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"贈与論"の読書感想文

贈与論を読んだ。世界中の人間社会で見られる、人からものを貰ったりお返しをしたりするが、それを社会学的、社会人類学的に最初に研究したモースの本。人類学は研究対象の社会にどっぷり浸かって一面的になりがちだが多数のサンプルを比較する形で迫った名著。

未開あるいはアルカイックと言われる社会において、受け取った贈り物に対して、その返礼を義務付ける法的、経済的規則は何であるか。贈られた物に潜むどんな力が受け取った人にその返礼をさせる。

というように、未開の社会での贈与の力と影響を序盤では深掘りする。

アメリカ北西部と北部の諸部族やメラネシア、パプア諸島に見出したに過ぎなかった。この他に、アフリカ、ポリネシア、マレー半島、南アメリカ、北アメリカの他の地域など、どこにおいても、クランや家族間で行われる交換の基礎は全体的給付の初歩的な型であると思われた。

しかし、さらに研究を深めていくと、アメリカ北西部やメラネシアの場合のように激しい競争や富の破壊を伴う交換と、契約をする者同士が互いに贈り物を競い合う程度の穏やかな競争を行う交換との間にかなり多くの中間的な形態があることが明らかになった。

一言に贈与といっても、それは"競争"であり、穏やかなものから破壊を伴う激しいものまであるとというのが興味深い。競争の度合いの事例はこの本にいくつも書いてあるが、ここでは割愛。

富が与える名誉や威信や「マナ」であり、もう一つは、贈与のお返しをすべきであるという要素である。返礼をしないと、このマナ、権威、お守り、そして権威そのものである富の源泉などを失う恐れがあるのである。

贈与には、名誉や威信の送りあいがあり、富がそれによって増減するような共同幻想がある。

マホリの法においてとは、明らかに物の結びつきによる法的紐帯は霊と霊との紐帯である。それは物そのものが霊であり、霊に属しているからである。この点から、何かを誰かに与えることは自分の一部を与えることになる。

マホリの例ではあるが、このような考え方は理解できなくもない。

ある人から何かを受け取ることは、その人の霊的な本質、魂を受け取ることになるからである。そのようなものを保持し続けることは危険であり、死をもたらすかもしれない。というのも、そうすることがただ違法であるかもしれないだけでなく、精神的にも、身体的にもその人に由来するもの、つまりその人の本質、食物、動産あるいは不動産などの財産、女性、子孫、儀礼、饗宴などは受け取ったものに呪術的、宗教的な力を与えるからである。

ものには魂がやとり、それを回さなければいけないという幻想を呪術や宗教でコーティングして作ったことは、人間がコミュニティを形成しながら生きてきた中でうまく機能してきたのだろう。

(アンタマン諸島にて)「これらの交換はかなり頻繁に行われるが、地域の集団や家族は別の機会に道具などを自給しているために、贈り物は、発達した社会の取引や交換と同じ目的を果たすものではない。その目的は何よりも精神的なものであり、交換した二人の間に親しみの情をもたらすことになる。贈り物が互いに親近感を引き起こさなければ、すべてがうまく運ばなくなる」

贈る行為は自給できているコミュニティも起きるが、より精神的なものに変わっていく。

贈られた物を受け取らないわけにはいかない。男女共誰もが気前の良さで相手を凌ごうとする。誰が最も価値の高い品物を最も多く与えることができるか。熾烈な競争が行われていた。

このように債権者と債務者の親密さと恐怖の情によって人間関係が作られていく。物質的・精神的生活と交換が打算的でない、義務的な形で行われている。さらにこの義務は神話的、想像的、あるいは象徴的、集団的な方法で表現されるのだ。

ローマ人やギリシャ人はおそらく北方および西方のセム民族に続いて人の法と物との区別を考え出し、売却を贈与や交換から切り離し、道徳上の義務と契約とを分離させ、特に儀礼、法、利益の間にある相違を認識するようになったからである。

歴史の中で、売買を切り離すことによって、人を気遣う煩わしさをなくし、市場、商業、生産の発展を加速させた。

贈与・交換の原則は(クラン間、家族間の)「全体的給付」の段階を超えてはいるが、純粋に個人的な契約、つまり貨幣が循環する市場、本来の意味での売買、特に計算され、名前のついた貨幣で評価される価格の観念には達していなかった社会の原則であると考えても良いだろう。

しかし、まだ貨幣では交換しきれないモノ・コトが贈与や交換の中に残っているのだ。我々の道徳や生活大部分は、いつでも義務と自由とが入り混じった贈与の雰囲気があるが、それは贈与の歴史を辿ると、もともとあったものの残存部なのだろう。

「礼儀」として、招待にはお返しをしなければんらない。ここに古い伝統的基盤の痕跡と古い貴族的なポトラッチの痕跡が見られる。また、人間の活動の根本的な契機、すなわち同性間の競争心、男性の持つ「生来の支配的傾向」が浮かび上がっているのが見て取れる。

「礼儀」には、社会的基盤、本能的基盤、心理的基盤の痕跡があり、これは長い贈与の歴史から繋がっているように思える。

我々はアルカイックなもの、基本的なものに立ち返ることができるし、またそうしなければならない。そうすれば、多くの社会や階級で今尚よく知られている生活と行動の契機が再び見出されるであろう。つまり、公然と施しをする喜び、趣味良く寛大にお金を使う楽しみ、歓待や公私の祝宴をする楽しみである。

贈与と交換の経済は、現在の功利主義経済の枠組みからは程遠いが、我々が本来持つ贈与の意味を理解することにより、金銭的価値と同じくらい生活の中では重要になる感情的価値が理解できるようになるなと思った。



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