【書評】「批評理論入門『フランケンシュタイン』解剖講義」/感想と解釈【基礎教養部】

小説に限らず詩歌、そしてアニメや映画などの映像を含む広義の芸術作品に触れた際に、「面白い・感動した」以上のことが言える人に憧れ、また自分もそうなりたいと思ったのが、私が本書を手にした動機である。

しかし本編を読み進める中で、私はある勘違いをしていたことに気づく。そう、「感想」と「解釈」を同一視していたのである。批評とは解釈の方法論であって、感想の方法論ではない。いや、そもそも感想に方法論などあるのだろうか。

感想とは、小説の場合であればそれを読んだときに自然に生じる「感じ」や考えのことであり、意図せずとも抱いてしまうものである。それを得るためのやり方など無いだろう。一方「解釈」は、自分で手を動かして「この切り口でこの作品を眺めると、こういうことが言える」と眼の前のテクスト(あるいはその外側にある文化的背景など)を分析をすることであるから、その切り口の取り方に関して方法論が確立されているのはもっともである。
受動と能動。

感想は「私的」なものであって、解釈は「公的」なものであるという見方もできるかもしれない。先に書いた通り、感想とは己の内側から漏れてきてしまうものである。本人がそう感じたならば、そうなのである。感想に正解も不正解もない。一方、解釈の方はどうか。

本書で紹介されている批評の方法の一つに「読者反応批評 reader-response criticism」というものがある。作品は自立した存在ではなく、読者がそれを読むことによって初めてテクストに意味が生まれるという考えである。読書反応批評家の関心は、例えばテクスト内に含まれた空白を読者がどのように埋めるのか、ということなどにあるらしい。ただし読者が好き勝手な読み方をしても全て有効な解釈とみなされるかというと、そういうわけではない。ここで登場する「読者」とはある程度の水準に達した、文学が「読める」読者のことで、何でもありというわけでは決して無いようだ。どこまでが許容範囲なのかは分からないが、少なくとも感想よりは制限が多めなのは確かで、それゆえ解釈の仕方は有限であって、それをする人どうしでの共通認識が求められていることが伺える。

感想と解釈、どちらも「何かを読んで、それについて何かを言う」という部分は一致しているために両者を混同してしまっていた。一方が受動的であるのに対してもう一方は能動的、一方が私的であるのに対してもう一方が公的。うーん、確かにそう言われてみればそんな感じもするけれど、いまいちパッとしない。感想が受動的だと言ったけれど、能動的な感想というものもあるかも。

そもそものところに戻ってみる。「『面白い・感動した』以上のことが言いたい」と言ったときに、私が言いたいのは感想なのか解釈なのか。どちらとも、と言える。感想というものが、作品に触れて一次的に生まれるものであるという前提に立っていたけれど、その前段階で、何かしらの解釈が挟まっているはずである。そしてこの段階での解釈は、人によって違うことがあるかもしれないけれど、概ねみんなに共通しているもの、すなわち「公的」なものであるといってよさそうだ。そしてこの解釈をもとにして、人それぞれ異なった感想が出てくる(感想が似通う場合ももちろんある)。「感想が人によって異なる」というのは、その前段階の解釈の部分までは一致していて初めて意味をなす。テクストをなんの解釈フィルタも通さずに「生の状態」で摂取することはおそらくできない。解釈には二段階ある。一回整理する。

①テクストを読む→②自動的に解釈される→③感想を抱く or 二段階目の解釈がスタートする

ここで②の第一段階の解釈は、わざわざ書く必要もないことに気がつく。テクストそのものを読むということが不可能である以上、②は①に必然的に含まれるからである(そして②の解釈が「公的」なものであるとも限らないし、たとえ「公的」であったとしてもそれは二段階目の解釈が公的であることとは無関係)。本書で扱っているのは更に深堀りする解釈である。テクストの意味が一通り分かったうえで、更にその中に意味を見出そうとする営みである。そう考えると批評って果てしなく奥深そうに見えるが、本書を読み終えて私が感じたのはどちらかといえばその逆。なんだかシステマティックな印象を受けた。やり方は決まっていて、それに沿ってやれば、誰がやっても同じ結果になる、みたいな。そういうものなのか。

「面白い・感動した」以上のことが言いたかった私は一体何が言いたかったのか、自体をややこしくしている「考察」の存在についても盛り込みながら、もう少し考えてみたい。

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