変わりゆく街並み、変われない人々

昨年は行けなかったので約束2年ぶりということになるが、久しぶりに足立区議会の委員会を傍聴してきた。今回傍聴をしてきたのは2024年7月5日に開かれた「災害・オウム対策調査特別委員会」だ。

災害時に自分が避難する場所はどこか、って都民の人はみんな把握してるのだろうか。だいたいは近隣の小学校や中学校になるんだってことぐらいはわかってると思うし、その場所だってちゃんと知ってると思う。引っ越してきたばかりな人なんかはともかく、ある程度の期間そこに住んでいれば特に知ろうとする行動をしなくてもおぼろげながらわかってくるはずだ。
僕に関して言えば、家からテクテク3分歩けば小学校があるので何かあればここに行けばいいと心得ている。
さて、ここでちょっと考えてみてほしい。もしその自分が避難所だと思っている学校が統廃合か何かで学校ではなくなったら…。どこに行けばいいかわかるだろうか。まあなんとなくはわかるかな、と思う。別にどこだっていい、とにかく近場にある学校に行けばいいのだ。そんなくらいの認識で僕は別に困ることはない。あくまで「僕の基準」なら困らない。


「舎人」という駅で降りたことがある人は都民でもそうたくさんはいないと思う。日暮里舎人ライナーというドマイナー路線にある駅だ。すぐそばに舎人公園というデカい公園があるほかは取り立てて何か人目を引くものがあるわけでもなし、何の変哲もない住宅街である。
日暮里舎人ライナーが完成する前のこの舎人地区は完全な鉄道空白地帯だった。最寄り駅の竹ノ塚まで行こうとすれば徒歩で20分以上はかかるようなところだ。この不便さが嫌厭されたのだろう、ずいぶん前から高齢化が著しく進んでいる地域だった。高齢化が進めばそれに伴って少子化だって進む。ただでさえ少子化で子どもの数が減っている中、そういう地域的な事情も加わったことで、舎人に存在していた小学校や中学校が統廃合されることも間々あった。

入谷南小学校、という小学校が昔あった。ここも統廃合の結果、廃校になってしまった舎人地区の小学校である。
廃校になったとはいえ、その跡地は何かに利用されることもなくそのまま残っていた。もちろん、災害時の避難所としての機能も残っていた。
だが、その入谷南小学校跡地の用途が変更された。災害発生時に全国から集まってくるであろう支援物資の集積所として使用されることになったのだ。今年の能登半島地震の際にも、全国から集まる支援物資に捌けずに結局無駄になってしまう事例が起きていたらしい。そのような事態を防ぐための措置である。物資が集まってくる、つまりトラックなどの往来が激しくなるし、ヘリコプターの発着ができる機能も備えることとなった。そうなればとても避難所としては機能しないことになる。

入谷南小学校跡地の利用法の変更について、特に異議をとなえる住民はいなかった。筋も理屈も通っている。たしかに必要な措置だと誰もが納得した。それに避難場所は他にもあるのだ。入谷南小学校跡地が避難場所として使えなくなったと言っても、他にも避難場所となる小学校や中学校はある。
だがこの場所には高齢者が多い。足が不自由な人もいる。外出に困難を伴う人だっている。そういう人たちにとって、避難場所が変わることは大きな不安を伴うことだった。変わるだけならまだしも遠くなってしまうことだってある。「僕の基準」なら多少遠くなろうがなんだろうがどうでもいい。でも、この「多少遠くなる」「場所が変わる」に強い不安を抱く人だっているのだ。

そういう「不安」に対して、行政側がどのようにケアをしていくのか。
入谷南小学校跡地の用途変更に関する住民説明会では特に何のケアもなかったようだ。誰も反対はしていないしみんなが納得しているのだ。行政からすれば何の問題もないわけで、その対応もわからないではない。でもたしかに「不安」を感じている人は事実として存在している。「話はいつでも聞く」という方針はあるようだが、漠然とした「不安」を解消する術などないように思える。

不安を感じている人の存在を念頭に置いておくか、それとも「反対はしていないんだから」と彼らの存在を忘れて事業を進めていくか。ここに行政の姿勢が出てくるのだと思う。いずれにしてもやること自体は特に変わりはないだろう。用途変更のための工事やなんかは進んでいく。だけど人は「自分のことなんか考えてくれていない」という思いにとらわれれば動けなくなる。逆に自分のことを気にかけてくれている誰かの存在を感じることができれば、その足を前に踏み出すことだってできる。そういう生き物なんだと思う。行政の立場からどこまで人の命や想いに寄り添うか、「あなたは1人じゃないし孤独死ではない。ちゃんと気にかけている」というメッセージをどのように打ち出すのか。その姿勢は問われて然るべきだ。
こんなのはただの感情論である。でも、人が生きるということはその「ただの感情論」の中で歩んでいくことに他ならない。「ただの感情論」が切り捨てられる中で、人は生きていけない。

行政のちょっとした変更でそこに住む人たちの暮らしは変わる。良くも変われば悪くも変わる。大げさに言えば人生だって変わってしまうかもしれない。そこに暮らす人たち1人1人の顔をどれだけ思い浮かべることができるのか。その視座は行政を動かすような人には忘れずに守っていてほしいものだと思う。
今回書いた入谷南小学校の件に関しては、委員会でそう大きく取り上げられた議題でもない。特に問題などないのだから取り上げられないのも仕方がないだろう。でも、そこに住む人の不安を委員会の場で汲み上げてくれた議員の方がいた。ちゃんと住民の不安を共有してくれようとする議員さんもいる、その事実がわかっただけでもわざわざ足立区役所に行った甲斐があるというものだ。



国会の議論だとなかなか自分には縁遠いことが話し合われていたりしてよくわからないことだって多い。でも、市区町村単位の議会ならば生活に密着している分、よく理解できる。身近な場所について、誰がどのように考え施策を練っているか、それぐらいは知っておいていいと思うし、知れば知るほどに今度は「政治」というものへの向き合い方も変わっていくかもしれない。区議会の傍聴、なんて趣味にしている人はそうそういないだろうがわこれはなかなかけっこう楽しいものなのだ。

そんなわけで、もし時間がある方は地方議会の傍聴なんてのもたまに行くときっと楽しいので、お時間のある方はぜひ一度行って傍聴しておくといいと思います。と宣伝して文章を閉じるわけですが、最後にいつものお願いです。お金ください。よろしくお願いします。


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