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アンリ・ポアンカレ「科学と仮説」・2:科学的なものの見方とその根本にあるもの

「科学と仮説」はとても面白く、すんなり読めるので、予定を完全に無視して読み進み、先週のうちに読了した。ちなみに予定は次のようであった。

280ページなので、一日平均5ページなら56日だから12月末までに読み終える目標でいく。マイルストーンは章ごとの読了で十分だろう。第一編 11/5 第二編 11/17 第三編 11/28 第四編 12/20 で余裕を 11日もった予定となる。創造的進化と同様に、区切りのよいところごとに note に思ったところをまとめていくつもりだ。

火曜日しばらく雑記帳・30

そして、前半を読んだあたりの11月13日に書いた記事ですでに言いたいことは書いてしまったように思う。

読了して特に付け加えることもないように思う。私達の世界を大きく変えて恩恵をもたらす科学とはなんだろうか、その背後にある考え方・世界の捉え方、よって立つところはどこにあるのか、少しでも反省するものにとってはより根本的なところからの視点が提示されることだろう。

本書の構成と内容については、序文で著者がうまくまとめてある。本を紹介するには、できれば序文全体を引用しておきたいところだが、これは是非、手にとって読んでほしいところだ。

表面だけしか見ない観察者にとっては、科学の真理は疑いの余地のないものである。科学上の論理は誤ることはないし、学者がときおり思いちがいをすることがあっても、それは論理の規則を見損なったためである。
(中略)
数学者は仮説なしではすまされないし、実験科学者はなおさらだということがわかった。そこで、はたしてこれらのすべての構築が極めて堅固なものであるかどうかが疑われ、わずかの微風にあたっても打ち倒されてしまうと信じるようになった。こういうふうに懐疑的になるのは、これもまた表面的な考えである。
すべてを疑うかすべてを信じるかは、二つとも都合のよい解決法である。どちらでも我々は反省しないですむからである。

ポアンカレ「科学と仮説」序文 p.13-14

現代科学を、あるいは、科学的な考え方を、100%信じてそれが正しくて他のすべての考え方が間違いであり妄想である、というのはおめでたい考え方だ。科学的な考え方とは自らを常に疑う考え方だからだ。

だから、声高に「これこそが真実だ」「真実が判明した」などと言う科学者がいたらまずは疑ったほうがいい。本当の科学者ならば断言することは決してなく口ごもるはずである。前提があり適用範囲がありその説明はややこしくわかりにくい。一言で切れ味のいい説明などは無理なのだ。そして、「他に、これこれこういう可能性はありませんか?」と聞かれれば本当の科学者ならば、絶対に言うだろう。「その可能性は否定できません。」

逆に、だったら科学なんて役に立たない、今の科学なんて幻想で妄想である、というのもおめでたい考えだ。究極の真実が欲しいかもしれない。簡単でわかりやすい答えが欲しいかもしれない。だけど、そんなものはどこにもない。今、私達が科学の発達によっていかに大きい恩恵を享受しているかを考えてみたときに、科学が現実と遊離した幻想ではなく現実に大きく働きかけることのできる極めて有用な手段であることがわかるはずである。そのことによってより多くの人がこの厳しい自然の中で生活できるようになったわけだ。

しかし科学が到達し得るのは、素朴な独断論者が考えているような物自体ではなくて、ただ物と物との関係だけである。この関係以外には認識し得る実在はない。

ポアンカレ「科学と仮説」序文 p.15

数学が明らかにするのは、ある規約に則った集合内の要素の間、あるいは別の集合の要素との間の関係だ。その規約と同等な性質を持つ物・現象の集合は同じ言葉で記述することができる。そしてそれが客観的であるためには、個人個人が内に持つ「世界の意味」を排除して「世界の性質」を抽出する必要があるということなのだろう。

科学は、性質が同じである限り関係は同じである、として未来を予測し未来を変える道具を作る。性質も関係も人間の希望や意思とは関係ないと考えるからこそ、汎用性が高くなり人間に広く利益をもたらすのだ。

しかし、人は各々が考える「生きる意味」と「こうあるべきという意思」をもって未来を変えたいと願う。

だからこそ私にとって意味のあるすぐに役立つ答えが欲しい。私にも簡単に理解できるシンプルで美しい真実が欲しい。基準無き相対的な関係なんかではなく絶対基準に対する確固たる答えが欲しい。未来は因果関係の必然性と人間の(あるいは神の)意思によって決まるのであって偶然と確率が入る余地はないはずだと願う。

だが、それらの願いは叶うことはない。そのような願いを排除することこそが科学的な考えであり、私達の知性の拠り所であり、世界に働きかけ未来を変える有用な考え方なのだ。


ポアンカレは本書で、まず、数学的帰納法や連続の概念の重要性にっいて論じ、非ユークリッド空間について論じることで、数学における規約・公理・論理の役割を明らかにした。

また、「物理学者がどんな条件で仕事をしているかを研究したうえで、こんどはその仕事ぶりを示さなければならないと私は信じた」(ポアンカレ「科学と仮説」序文 p.18) ということで光学と電磁気学の発展の歴史について具体的な事例について論じ、当時の知見を概観したうえで、絶対座標とエーテルの存在を否定する見解を示した。

さらに「人々はきっとここに確率論に関する考察を見出して驚くだろう」(p.213)という書き出しで確率論が物理学において演じる役割の重大きさについて注目する。本書では、我々が一般にいう「確率」が科学で使われる場面について次の場合があるとする。

1.(数学における確率)規約も法則もわかっている一般的な見地。都合のよい場合の数と可能な場合の数の比で表すことができる。
2.(物理学における確率)不完全な知識に基づいてある事象を推察しようとつとめる場合。
  2.1 法則は知れているが最初の状態を知らない場合。
  2.2 法則自体さえも知られていない場合。
3.(原因の確率)事象を知っていて法則を推察しようとつとめる場合。

それらを詳述したうえで、誤差論について言及し、次のように結論を書く。

以上において私は多くの問題を提出しながら、そのどれも解きはしなかった。しかしながら私はこれらのことを記したことを悔いはしない。というのはそれらの諸問題はおそらく読者にこれら微妙な疑問に対して反省をうながすであろうから。

ポアンカレ「科学と仮説」 p.239

そして確率の計算が意味を持つのは、仮説なり規約なり、ある程度の任意性を許容する必要がある点、なかでも連続性の仮説が重要であるということ、そして、問題と結果そのものはその仮説と独立である点、その2点が強調される。

私が今回読返したところでは、このパートがこの本のハイライトであった。

本書を読むには、大学初等の数学と物理学をある程度習得していないと理解が難しかもしれない。しかし、私達の知性の働きの拠り所を考えさせられ、知ることはできると思う。


私達は、今、手中にしている能力に対して傲慢になりすぎていないだろうか。一方でこれまで先人が築いてきた科学について軽んじていないだろうか。

科学的な考え方とは、その考え自身が絶対の真実ではなく相対的であることを信じ、その考え自身の限界と前提を明確にしながら、より一般的に通用するように自身の地平を広げていくように不断の努力をする、そのような考え方であることが理解できることであろう。そして、主観と任意性を排除しながら、その基盤に主観と任意性をいかに残しているのか、そのようなことがわかると思う。

科学は絶対と権威と独断を排除して発展し私達に多くの恩恵をもたらし私達を自然の厳しさから解放しながら、おうおうにして独断に陥りやすく時として権威となって私達を抑圧する。知性は私達が世界に働きかける強力な武器でありながら同時に私達を疎外していく。

それは言葉が本来持つ独特の性質なのかもしれない。不思議なことである。


普段、私達が何気なく使っている「科学的なものの見方」とはなんだろうか、その拠り所はどこにあるのか、そんなことにふと疑問に思うことがあれば本書を手にとってほしい。今まさに、そして今後も、読まれるべき良き古典だと思う。

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