【書評】『悲しい曲の何が悲しいのか 音楽美学と心の哲学』/ひとに説明する【基礎教養部】

上の本と下の2つの記事を読み終え、私が感じたことをこれから書く。

これから書く「書評」は、とあるコミュニティ内で課されている定期的な課題だ。課題ではあるが、私はそれを負担に感じているというよりも、むしろ楽しんでやっている。形式に縛りがなく、自分の好きなことを書けるからである。確かに、紹介された本に関連した内容を書くという制約はあるが、これも実質的には制約ではないのである。

例えば今回の場合、本のタイトルが「悲しい曲の何が悲しいのか」であるから、本に関係した内容というと「悲しい」や「曲」、少し広く取ってみても「感情」や「音楽」に限定されると思われるかもしれない。しかし私が今から書こうとしている内容のテーマは「ひとに説明すること」である。

この本は、前半部分の「美的判断は客観的である」という主張と、中盤で登場する「そもそも音とはなにか」という問いに関する議論をもとにして、最終章でタイトルの問いへの答えを提示するという形を取っている。上に挙げたNaokimen氏のnoteでも触れられているが、本書における、最終章まで読者を導くそのやり方が、非常に巧いと感じた。そういうわけで、内容よりも論の組み立て方のほうに目がいったので、今回はそのことについて書く。
本に関連した内容を書くことが制約にならないのは、こういうことができるからである。本に関連したことがらは無数にあるのだ。

突然ではあるが、文章を通して自分の考えをいかに伝えるか、というのが最近の私にとってのテーマである。小説などの創作ではなくて、意見を提示したり、相手を説得したりすることを想定している。

自分がこれまでに書いてきた文章は、明確に相手が存在して、その人に向けて書かれたもののはずなのに、どこか独り言じみて見える。それを書いたときのことを振り返ると、自分の考えを共有したいという動機よりも、吐き出したい、そこから勝手に汲み取ってくれ、というような一方的な気持ちの方が強かった思う。

しかし受け手が真剣であるかもしれないなら、こちらは常に真剣でなければならないだろう。真剣に自分の考えを伝えるために必要なのは、そうしたいという動機である。方法は、その動機から自然と導かれる。動機そのものは見えないが、考えを伝える・共有するための工夫は、文章中に実際に目で確認することができる。本書を読む中では、内容を追いながらも、このような文章構成技術的な側面も意識しながらページを進めていった。いや、内容と構成は独立しているのではなくて、構成を把握することがそのまま深い内容理解に直結することをまさに実感した。

この本を読んでいて、置いてけぼりにされることは一度もなかったし、むしろぐんぐん引き込まれるような読書体験であった。久しぶりに一冊の本を一気に読んだ。一体この本にはどのような仕掛けがあったのか。

まず、タイトルが問いの形をとっている。このことによって、本を手に取ったその瞬間から、著者と問題を共有することができる。序章は、この問いに答えるための準備として複数の章が設けてあることの説明と、各章の概説に割かれている。最初に全体の構成が提示されると、読者は自分がいま、全体の中でどこに位置しているかを都度確認できるため、迷子になりにくい。更には各章の先頭には前章からの引き継ぎ、最後にはその章のまとめと次章へつながる問いかけが登場する。このほかにも要所々々でそれまでの内容の振り返りが挟まる。読者を置き去りにしないための工夫はこれだけではない。ん?となったところではすかさず「~と疑問に思われた読者もいるかもしれない。→補足」と先回りしてくれるし、新たな概念を導入する際には、既知の概念とのアナロジーや身近な例え話が頻繁に登場する。私が一気に本書を読むことができたのはこれらの工夫のおかげである。

自分がどういう文章を読んだときに相手の考えを確かに受け取ったと感じるのかを考えれば、型は自ずと身についてくる。形式でオリジナリティを演出する必要はない、個人的になるのは内容の方である。

「面白い文章とは、誰も考えつかないようなことが、誰にも理解できるように書かれた文章のことである。」というどこかで読んだ言葉が思い出される。

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