第23回物語論勉強会・横溝正史「人面瘡」 まとめ代わり記事

 大塚英志『ストーリーメーカー』は、「物語」を、それが備えている普遍的な構造から理解し、その上で「物語る」ことができるように設計された創作指南書である。このとき、読者にその「構造」を理解させる上で大きな役割を果たしている参照項が、ジョセフ・キャンベル『千の顔を持つ英雄』とウラジーミル・プロップ『昔話の形態学』で、これら神話学や民俗学の知見を上手く応用して、Q&A形式でプロットを出力できるところまで煮つめた点で、読むものに感心を抱かせる。
 ただし、実のところ、この二者からストーリー作成の示唆を得ようとする仕事はクリストファー・ボグラーに負うところが大きくて、ボグラーの著作を読むと、大塚のこれらの発想の七~八割は、ボグラー由来のものであることが分かる。
 プロップ『昔話の形態学』は、数多の物語が含有する数多の出来事が、多くない数の「キャラクター」と「行為(機能)」のパターンに分解できることを示唆する。そして、表面的には異なるそれぞれの魔法民話が、その深層では単一の構造に寄っていることを発見する。キャンベル『千の顔を持つ英雄』は、同じように数々の神話に共通した構造に注目するが、アカデミックな議論というよりは、自己啓発書としての色合いが強い。ただし、そのおかげで「物語」を成り立たせる数々の要素が、プロップではたんなる抽象的な「項」にすぎなかったところ、主人公にたいする「啓発」としてどんな意味があるものになりうるのか、感情的な彩豊かに教えてくれる。これらを組み合わせると、自由に「物語る」ことができそうに思えるわけだ。
 ここからストーリー作成のヒントを得ようという『ストーリーメーカー』の発想は、ほとんどボグラーに依拠している。ボグラーによらない部分は、先に触れた教育的配慮や、出版当時の日本の文化的状況を踏まえた上でその発想のローカライズを計ったと思われる部分であり、日本の文学やマンガにたいする言及の仕方にそれを見ることができるだろう。
 たとえば、主人公の「成長」をきわだって強調してくる点にそれがあらわれている。「物語」は始まるときと終わるときで何らかの変化を伴う。大塚はそれを「成長」を呼ぶ。他方で、ボグラー以下のように書いている。

「どんな物語でも、大きな取引の交渉が繰り返され、社会的に対立する権力同士の契約が必要となる。ロマンティック・コメディとは男女間の契約交渉の繰り返しだ。神話や宗教的な物語はファンタジーは、人間と、その世界で戯れるもっと大きな力との間に、盟約を交わそうとする試みなのだ。……(中略)どんな状況においても、物語はひとつの契約にたどりつき、新しい契約を発表して終わる」(『物語の法則』より)

 ここで「契約の更新」と捉えられている出来事は、「成長」と構造上は同じことを意味しているのでなければならない。それでいて、そのニュアンスが異なることはあきらかだろう。評論的な文章の中で大塚はそのニュアンスに引っぱられているのだが、これもローカライズの一種であると言える。(たとえば、「契約の更新」に「ライナスの毛布」が何の関係があるのか考えてみよう)

 第二十三回の物語論勉強会では、それらのことを踏まえて、横溝正史の短編小説「人面瘡」を扱った。
 会で話題となったのは、タイトルでもある「人面瘡」というモチーフが、ストーリー全体のなかで、大きな意味を持っているようには見えないということだった。その印象には十分な理由がある。しかし、別の面では、モチーフとしての人面瘡は大きな意味を持っているとも言え、それにも理由がある。やや前置きが長くなってしまったが、以下、その二つの理由について書く。

 まず「人面瘡」のストーリーを簡単に述べよう。
 本作は、探偵・金田一耕助を主人公とする一連のシリーズに含まれる小説で、戦後間もない岡山の田舎、「薬師の湯」という温泉宿を舞台としている。探偵稼業のなかで仲を深めた磯川警部に連れられて、磯川の親戚筋が営むこの宿に金田一が訪れる。彼がこの鄙びた温泉宿にやってきたのは休暇を過ごすためだが、皮肉なことに、金田一はここでも事件に巻き込まれてしまうのだ。
 それは、金田一一行が逗留中のある夜に、宿に女中として勤めている松代という女が、カルモチン服毒による自殺未遂を起こすところから始まる。彼女は一命をとりとめたものの、遺書を書いていて、その中には妹である由紀子を二度も殺したという告白が記されている。いったい、同じ人間を二度殺すとはどういう意味なのか? 正気とは思えない女の謎めいた告白だが、まもなくして、由紀子が死体となって発見される。まず先に遺書にある通り松代が由紀子を殺したという可能性が考えられるが、検死から得られた死亡推定時刻は午後九時であり、その時間、松代と金田一たちは同席していたことがあきらかとなる。彼女にはアリバイがあるのだ。しかし、目覚めた彼女は検死結果が自分の無実をあかしているのにもかかわらず、由紀子は自分が殺したのに違いないと考える。その思いは強固であり、由紀子の死体が物語る客観的な状況と矛盾する。
 「人面瘡」は、この矛盾が核となった物語であると言える。

 もちろん、人面瘡は、由紀子の死を予告するように松代の脇の下にあらわれたのであり、実際に、物語の終盤では松代が妹に抱きつづけていた不合理な罪悪感を説明する道具にはなっている。いわば、松代の異常な心理をグロテスクに象徴している。ただし、それ以外では、つまり、構造上の「機能」の位置に含まれるような重要な位置づけにはない。『ストーリーメーカー』巻末のチャートで示されるようなヒーローズ・ジャーニーの構図に則るならば、冒険の召喚を告げる「使者」は謎めいた遺書であり、非日常のはじまるを告げる「第一関門」と「門番」は稚児が淵と由紀子の死体であり、「挫折」となるのは作中で明確に容疑が投げかけれていた松代と田代の両名にアリバイが成りたつ場面である。そして、「最も危険な場所」で行われる対決が、松代と田代による神戸大空襲の日に起こった殺人事件の告白となるだろう。
 こうして事件は解決に向かうのだが、このときアイテムとしての人面瘡は、機能と言えるような重要な位置にはない。

 けれども、それは「人面瘡」という短編小説を金田一耕助を「主人公」とした限りの解釈であり、しかもヒーローズ・ジャーニーの構図の中での「主人公」である場合に限られる。ここで、主人公が金田一であるというあきらかな事実に、難癖をつけたいわけではない。しかし、この小説は、探偵である金田一による事件解決を軸にした物語を表として、その裏に松代を主人公とした内面的な物語が隠されているような構造を備えているのだ。そこから松代の物語を見るとき、「人面瘡」はたしかに重要なモチーフなのである。

 松先の例にならって敷衍すれば、次のようになるだろう。神戸大空襲が松代を旅立たせる機能的な「使者」となり、神戸から岡山に足を向けながらも郷里に帰ることができないのが「召命の拒否」、さらに偶然行きついた薬師の湯では経営者のお柳さまが多忙を極めて人手を求めているところが「第一関門」や「門番」である。松代は、こうして薬師の湯で新しい日常をはじめることになるが、彼女の前に死んだはずの由紀子が現われて、貞二を奪い、やがて後の凶事を予告するように脇の下に人面瘡があらわれる。これが「挫折」を形成する。この挫折が、松代を主人公としたとき彼女が回復すべき欠如を象徴する。この作品が、たんなる謎のパズルに終わらずに内面的なドラマをはらんでいるのは、裏の主人公として松代がいるためである。
 このとき、「人面瘡」はタイトルにお似合いの位置にあるのだ。

 ところで、いったん話題を「人面瘡」から離すが、大塚は、『ストーリーメーカー』や『物語論で読む村上春樹と宮崎駿』で、村上春樹『海辺のカフカ』の構造について触れている。『海辺のカフカ』には、田村カフカとナカタという二人の主人公がいて、大塚の注目するところでは、この二人の主人公の間には、ヒーローズ・ジャーニーにおける「主人公」の分業のようなことが行われている。つまり、外面的に行動して敵と戦う主人公であるナカタと、自分自身では戦うことなく内面的に成長する主人公である田村カフカがいて、元来一人の主人公が負うべき二つの役割を、別々に行っているというのだ。大塚は、こうした技が村上が応用物語論的に小説を書く中で培ったものとする。それは純文学作家である村上ならではの「反物語」的技術であるかのように書いているのだが、前段はともかく、後段は疑わしい。
 というのも、先に指摘した「人面瘡」が備えた構造も、外面的に行動する主人公である金田一と内面的に成長する主人公である松代による、主人公の分業であると言えるからだ。名高いミステリ作品である金田一耕助シリーズが、「物語」的小説でないなどとは誰も言わないだろう。一応、『物語論で読む村上春樹と宮崎駿』には、成長しない主人公のタイプとして「探偵」が挙げられている。しかし、こうした主人公の分業構造は、金田一耕助のような探偵にかぎらない。
 たとえば、『シティハンター』の冴羽と依頼人の関係がそうであるだろうし、また『北斗の拳』に描かれる数々のケンシロウとライバルたちの戦いさえ、そうであるだろう。『北斗の拳』では多くの場合、内面的な欠如を抱えているのはライバルの方であり、ケンシロウと戦う中で、彼らは自らの本当の欠如と向き合い、内面的な浄化を受けて、その解決と共に死んでいく。サウザーやラオウは、ケンシロウのネガティブな自己実現(シャドウ)であると見ることもできるが、それと同時に、分業された主人公であるとも言える。おそらく、このことが彼らを人気キャラクターたらしめている大きな理由の一つである。そして、言うまでもなくこうした構造は、その他多くの物語作品にも当てはまる。

 しかし、この「分業」を考える上での難点がある。もし物語を通過儀礼と見立てるのならば、急に意味が分からないものになってしまうのだ。もしかしたら、このことが、こうした物語の作りを大塚に「反物語」と言わしめた理由であるのかもしれない。しかし、この問題は、キャンベルというよりもプロップの枠組みに寄せて、「内面」において起こることを「機能」として捉えれば片づく。
 ここで掘り下げるつもりないが、おそらくプロップ的な枠組みに若干の改訂をほどこせば、群像劇をその枠の内で解釈することは可能である。『昔話の形態学』にははっきり書かれていることなのだが、物語を「欠如―回復」の軸でとらえた場合に、「欠如」を構成する八番目までの機能のところで、敵対者によって略奪された者が、対象者とならず主人公となることはありうる。それは特別なことではない。つまり、略奪された者がかならず対象者であり、それを探し求める者がかならず主人公であるのではない。プロップの言葉によれば、探索者型・被害者型に主人公が分かれうるのだし、現代的な物語作品ではその両方が主人公であるというようなストーリーが、しばしば見られる。会で扱ったもので言えば、『異世界美少女受肉おじさんと』の王都編で、橘と神宮寺の両方が主人公であることが、その典型的な例であると言えるだろう。おそらく、こうした機能の考え方の延長で、主人公の「分業」も捉えることができるだろう。

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