんなところがある。

教室の発表会だと、始めたばかりの小さな子供もいれば、鍛錬を積んだ先生もいる。各々のレベルと力量に応じて役が与えられる。そして、そのレベルというのは、型に対する達成度合いで測られる。出来ている子と出来ない子の差は明らかだ。そして、親御さんは、自分の子が「ここまで出来るとは」、また、こんなに練習させても「ここまでしか出来ないのか」と、周囲の子供やその親たちを見ながら、時に純粋な感動を覚えつつ、ときに歯ぎしりしながら楽しんでいたことに違いない。

しかし、長じてピタっと型に合致した境地に達すれば、それはそれで「ただ型にはまっただけ」とつまらなく思えてくるところだ。その先は、そこからの逸脱がまた美しく感じられ、そこに感動を呼び起こさずにはいられないのだ。

美を極めた者による形式からの逸脱は、それ以上の至高を求める美であるけれど、初心者の形式からの逸脱は、単なる美との差異となる。

意は似せ易く、形は似せ難い。

そして、美や感動は、美や感動を認識して追求した個人の経験と、個人からの発信と強制、時代・場所・人による共感、それらによるダイナミックな運動だ。そして、その運動なくして美や感動はないのだろう。

カントの「判断力批判」を面白く読んでいるが、そのようなダイナミックな判断力の動きに、美しいと認識する力の面白さがあると思うのだけど、その点が物足りないと思ったりもする。

まだ、上巻の75%まで読み進めたところだ。もっと理解が進んで、ひとステップもふたステップも上がった、より高いところから見れば、また違った景色が見えるのだろうか。そのへんが楽しみなところではある。

発表会は亀有で行われた。なので、いちおう、駅前で記念写真もとっておいた。

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いずれにしても、しっかりと予習しておいただけあって、2時間の演目は、それぞれ十分に楽しむことができて感謝だ。これからも、機会を見つけて積極的に自分の知らない新しい世界に触れていきたいと思う。

美しいものがあるわけではなく、美しいと感じる心があり、それを求める心があるだけである。

私達はどこから来てどこに行くのだろうか。


■ 注記

(*1) 家内のいとこさんの娘さんで「親族」とか「身内」と書くほうが適切かもしれないのなのだが、彼女の小さいころから仲良しなので、このように記しておく。

(*2)別の岩波文庫では、全8巻のようにも見えるので微妙だ。いずれにしても大部であることには間違いがない。私は日本人の平均より読むのは速いと自認しているが、仕事とのバランスもある。5日間で全6巻の小説は、なかなかツライ。


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