【日記】R040823 物語と物語以外のもの 続

前の日記からの続き

 しかし、反物語的言論じたいは珍しくない。「物語」一般の虚構性をあげつらう言葉を耳にしたことがないという人はいないと思う。「現実と物語の区別がつかない」といえば、たんなるバカのことだ。

 これが、もう少し洗練されたものになると、「物語」とは私たちの思考に及ぼす悪癖であるように語られもする。たとえば、ロラン・バルト『物語の構造分析』によると、「物語」は、因果関係があきらかになっているわけでもない2つの出来事のあいだに疑似因果関係を設定して、それがほんとうに「原因」であるとは限らないようなことを原因であると思いこませる力を持っている。それゆえ、もし現実を「物語」であるかのように語れば、事実誤認を起こしてしまうだろう。あるいは、「敵/味方」の二項対立を設定することで、その図式にのぼらないような細部が目に入らなくなってしまう人が陥っている思考様式を、「物語」という言葉で省略的かつ軽蔑的にあらわす人もいる。

 私たちが日常目にするこうした悪癖の典型的なものが「根性論」と呼ばれるもので、この考えによると私たちが上手くいっていないという「結果」のほんとうの原因はおのれの内なる「根性」にあることになる。したがって、「結果」を修正するためには「根性」を発揮する必要があり、そのためには、それを妨げる敵である邪悪な「甘え」と戦わなければならない。――こうして人生の物語がつむがれていく。

 ちなみに、こうした悪癖としての物語を指摘するのはたやすいが、それを克服するのが意外に困難で、その困難は、たとえば、アンチ根性論がしばしば「根性論を克服できないのはお前に『根性』が足りないからだ」的な高レベルな根性論に陥ってしまいがちであることに、端的に示されているだろう。

 すこし話は逸れてしまったけれども、『翔太と猫のインサイトの夏休み』で語られている「お話以外のもの」としての「存在と無」の問題は、こうした「物語」を克服した先にあるアンチ物語論ではないということたぶん注意されてよい。

 では、それは何なのか? というとまだ私にもよくわかっていない。それを探っていくのがこれからの会にたいする私のモチベーションである――今日はこれくらいのところにしておきたい。

 ただ、私の言葉で言えば、先の引用部でインサイトによって語られている「現実」とは、あたかも「運命」のことであるかのようだ。運命と対決することはできない。誰かがあたかも運命と対決してそれに勝利を収めることができたならば、その人が運命を対決すると言うことを選んだことも、そしてそれに勝利したことも、すべて運命の内である。その人やその人を取りまく人びとがどんな「物語」を語ったところでそれは変わらない。それはただ受け入れるべき運命なのである、というように。


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