雑記#3ーゴミ山の少女は無邪気に笑うー
どうも、市場を「しじょう」と読むか「いちば」と読むかで何となく人となりがわかる気がするコイケです。
#しじょう派
#お金好きそう
先日、えほん大賞に出品したのですが、その作品に込めた思いなんかを語っていますので、良かったら下記リンクからどぞ。
今回は夢とか希望とか寄付とか募金とか、
まぁ青臭いこと書きたいと思います。
僕が高校生の時に思った事とか決めた事なのでご容赦を。。。
■ゴミ山の少女は無邪気に笑う
高校生の頃、なんの気なしにテレビを見ていたら、とあるドキュメンタリーが流れていました。
特に見たいわけでもなかったけれど、ぼーっと見ていました。
そのドキュメンタリーはどこかの国のゴミ山で働く少女(10歳くらい?)の密着でした。
父は無く、母は病に臥せっていて、長女である少女が家系を支えていました。記憶は曖昧ですが、1日の稼ぎは数十円程度で、家族5人を養うといった感じ。
ゴミ山付近にボロボロの家があって家族全員ぎゅうぎゅうになりながら暮らしていました。学校なんて行ける筈も無く、ただただ毎日ゴミ山で働いていました。
こんな酷い生活をしている子供もいるんだなと思いながら見ていましたが、とても違和感を感じました。
それは少女表情に悲痛さがないのです。なんならめっちゃ笑顔でした。誰がどう見ても悲惨な生活なのにも関わらず、カメラを向けられる少女は、屈託のない無邪気な笑顔を見せるのです。
■笑顔の正体は何か
日々の生活だって苦しい筈なのにあんなに綺麗な笑顔が出来るなんて理解できませんでした。
一方で、誰がどう見ても豊かな生活をしている僕たちが、何だか淀んだ顔で生きているのは何なんでだと思いました。
ゴミ山の少女にインタビュアーはある質問をしました。
「夢はなぁに?」
少女は満面の笑みでいいます。
「お医者さんになってお母さんの病気を治したい」
僕はそこでようやく気付きました。
そうか夢や希望はここまで人の心を踊らせるのかと。
高校生にもなると、大学か就職かの選択を迫られる。18歳にしてもう人生の選択をしなければいけないわけで、大学に行ったとしても22歳、待った無しで人生を決めなければならない。
そこで一生の仕事が決まってしまいかねない状況で、大人たちを見てみればどうにも楽しそうではなくって、このまま自分もああなるのかという絶望感に、未来に希望など持てるはずもありませんでした。
小学校の頃は、何にでもなれると思っていたし夢や希望があったに違いなく、高校の時の自分よりは澄んだ表情だったんだと思います。
■僕たちは選択肢がある
ゴミ山の少女の夢は奇跡が起きない限り叶うのは難しいだろう。
しかし、僕たちはと考えれば、少女よりも確実に何者にでもなれるはずです。
そう思った時、僕は申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。
こんな恵まれた環境に身をおいているのにもかかわらず、ただ何となく生きていくなんて申し訳ない。
そこから興味のあることは全部やってきたと思います。高校時代は、料理人とかいいなと思ったので家の晩御飯を3年間作ってみたけどこれは違うと方向転換したり、卒業後も絵も書いたしアパレルもやったし、映像作ったし、文章作ったし、投資したり本当に何でもやってきました。
んで30過ぎてやっとこさ、やりたいことが定まっり、今こそ結果を出しにいこうと鼻息を荒くしているわけです。
#死ぬほど時間掛かった
#こっから巻き返す
#大器晩成型らしい
今までの人生、右往左往しましたが、
いつも夢やら希望やら、いい年こいて青臭いと笑われようが捨てずに来てしまいましたが、
今が一番楽しいって思うんです。
■偽善と思われても
今が1番楽しいという感情を持てているのも、あの日に見た、ドキュメンタリーのゴミ山の少女のお陰で、ずっと恩返しをしたいと思っていたりします。
僕が年間一万円は募金すると決めているのもそれです。
もうあの子は大人になっているはずですが、そういった境遇の子は昔に比べて減っているという統計も出てはいますが、まだまだいるはずなので、たった一万円でも救えるかもしれないならやったほうがいい。
昔、島田紳助さんがTVでいっていました。
「偽善だろうが、やったほうがいい」
本当にその通りだと思います。
日本人は寄付や募金をする人の割合が著しく低い国です。
寄付や募金をした時、幸福度があがるそうです。
一説には、寄付や募金を行うときの幸福度は給料が2倍になった時と変わらないという研究データもあるそうです。
この先、どんどん貧しくなっていく日本。
寄付や募金は難しくなるかもしれないけれど、助け合うという流れが作れたらいいなと密かに思っています。
その辺りはまたいつか書きたいと思います。
長々とすいませんでした。
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