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vol.046「夏の公開3作品:映画は省略の芸術である:「次の舞台」をどうするのか問題。」

皆さん、映画を観るとき、どんなことを考えるでしょうか。
私の場合、「物語を作っている構造は何か」「前作と変えてきたところはどこか」といった観点でみることが多いです。


1.映画は「省略の芸術」である:きみたちはどう生きるか。

◆物語には必ず「構造」がある。

仕事帰りとか、なにかの移動で、音声コンテンツ(いわゆる自己研鑽系の)を聴く感じでもないとき。映画の、特にクライマックス→エンディングの部分を聴き流すことがあります。
特によく再生するのが『バックドラフト』と『ショーシャンクの空に』。いずれも'90年代前半の公開で、Amazon Primeで無料視聴できます。
この二作品の共通点は、「とらわれていた主人公が自由になる物語」であること。ただ、その構造はかなり違います。

前者は、(一見)ふまじめな、困難からすぐ逃げ出しがちな劣等生タイプ。後者は、見るからにまじめで有能とわかる、(一見)優等生タイプ。
前者は、人間らしい欠点、わかりやすさ、愛嬌を持ち合わせる。後者は、好かれもしたが、内面を推し量らせないところがある。
前者は、昔からよく見知った相手との、一対一の相克。後者は、すべて初対面の相手たちとの、一対多の干渉。
前者は、自由を持てあます男の話。日常、規範となり、社会に復帰する話。後者は、自由を奪われた男の話。非日常、ルールが無い、社会から逃れる話。

自分の内側の心理的な壁を突破したうえで、帰ってくる物語と、自分の外を囲む(文字通りの)壁を突破し、帰ってこない物語。(自由へと帰っていく、とも言える)

以上は、勝手に構造を抽出して、対比してみました。けれど、そもそも、大手配給会社で映画化されるような作品はある程度似通うものです。

冒頭に真犯人が判ることはすくないし、まったく救いや報いの無い悲劇はない。メッセージの無い物語もない。
少なからぬ予算を投下して、興行で回収する必要があるから、脈絡のない展開にはならない。
主テーマ曲がずっと流れながらエンディングに向かう、というのがもうひとつの共通点で、だから移動時にも観やすい・聴けるのだと思います。

※『ショーシャンク~』の原題は The Shawshank Redemption 。redemption は辞典によると「①救済、解放、救い、(キリストによる)罪のあがない ②(株式・債券などの)償還、買い戻し」等とある(出典:ウィズダム2)。物語のオチを考えると、①②両方の意味を込めたのかもしれない。

物語には必ずこの「構造」があります。
逆にいうと、たとえば映画を観終えて、「よくわからなかった」「スッキリしない(後味が悪い)」となるのは、「構造」がしっかりしてないからだと考えています。

◆「構造」が似かよう現象

まったく別の物語の、構造が似通う、ということは当たり前に見つかります。たとえば、絵本の『おおきなかぶ』と『てぶくろ』の例。

① 基本構造が同じ:舞台を1か所に限定し、参加者が1人ずつ増え、「いつ終わりが来るか」を扱っている。※「解決」に向かうか「破局」に向かうかの違いがある。
② 予測を裏切る:「大きすぎるかぶ」に、加わる応援はどんどん非力になる。けれど最後には抜ける。「小さいはずの手袋」に、入る動物はどんとん大きくなる。けれど最後まで破れない。
③ 数式で表せる:どちらも一次関数、四則演算(引き算と足し算)で表せる。

「音楽的に聴こえる音符の並びはすでに出尽くしていて、ある新曲はかならず過去の楽曲のどの節かに似る」という話を読んだことがあります。この説の真偽のほどはわからないけども、ある物語は必ず世界中のどこかにある別の物語と似ている、とは言えそうです。

絵本だと、参考にするなり真似たりがあり得るけど、神話や伝説の類でも起きる。
イザナギ・イザナミと、ペルセポネ・デーメテール。十二支と、黄道十二宮。
十二支に動物を当てはめたのがいつ頃か、本で調べてはいないけど、少なくとも紀元前(春秋戦国)のことらしい。
黄道十二宮はメソポタミア発祥だそうで、紀元前、春秋よりもっと昔だろうか。いわゆるシルクロードを通って東西間の文物が伝播するより前に、それぞれ出来上がっていたのだろうし、人間の想像することは似通うものだ、ということだろう。
だけど、「見せ合いっこしたんじゃないの?」と思える。シルクロードよりもっと昔に、秘密のワープホールでもあったのか、と想像したくなる。

◆宮崎駿の露出と秘匿。

『君たちはどう生きるか』、観てきました。映画館に行くのがたしか4年以上ぶりぐらいです。

ネット上の評判では「難解」「何の話かわかりにくい」等とも見かけて、夢に出てくるような断片的な(ある意味で支離滅裂な)ものを予想しながら入場。結論はそんなことはなく、面白かった。

同じく、言われているように、これまでの宮崎作品のエッセンスが少しずつ入っている。女性への敬慕(畏れ)の強さ、不気味さ滑稽さは、宮崎監督がより好きなように作った結果だと想像しました。
"世界各地の互いに関係のない物語"とはちがって、同じ人の作品が生まれるとき、「どのくらい前作に似ないようにするか」「どの程度、共通のテーマを持たせるか」は、毎回苦しんで悩むのでしょう。

エッセンスは入っている。構造は、最大限引いた視点でみると、共通してる。途中の展開やシーンは、似てないところも多い。あえて大胆にいうと、商業向け映画というよりは、漫画版『ナウシカ』の世界観に近いと感じました。

最大の特徴は、物語の進行から終わり方まで、【説明を省いた】ことでしょうか。通常の映画は、観終えたときの「満足、納得」を目指して作られる。今作は、観終えたとき「疑問を持つ」「考える」ことを意図して作ったのだろうか。
映画は、「何を描くか」ももちろん重要だけど、「何を描かないか」で決まる。「省略の芸術」なのだと、改めて思わされた。

「宮崎作品が今夏公開」ということ自体を知らずに(失念してて)封切りされてから気づいて観に行きました。いっさい宣伝せず、エンドロールで声優陣の豪華さにびっくり。もし大コケしたらどうするつもりだったのか。
いろいろ解釈を試みるけど、天才・巨人(宮崎駿氏、鈴木敏夫氏)の考えることを理解するのは難しい。なにしろ、なるべく内容の下調べなしで観るのがいいと思います。

2.次の舞台を用意する苦労:宇宙か時間か神か科学技術か。

続いて、インディー・ジョーンズ、ミッション・インポッシブルを観てきました。

◆「2次元表現は変えやすい」説。

『ドラゴンボール』は、何度かルール変更を行うことで、新鮮さを保ちつづけました。前提となっている約束事の取りこわしです。

宝探しの物語→武道大会(目標の変更)→屋号のライバル店登場(互角の敵)→「魔族」登場(人間の枠外の敵)→「神様」登場(大魔王より強い)→青年の部(トレードマーク「小さい」が消失)→実は宇宙人(前提の変更)→あの世行き(神様の神様登場)→主人公より強い敵→宇宙行き(「宝探し+強敵」のミックス)→主人公変貌(新たな種の起源)→さらに強い「人造人間」と未来から来た少年(時間)
(読んだのはここまで)

ヒーロー物の、次の課題をどう創出するか?」は、永遠のテーマ。何度かのルール変更で、状況をリセットして、長く人気を維持した。鳥山明さんは本当にすごいと思います。
と同時に、「漫画だから出来た」と言うこともできる。※「ホイポイカプセル」にしてからがそうですよね。実写で描こうとすると大変です。
筆先で描き出せる漫画の、連載ものだからこそ、大きくなり小さくなり、地球から飛び出し、あの世とこの世を行き来することもできる。
『ドラゴンボール』では、宇宙(異星人)、タイムトラベル、神、人造人間(人工知能)を取り扱うことができた。

◆「次の舞台」を用意する苦労。

実写の、現実世界を前提とした映画は、そうそう"ルール変更"ができない。
物理の法則を無視したり、超常現象、超越的な存在を登場させるのも簡単ではない。主人公が空を飛ぶなら飛びそうだと思わせる仕掛け、超人的な強さならそれらしい理屈(ロボットだとか薬の副作用で体質が変わるとか)が必要になる。

『インディー・ジョーンズ』はその点を、(現代でなく)すこし昔の時代のお話+聖書や伝説を背景とすることで、説得力を確保した。
それても三作目で"キリスト"、つまり「神(的なもの)の頂点」を登場させたことで、「次の謎を何にするか」のハードルが上がった。時代設定が現代に近づくことによる世界観構築の難しさもついてまわる。
結果、四作目では「宇宙(異星人)」を舞台に選んだ。敵はナチスからロシアへと変わった。
では今回、五作目はどうするのか。何のカードが残ってるんだろう、というのが、映画館に入るときの最大の関心事でした。

『ミッション・インポッシブル』(以下M:I)ではさらに条件が厳しくなります。
同作品では、超常現象を許容していない。異星人が地球に襲来したりもしない。あくまで現代文明で、さまざま工夫を凝らして考えだした小道具と、超人的な(しかし生身の)主人公と、"もっともらしい敵"で物語を構成している。
冷戦がとっくに終わり、敵のバリエーションをかなり使った(内部の裏切り者、ロシア、武器商人、テロリスト)。任務=争奪する物も、情報、ウィルス、最後まで分からない謎のブツ、核兵器発射コード、プルトニウム、と変遷。「テロリスト」「核」はもう使えない気がする。
次の任務はどんなものを設定したのだろう。特に「敵の親玉」をどうしたのか。同じくそんなことを考えながら席に座りました。

(注)M:Iの「説得力を持たせる難しさ」はもうひとつある。スマートフォンが登場したことで、「薄型で、携行できて、通信や撮影中継のできる超小型コンピュータ」への驚きがなくなってしまったからだ。

「次の舞台を用意する苦労」は、とにかく難しいものなのだ。
今回、それぞれどうだったのか?は、ネタばれを避けるため触れずにおきます。

◆仮に順番をつけるなら、という話。

今回の敵やお宝について(内容に言及するのは避けつつ)、「両作品に順番をつけるとしたら」を、アソビで考えてみました。

「舞台設定の論理性」の観点でみると、インディー・ジョーンズが上。
前述したような、「小型化」「宇宙旅行」「四次元」「タイムトラベル」「神(または悪魔)」「人工知能」、、、の中から、一回一択で決めたのだと思えた。

「現実味、本当らしさ」の観点でみると、「M:I」が上。
時代背景、トレンドを捉えていて、「なるほど、そこへ行ったのか」と納得させられた。純粋に「敵/任務」でみても、"超常現象を許容してない"制約下で、選択可能なテーマを設定したと理解した。

それを職業にしてるわけでもない(=リスクを取ってない)人間の"映画評論"は痛々しいもので、粋ではないけど、「評価軸を自分で設定して、順位を勝手につけてみる」ことは、訓練として意味はあると考えている。

◆その物語の「チャレンジ度」。

映画でも小説でも漫画でも、「その物語のチャレンジ度」という概念がある、と考えています。
今回、M:Iの劇中で黄色いフィアットが登場。黄色フィアットといえばルパン三世です。暗闇の、心のなかで思わず「カリオストロの城やないか!」と叫んでしまいました。
M:Iがルパンを真似したわけはまさか無いのだけど、この二つを比較してみたことがあります。

『カリオストロ~』の特徴。

◇リーダーと有能なメンバーで構成される。メンバーの特技はそれぞれ異なる
◇チームは、自由行動で、潜伏して標的を追う
◇チームは、時に変装して行動する
◇激しいカーチェイスや飛行シーンが登場する
◇宝物は、侵入困難な、非常識な場所にある
◇超小型酸素ボンベ、指輪に擬した通信機、ワイヤー付きロケットなどの小道具が使われる
◇明確なヒロインがいる
◇敵のボスは、はっきり分かりやすい悪党である
◇チームは、必ずしも仲良しグループではない
◇途中で一度、リーダーが大ピンチに陥る。
◇ハッピーエンドで終わる

これらはM:Iとそっくりです。

逆に、M:Iとの差異を挙げておくと、

◆ルパン一味は、組織に所属しない。
◆ルパン一味は、正義の味方ではない。
◆ルパンには、尊敬する上司、頼る上司はいない。

このうち、二つめは、「観客が主人公たちの味方をする」という点では同じ。三つめは、その代替として、銭型警部がいる。ある意味で最大の、良き理解者だ。

『カリオストロの城』は『スパイ大作戦』だった、というのは冗談だけど、「組織に所属せず・正義の味方じゃない」ことはすなわち、『カリオストロ~』が『M:I』よりも、娯楽作品としては上、狙った難易度として上である。チャレンジした作品である、と考えることもできます。


人気映画、自分でも好きな作品に、評価軸(切り口)を設定して、勝手に順位をつけてみる。または構造を取り出して、抽象化してみる。

これらは、尊敬する人の長所短所を見つけてみる作業に似ています。なぜそうなるのか、理由背景を推定する行為に似ています。
この人の弱み、苦手なことはなにか。思考の癖はなにか。偏りはなにか。どういう(非論理的なゾーンでの)こだわりを持つ人か。どこが人と衝突しそうか。誰かから嫌われるか敬遠されるとしたら何の要素か、等と推し量ってみる。

これらは別に、その人をけなす、貶(おとし)めることを意味しない。「好意を持つ」「敬意を抱く」と「無批判である」「盲信する」のは別のことだ。
こういった理屈を考えること、「いま起きてる現象に説明をつけてみる」ことは昔から好きで、ひとりで暇なときに、もしくは信頼を置く相手と1対1で話すときにやっています。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

(おまけ)『カリオストロ~』では、少なくとも2か所、誤記(描き誤り)のカットがあります。
・冒頭の、カジノから逃げるシーン。敵の車のボンネットの「ごくろうさま」が「ごくろうさん」に変わっている。
・三つどもえのカーチェイスのシーン。ヒロインの車のナンバープレートが「F-14」「R-33」「F-73」とカットによって変わる。(※R-33はルパンたちのナンバープレート)
観かえす機会があったら、確認してみてください。

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