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個人が我慢しないほうが成功する時代

フリーエージェント社会の到来を読んだ。今や当たり前になっている世界だが、それを2002年に書き留めていることに驚く。さすが世界で最も影響力のある経営思想家"Thinkers50"に入るダニエル・ピンク。

ビジネスでも、スポーツでも、これまで日本の強みとは、優れた「組織の力」だと言われてきた。一人ひとりは傑出した才能を持っているわけでもなく、体格面で欧米に劣っていたとしても、一致結束した組織の団結力さえあれば、難局はきっと乗り越えられる。それが日本社会の信念であり、美学であった。

皆が金太郎飴のように同質化して、組織の歯車にハマることによって無駄なく駆動する組織が昭和の信念。組織に人が集まり、集まった人々のみが知恵を絞り、粘り強く努力を積み重ね、やっとの思いで何かを成し遂げる。それが「仕事をする」ことだった。

出る杭は打たれるが如く、個性的な才能は得てして認められなかったり、時には煙たがられ、潰されてしまうことすらある。

その中だと出る杭はオペレーションを崩すので、打った方が合理的だった。ただ、現代の日本において、これがどうやら違うよねってのはもう多くの人が気づいていると思う。

「組織」から「プロジェクト(事業)」へ移っていく。仕事はまず組織ありきでなく、顧客や取引先から「プロジェクト」がダイレクトに舞い降りてくる。もしくは経営からトップダウンで、リーダに対し「プロジェクト」のミッションが伝えられ、一定期間内での遂行が求められる。

会社や事業の寿命がどんどん短くなっていることも+富を生み出すために必要な道具や環境整備が小型で安価になったこともあり、主役は組織からプロジェクトへ移る。そして、プロジェクトは集合と解散を繰り返すので、都度適材適所の個人が集まる構図になる。従業員が忠誠心と引き換えに、会社から安定を保障してもらうという関係が崩壊するのだ。

そろそろ、私たちは、組織か、個人かという不毛な二分法から抜け出さなければならない。大事なのは、組織も、個人も、である。

本来組織として動きながらも、個人としての自由や成功を謳歌する二毛作の考え方をするべきだろう。インターネットを使って、自宅で一人で働き、組織の庇護を受けることなく自分の知恵だけを頼りに、独立していると同時に社会とつながっている存在。それがフリーエージェントの姿とこの本で定義されているが、こういう存在は増えている。

ミシガン州中小企業開発センターの推計によれば、アメリカでは、11秒に1社のペースで自宅ベースのミニ企業が生まれている。
オーナーの自宅に拠点を置く企業の数は、全米住宅企業協会によれば、2400万社以上、在宅企業オーナー協会によれば2700万社にのぼる。
控えめに見た場合、アメリカのフリーランス人口は1650万人、臨時社員人口は350万人、ミニ起業家人口は1300万人。つまり、合計すると、フリーエージェント人口に関する「真実にかなり近い数字」は、3300万人ということになる。

(アメリカの昔の数字だけど)個人の会社は増加の一途をたどり、

1996年に行われたある調査によると、「独立契約者の8割以上は・・・他人に雇われて働くのではなく独立契約者になるという道を自主的に選んでいる」。勤務先のリストラなどにより止むを得ずフローランスになった人の場合も、今ではフリーランスがいいと考える人が66%にのぼる。
フルタイムで働いている独立契約者の収入は、組織に雇われている人より15%多い。
独立契約者全体の中で演習7万5000ドル以上の人が占める割合は、給与所得者の場合の2倍に達する。

(アメリカの昔の数字だけど)経済的にも精神的にも良い兆しが見えている。

「フロー体験ーー喜びの現象学」などの著者で知られる心理学者のミハイ・チクセントミハイは、「高度な技術が求められる仕事を自由に行えると、その人の自我は豊かになる」のに対して、「高度な技能が必要でない仕事を強制されてやらされる」ほど気が滅入ることはほとんどないと述べている。
自己実現を成し遂げている人たちを見えば、もっとも好ましい環境下では、仕事に対してどういう態度をとることがいちばん理想的なのかがわかる。高いレベルに到達している人は、仕事を自分の個性と一体化させている。つまり、仕事が自分の一部になり、自分という人間を定義する上で欠かせない要素になっているのだ。(エイブラハム・マズロー)

フリーエージェントは自分の人生のコントロールができる状態なので、幸福度が高いのであろう。フリーエージェント懐疑派の人もいるだろうが、

忠誠心は死んだ:1990年代の企業のリストラや最近のドットコム企業のレイオフ、そして終身雇用制の崩壊により、職場における忠誠心は弱まったと言われている。しかしこれは、必ずしも事実とは言えない。フリーエージェント・ネーションでも忠誠心は無くなっていない。忠誠心の在り方が変わっただけだ。個人が組織に示すタテの忠誠心に代わって、新しいヨコの忠誠心が生まれつつある。

タテの忠誠心ではなく、ヨコの忠誠心に変化しただけだし、

広い領域をカバーする社会的契約がなくなって、労働者は当惑している:オーガニゼーション・マンの時代に当たり前だった労使間の暗黙の契約はなくなった。しかし、フリーエージェントという胸躍るシステムの下で、個人が才能を機会と交換するという新しい契約が生まれている。

古い考え方では、大企業が収益の少ない中小企業より成功されているとされていたが、今大きいことが必ずしも良いこととは限らない。大きな組織に属するのではなく、小さな組織でこの機動力を生かす働き方の方が合理的なことが多い。

人材の流出に悩む企業にとって、「権限委譲」を行って従業員を「つなぎとめる」のは賢明な戦略である:会社を出ていく従業員が増えるにつれて、人材の流出を防ぐための取り組みを強化する企業が増えている。しかし、その結果打ち出される戦略は、間違った前提に立っているために失敗に終わる場合が多い。「権限委譲」という言葉には、組織が権力を握っていて、その一部をご親切にも個人に分けてやるというニュアンスがある。

個人が組織を必要とする以上に、組織が個人を必要としている世界になってきている。この変化を捉えて、経営者は従業員との関係性から見直す必要がある。

歴史上、フローランスという言葉は、しばしば侮辱的な意味で用いられてきた。19世紀のイギリスの新聞は、議場で所属政党の方針に反した投票行動をとる議員のことを「フリーランサー」とよんだ。夫以外の男性と関係を持っている女性を「フリーランサー」と呼ぶこともあった。1960年代のある時期には、客引きのついていない売春婦のことを俗語でそうよんだこともある。

というように歴史を辿るとフリーランス(フリーエージェントの中の一つ)はネガティブワードだった。ただ、今はこのようなイメージはない。

フリーエージェントの価値観は、プロテスタントの労働倫理、特に生真面目で堅苦しい考え方や娯楽を軽蔑する発想を捨て去るものだ。新しい労働倫理は、仕事と同じくらい遊びを大切にする。フリーエージェントという働き方の本質は、仕事と遊びを区別しにくいというところにあるかもしれない。情報が大量に行き交い、創造性を原動力とする経済では、生真面目な労働倫理にしたがってばかりいて遊びがないと、その人はフリーエージェントとして使い物にならなくなる恐れがある。

むしろ、現代に置いてメジャーな考え方になる。

21世紀の経済では、自由と安定は相反するものとは限らないということだ。たくさんの顧客やプロジェクトを抱えて働けば、一人の上司の下で働くより楽しいだけでなく、安全でもあるのかもしれない。取引先や仕事、人脈を広げたほうが、仕事を失う危険を減らすことができるからだ。自由はかつては安定を得る上では回り道だったが、今は安定を得るための近道になったのだ。

さて改めて、この本が書かれたのは2002年である。日本ではこれらの議論は動き出しの早い人たちの間やビジネス書等で数年前に行われていた。

そう考えると恐るべしダニエル・ピンク。



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