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数とはなんぞや!:吉田洋一「零の発見」

先週に法事で娘夫婦と孫娘に久しぶりに会い、すでに個性を発揮する1歳8か月の孫の成長に驚くとともに、人間が数を数え始めるのはいつごろで、それが数として認識され始めるのはいつごろなのだろうか、そして、零を発見するのはいつごろだろうか、それは自然に人間が世界を認識する形式として備わっているのだろうか、と不思議に考えていた。

騒がしい娘の一家が3階の寝室で寝静まった晩に、リビングでワイン片手に心優しい連れ合いの学生時代の話を聞いていたら、厳しかったという数学の女先生の思い出を語ってくれた。次のような問答があったそうだ。

先生:「数(すう)となんぞや」
妻:「はい!...えーと、か、かず(数)です!」

あんただったらどう答える?と訊かれたが、もごもごと「うーん、それは難しすぎる質問だなー。」と口ごもるばかりだった。

自然数、整数、分数、有理数や無限小数、無理数、実数、複素数、代数的数、超越数、そして切断と連続、無限の密度、級数、n進数、デジタル表現、打ち切りと割り切り、フーリエ変換、ラプラス変換、Z変換...初等の数学にまつわる話だけでも言い出したらキリがない。というか高等な数学はさっぱり知らない。

なにしろプリンキピア・マテマティカ (Wikipedia) で、1+1=2が正しいことの証明に数百ページも費やすというほどだ。一番単純な整数でも難しいものだ。

数といえば、ものの数を数えることから始まる。

英語は数えられる名詞と数えられない名詞を区別する。たしかマーク・ピーターセンの「日本人の英語」に書いてあった覚えがあるが、 "I eat a chicken." と言うと、羽もむしっていない鶏を一羽をそのまま血だらけになりながら食べている恐ろしい光景が目に浮かぶそうだ。「鶏肉を食べる」なら a をつけずに、I eat chicken.と言わなければならない。最近は、英語が世界共通語となったおかげで、英語ネイティブな人以外 の英語スピーカーが多くなっただろうから、時制も仮定法も丁寧表現(*1)も、the をつけるかどうか、そしてこのような C/UC の区別、なんかもメチャメチャになってきている節もあるけれど。

日本語の場合は、そのような区別はないように思うかもしれない。しかし、同様に、そもそも数えられるかどうかというのは問題だし、ウサギは一羽二羽、牛は一頭二頭、車は一台二台と数えるし、課題は1点2点、「一人前の人間が1人と半人前の人間が1人」、何を数えているのか、数える単位はなにか、ということが常に意識されるようになっている。

日本語で鶏を一羽、家族で食べた、といえば、クリスマスかサンクスギヴィングかで鶏をまるまるローストして切り分けて大人数で楽しく食べるところを思い浮かべるだろうし、鶏を半身食べた、と聞けば、四国の名物の骨付き鶏を思い出すだろう。鶏を1ピース食べたと聞けば、KFC、1串、と聞けば焼き鳥、鶏を1枚食べたと聞けば家のダイニングキッチンでたぶん胸肉、1本食べた、なら山賊焼だろうか。まぁもちろん文脈によるけれども。

文脈は当然、重要だ。たとえば、飛行機が離陸して高度を上げていき水平飛行に達するとアメリカ人の客室乗務員が機内食をワゴンで配り始める。顔いっぱいの笑顔で "Chicken or Beef?" と訊かれて "I am a chicken" と元気よく答えたって、ヘンな顔もせずに、ぱっと鶏のグリルとパスタのパッケージを渡してくれるだろう(*2)。ちなみにこの選択肢の場合、Beefは牛丼のことが多いような気がする。私はたいてい洋食のほうを選択する。

話がだいぶんそれてしまった。

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数が人間に役に立つ道具であることは異論はないだろう。

ものの有り無しは早いうちに認識しているだろう。「あれ?リンゴがない、さてはお父さんが食べたな。」とわかるようになる(*3)。そして、リンゴが1個ある、2個ある、と数えることができるようになる。3人家族で1人1個づつリンゴ食べるなら3個のリンゴが必要だ。1個150円のリンゴなら450円の支払いが必要だ。

しかし、そこから「リンゴが0個ある。」と考えられるようになるには、もう一つ高い抽象化が必要だろう。

位取り記数法を可能にする 0 は、0個ある、という概念が可能にする。そしてこの記数法によって、大小の比較を容易にし、加算と乗算を容易にし、筆算を可能にし、紙と印刷技術の発達によって自然科学の急激な発達が促された。また、2進法による位取り記数法によって電子計算機とコンピュータが可能になったと言ってもよい(*4)。

そして、空間と時間、関係や順序、ものの性質を人間が認識する形式であり、その抽象的な数そのものを、対象するものから切り離して改めて対象として考えることで、もともとの対象の性質がよりよくわかるようになる。よりよくわかる、とは、属人性がなくなる、どこでも再現性がある、未来を予測できる、過去を検証できる、などだ。

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しかし、数は、そのような実用的な観点だけではない。無限と連続の不思議さを味わう楽しみもある。

0ではない 0に限りなく近い無限小を考えることで連続性を理解でき、微積分ができるようになる。そして、位取り記数法をべき無限級数と考え一般化することで、超越数が現れてくる。π や e など、数によってどうやっても表しきれない数があるというのは不思議な話ではないだろうか。 

Aにたいして加法と乗法を定義したとき、A に含まれるあらゆる a に対して、a + 0 = a かつ a × 0 = 0、という性質を持つ A の要素を 0 と定義する。こういう具合に一般化して考えることで、0 = 無という具体的な意味をなくして扱うこともできるだろう。 それが人類に役にたつ話なのかどうかは知らない。

「数(すう)とは何ぞや?」・・・結局、私は上のようにグズグズと考えたうえ、ゼロ回答。答えることができなかった。なんでも即答することが大事、というマッキンゼー式で答えるなら「数(かず)」と答えるのがよいだろう。

とりあえず退屈な授業に笑いをもたらし、授業の理解度を高める効果があるわけで、何も答えないよりもマシなのだ。

無限を考え永遠を願いつつ、有限な時間と空間のうちに生きる私達。私達はどこから来てどこに行くのだろうか。


■ 注記、あるいは余談(*5)

(*1) formality と記憶している。英語も口語もあれば文語もあり、新聞もあれば公式文書もある。スラングがあれば丁寧語もある。

たとえばフランス語由来の長い単語や普段滅多に使わない単語を使ったり、婉曲表現を使ったり、長い文章、例えば正確に意味を限定したり立場を明らかにするなどで面倒な係り受けを複雑な構文で一つの文にまとめたり、そんなふうになればなるほど、丁寧度や公式度が高くなる。そのへんは日本語と共通だ。大事なのは一つのメッセージの中で、 formality のレベルを合わせておくことで、一つの文書で、カジュアルな砕けた表現と丁寧な重い表現が混じるとヘンになる。

formalityをうまく使い分けれられるようになると、紋切り型の冷たい要求に相手がビビッて対応してくれたり、親近感でやりとりがスムースになったり、丁寧な物言いに対して初めての人でも気持ちよく丁寧に対応してくれたりする。逆に、会ったことも会話したこともない人に不躾なメールすぎて、誰?こいつ?、と相手にしてもらえなかったり、丁寧な表現すぎて、何してほしいんだかわからないし、何この単語?めんどくせえなまぁいいか、とトンチンカンな答えが返ってきたりもする。

下位者から上位者への文章は長く丁寧に、上位者から下位者へのメッセージは短く端的、というのは万国共通かもしれない。


逆もまた真なり。「私が君の長文メールを読む時間、それだけ私の人件費がかかっていることを、君は分かっているのかね?2行で書け、アホ。」と怒られたかと思えば、毎週の上位者からのメッセージは、一言で言えば「いい調子だ、このまま頑張ろう、未来は明るい」なのに、読むのに30分はかかるような長文の訓示で、部長から、事業部長から、部門の役員から、HRの役員から、社長から、会長から、といった具合に何通も、金曜日の一日を社内SNSのメッセージを読むだけで終えてしまいそうな、そんな部署もあるかもしれない。


(*2) 日本語に訳すると

「チキンかビーフ、どちらになさいますか?」
「私はにわとりです!」

という会話になっているわけだが、この場合は文脈というより、国際線の乗務員なら変な英語に慣れているだろうし、仕事を早く片付けたい一心もあるから、笑顔で対応してくれるだろう。私もこんな類の間違いをよく犯しているように思う。それにある程度以上の英語力を持ってくると逆に完璧に間違った用法でもって相手を怒らせたり、ぎょっとさせたり、誤解を生んだりするものなので、誰も人のことを笑うことはできない。

ちなみに、日本語でも「チキン」といえば、「臆病者」あるいは「臆病」という意味が浸透していると思う。この場合は、a chickenは名詞で「臆病者」、冠詞なしの chicken なら形容詞の「臆病」という意味になるのだろう。

世界の大半の人の英語は怪しいものだし、多くの人は、日本人の英語を広める、くらいの気持ちでいてもいいだろう。日本人は1億人いるのだ。

向上心は大事だが、数と同じく割り切りと打ち切り、そして勇気は重要だ。

(*3) さてはお父さんが食べたな、という部分はだいぶん成長してからわかるようになるので、ちょっと誤りである。

(*4) 今日のコンピュータは 1 と0を電圧に対応させて2進数で実装されているので、デジタルというと 1 /0の世界と思われがちだ。しかし、冷戦時代のロシアのコンピュータは正負の電圧と0Vとを使い 3進数で実装されていたという。また、通信の世界では、電圧のレベルと位相も取り入れて 1 シンボルで 16 とか256 あるいは 4096まで表現できるシステムもある。もっとも、それはデータの伝送の部分だけであって、それを支えるのは CPUやDSPの 1/0 の 2 進数の高速演算によるのだけれども。

(*5)本文も余談みたいなものだろう、というツッコミは無しで。


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