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順張り行き列車 逆張り逃避行

4日間集中して勉強したのですが、4日目の夜に我慢が出来なくなって破堤。それが土曜日で、あとは日、月、火、水曜日の今日と4日間なにも勉強せずに小説と漫画ばかり読んでいる。
4日進んで4日下がって、まあでも勉強したことは忘れてるわけじゃないしプラマイゼロにはならないか。楽観的すぎるか?

勉強の話になると私は必ず「昔は……」と言ってしまう。なにしろ昔は数ヶ月もの期間、集中が出来たのだから。あれはどういう身体だったんだろうかと今でも再現しようとするが、なにか根本的なものが昔の自分とは違っている気がして、また新しいエンジンのかけ方を会得しないとな、という、そんなことを繰り返している。

理屈では、取り掛かってしまえばあとは自然と行動出来てしまうのは知ってるんだけど、多分まだこうしてグダっていたい気持ちがあるんだと思う。
別に本を読んだからって何か劇的な発見をして革命が起きて猛烈に勉強する気になる、とかは無いんだけどね。それは分かってるんだけど、いや、まあ期待しているところもあるから分かってるとは言えないか。

辻村深月『スロウハイツの神様』を読んでいたらあとがきで西尾維新が「断言してもいい。人間は触れてきた作品通りの人間になる。」と言っていて、それはなんか、嬉しいようでちょっと嫌な感じもあるなと思う。
作品というのは小説や漫画ばかりではなく、クリエイターに作られたもの全般を指しての「作品」を言っている。そうすると今まで自分が見てきた「作品」を全部挙げるのは不可能と言っていい。
では、私は、知らず知らずのうちに、忘れてしまった作品にさえ影響を受けて、今の自分になっているのだな。
と思うと、嫌だと思わないか。
人間の体内にはさまざまな生物がいるんだよと言われたときのような、ぞわぞわ感。

明らかにターニングポイントと言えるのは小6で出会ったカゲロウデイズ、同じく小6か中1くらいで読んだGANMA!作品(四谷快談!、多数欠など)、虚淵玄作品、高校入ってからの辻村深月、村田沙耶香、あとはきらら漫画にもかなりの熱量をかけてたな。最近だと楽園コミックス、百合姫、ジャンプも結構読んで感性を順張りに戻してきてる。
あるいはもっと遡れば小学生の頃は毎日ドラえもん読んで金曜夜はアニメ見てた。記憶が確かならアニメは中学の時に金曜7時から土曜5時30分に変わったから、友達との遊びを切り上げて家に帰ってた。セリフ一コマだけで話のタイトルを当てるゲームを姉としたり、図書館で分厚い全集を買ったりしてたな。コンビニで買うドラえもんの漫画には後ろの方にドラえもんじゃない藤子・F・不二雄作品が載っていて、そこからパーマン、T・Pぼん、エスパー魔美を読んでた。
藤子・F・不二雄のSF全集もその頃に読んだ。中学高校で見るアニメや漫画の傾向は、その頃の藤子作品の影響も受けているような気はする。現実的な日常でありながら、少し不思議な部分が隠れているような。(←ここですこしふしぎという表現を使ってしまったのは逃げでしかない。上手い言い方が思いつかなかったから。)

そう思うと、小学生の頃から今までずっと漫画を読んできたなあと思う。厨二の時は先に挙げた『四谷快談!』の影響を受けて中原中也の詩集や純文学などを結構読んだが、結局今はあまり純文学なんて読んでない。最近読んだ小説は米澤穂信(黒牢城、小市民)かラノベ(無職転生、ロシデレ、ミモザの告白)かくらい。純文学というと昭和史を勉強したついでにちくま日本文学の三島由紀夫を読んでみたが、読み切れずに挫折してしまった。えー昔の自分なら読めてたのに、体力がなくなってしまったなーーと実感する。
アニメも言うほど見ていない。ヘッドホンを付けて、椅子に座って、かしこまって24分間集中しなければいけないイメージがあるからあんまり沢山見れてないんだと思う。集中してみないと話を理解できないアニメばかり見てきたからかもしれない。
比べて漫画は本当にどこでも読める。2週目3週目も抵抗なく読める。
こういう話をすると絶対に、私は逆だわ、みたいな人が現れるので、育ちの違いか、まあこれこそが「人間は触れてきた作品通りの人間になる。」だろうな。私はアニメ筋がない。アニメ見るくらいなら原作読んだ方が楽だ、となる。

いやこの言葉は、こんな話だけじゃないんだろうけど。 

例えば私はカゲロウデイズでオタクになり、あんまりメジャーじゃない電子漫画ばかり読んできたから逆張りスタートになってしまった。それに比べてジャンプ作品をたんと読んできた友人は順張りで友達が多い。いや!これは自分に対する言い訳と甘えでしかないか? それなら御免。
でも昨日『アオのハコ』を読んでいたら、そんなことしか考えられないんだよな。こういう漫画で育ってれば、私もこういう青春を目指してたんだろうか、ダークな道を望まずに、爽やかな汗を流していたんだろうか、と思ったり。
今からでも遅くない!という常套句が頭を横切るが、いいやどう考えても遅い。思い出せ。
人間は触れてきた作品通りの人間になる。
久々に太字を使ってしまった。それほどだ。
私はもう、逆張りスタートをしてしまった以上、逆張りの逆張りでしか順張りになれず、それはもう順張りとは言えない。
それを理解した上で、色んな作品を咀嚼して、健全な自己をひとつの「作品」として作り上げていくことが大人になるってことなんじゃないかなー、とか言ってみたり。

順張りのススメとしてジャンプ作品を読んだり、今月のヒットソングを聞いたりするのはちょっとどうなの、と自分でも思いますけどね。それは二重に嘘をついてるんじゃないのか。自分にも相手にも。

漫画や小説に影響を受けて形成されていく人間の自己そのものも、その人間が作りあげた作品だと言うのなら、その作品(自己)に触れること、つまり友達(や家族や恋人や同級生や)を持つことも、自分の自己に強い影響を与える。
身近な5人を足して割ったものがお前だ、みたいな話は聞くけど、まあ確かにその可能性はあるかもね。嫌だから否定したいけどね。

じゃあ、つまりこれは驕りとかではなく、私自身も「作品」ということになるわけですが、そうである以上は、「作品」に触れた人に少しでも影響を与えたいと思うのが理にかなった思考なんじゃないか。
つまり、自分と関わった人に自分の痕を残したいから、生きているといっても過言ではない。
その痕のつけ方が人それぞれで、人によっては派手なことになってしまうんじゃなかろうか。なんか三船栞子みたいになってきたか。やめとくか。


人間は触れてきた作品通りの人間になるよ、という話です。
あ、じゃあ手っ取り早く順張りになるには順張り人間に囲まれて生活するといいんじゃないか。

おしまい。


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