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世界の始まりを考える:佐藤文隆「宇宙論への招待」

1988年に発行の本だが、読んだのは2000年の前後くらいなのではないかと思う。著者は言わずと知れた宇宙論・相対性理論の第一人者だし、多数の一般向けの著作があり、近づきがたい理論物理の不思議さと面白さを長年発信しているので、「物理は苦手」という人の中でも、名前だけなら知っているという人も多いのではないだろうか。

例えば、息子や娘が大学で理論物理学を志すことになって、その世界の面白さを少しでも知ってみようか、息子や娘に内緒でちょっと勉強してみようか、飲みに行ったときの共通の話題にもなるかもな、と思うかもしれない。あるいは、大人になってみて父親あるいは母親のことを少しでも知ってみようか、飲みに行ったときの共通の話題にもなるかもな、宇宙物理ってなんだろう、とふと思うこともあるかもしれない。

まぁ、そんなことはあまりないだろうけれども、そんなことを思って Amazon で検索してポチるならかなりの確率でこの人の本を手にとることになるだろう。

本書は少し古いかもしれないが、ビッグバンやインフレーション宇宙と超弦理論までカバーしつつ、ニュートン力学とその発想、背景、歴史、哲学、そして、科学の知について相対的にとらえる視点を提示する。今日、パラパラと読み返してみて、最新のファッションを身に着けるというより、その底にあるコンセプトを理解するといった点で、この本はとてもよい本だと思った。

上に書いたスペシフィックなシチュエーションでなくても、特にニュートンの法則に少しでも興味があれば前半の第一部だけでも楽しめることだろう。

第一部がニュートンのプリンキプアを軸に論を展開し、まつわるエピソードを交えながら、現代科学のよって立つ考え方を解き明かす。第二部はビッグバンと4つの基本の力を統一しようとする現代理論物理について述べていく。この2部の構成によって、宇宙観と物理学の変遷が際立つように書かれている。

第二部の「はじまりの必要性」と題する7章が面白く、8章「存在と階層」、9章「存在と状態」10章「存在と認識」に広がり、繋がっていく様が面白い。

「宇宙にはじまりがあったか?」という問は決して終ることがない。「これがはじまりだ」と言われても、必ず「その前は?」との疑問が起こる
(略)
最も理解しやすいのは、「元に戻る」という円環である。
(略)
他の方法は「その前も同じようであった」とする定常観である。
(略)
いずれの場合でも存在としては無限であっても、内容が有限のものにたどり着けば、われわれは一種の安堵を得るものであることを教えている。
「はじまり」問題からの別の脱却法は、問われている存在そのものを無数の類似のものの一つに解消してしまうことである。そうすれば、個々の存在のはじまりなどどうでもよいという気になる。

佐藤文隆著「宇宙論への招待」p.147-148

あとがきの中で「第二部はまったくの未完であり、一つの問題提起と受けとっていただきたい。」と書かれている。今流行りの「解りやすい解説」というわけでもないし、結論を急ぐ風潮にはそぐわないかもしれないし、最新のバズワードの豆知識というわけでは全くないが、むしろ、そこから現代を俯瞰してみるとよい論点になると感じた。


この本を読むと、現代の科学技術の基礎となるニュートン力学の背後にある考え方に目を向けることになるだろう。

私たちが生きる場としての宇宙から「意味」を取り去り、世界がどのようにあるのかを徹底して追及しようとすることで導入されたのが、無限に広がる均質な空間として3次元空間であり、過去から未来へ無限に均質に流れる時間であった。そしてそれは、目に見えるもの、見聞きすること、私たちが経験する事象の背後に客観的な真実があるはずだ、という考え方でもある。

私たちが目にし見聞きする対象は場所によって時によって変わるものだ。同じリンゴであっても、それぞれのリンゴは形も重さも違えば味も異なる。色だって違うし、叩いたときの音も違えば、放り投げて地面に落下するまでの時間も違う(*1)。しかし、それらの違いは個々のものに内在する性質によるわけでもなく、世界や人間や神が実現しようとする何かの目的によるわけでもなく、自然の摂理、すなわち世界のどこであってもいつの時であっても変わらない原理原則ー形式によるものであるはずだ、という信念なのだ。

デカルトが見抜いたように、この信念が持っている汎用性(どこであってもいつの時であっても通用する性質)によって科学技術が目覚ましい発展を遂げ、私たちに多大な現世的な恩恵をもたらすことなったことは言うまでもないし、現に私たちはその恩恵を享受しているわけだ。

真理と現実の間、抽象と具象の間を行き来することで科学技術は発達してきた。真理に対して批判的に接するならば、そのような運動は必然的なものになるからだ。

一方でこのように考えていくと、私たちが価値を感じる私たちの命、多様性や複雑さを増し、ダイナミックで恒常的な私たちの生命の活動も、人間の持つ価値観と意味を排除していけば、単なる自然のなりゆきでしかないと理解できる。そして、私たちが生きる場としての時空間、つまりは150億光年というとてつもない広がりを持つ宇宙、星雲・超新星・パルサー・恒星・惑星・中性子星・白色矮星・ブラックホール・ダークマターといった登場人物がドラマを織りなし、重力と量子と空間が支配するこの宇宙でさえ、空間と内部の次元さえも互いに異なる無数の宇宙の中の一つでしかないと理解できる。

私たちは偶然にそこに放り込まれただけであり、私たちの存在は無限小で無意味な刹那の現象であると意識せざる得ないことであろう。しかし、その中で生まれて、泣き笑いしながら生き、やがては死んでいく、そういう私たちであることは依然として動かしがたい私たちにとっての現実である。

「自然はどのようにあるのか」ということを考えたときに、それまで独善的な「絶対」であった宗教を退け、無機質で均質な絶対空間と無限の時間を導入した。それは自然の神からの解放であったとも考えられるが、むしろ、人間中心の視点から神が中心の視点になったのかもしれない。

そこからさらに真理を追究していくと、相対的な時空間と量子論となる。これは個々の人間の経験する物理現象は同等であるということであり、同時とは個々の人間にとっての同時であるということであり、個々の人間が観測することも世界の一部であるということでもある。そして、どこかで均質な宇宙が生まれ広がり冷却していく過程で今私たちが生きる宇宙となったと説明されるようになった。

つまり、始まりもなく終わりもない均質で無限で私たちが関与することのない人間不在の視点から、始まりがあり私たちが経験し私たちが関与する人間中心の意味のある視点となったわけだ。

しかし、そのつきつめた世界は、私たちにとって想像しがたい10次元とか11次元といった空間なのだ。真空の中でそんな空間が無限に泡のように発生している。私たちが生きる世界は、そのなかで、たまたま各定数がバランスよく次元が折りたたまれた3次元空間+時間となった、無限に生まれる宇宙のなかの一つという理解だ。だから、そこに私たちが生きる意味は無限小×無限小×無限小の小さいものとなっていく。

「だからこそ、私たちが今ここに生きていること、そのことが奇蹟なのだ」と考えてもいいし「ということは、私というそのものが幻想であり、意味のない些末な現象にすぎない」と考えたってかまわない。

今ここに生きる私たちにとって直面する問題が切実な現実であることには変わりはないのだから。

見聞きできる世界の背後に真理があるはずである、しかし、真理が私たちにとって意味のあるものかどうかはわからない。真理が真に客観的であって、つまりは私たちがいるといないに関わらず真なものであるならば、あるいは個人個人の経験以前の真なものであるならば、一人ひとりの私たち自身と関係ないものでなければならない。考えてみれば当たり前の話だ。

だからといって悲観する必要はない。生きる意味は、私たちが死ぬまで生きていくために各々が見出せばよいのだから。


私たちはどこから来てどこへ行くのだろうか。


■注記

(*1) このように紋きりで書くと不思議に思う人もあるかもしれない。しかし、現実は次のようなことが経験される。

あるリンゴをイギリスの片田舎で放り投げて地面に着地するまでの時間を測定する。同じリンゴを日本に運んで、同様に放り投げて地面に着地するまでの時間を測定すると、これはイギリスでの測定結果と異なるはずである。放り投げるときの条件(重力の方向に対する角度や投げるときに与える力)が同等であったとしても、地表の下にある地盤の密度や緯度が異なることによる地球自転の効果、またイギリスから日本に運ぶ間にリンゴから水分が失われるなど、さまざまな無視できない効果がある。

日本の様々な地点での重力の差や、なぜ重力が異なるか、という解説について国土地理院のサイトを読むとよいだろう。

地上重力測量 | 国土地理院 (gsi.go.jp)

このような個々の差分を、リンゴそのものに帰する=このリンゴは特別とかリンゴごとの個性がある、として説明することもあれば、場所に帰する=日本あるいはイギリスのどこそこはスピリチュアル、として説明する向きもあるかもしれない。しかし、独善的に陥らず、より汎用的で実証的ですなわち実用的に説明するには、科学で説明することが王道だ。すなわち、質量と重力の法則だ。

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