刑事訴訟法第213条

刑事訴訟法第213条
現行犯人は、何人でも、逮捕状なくしてこれを逮捕することができる。

この法律を盾にしてやりたい放題やっていた人が逮捕されたという報道があった。その人は私人逮捕の要件を満たしていなかったり、いくら逮捕行為と言っても許容され得ないほどに過剰な行動をしていたり、そもそも違法な行為をしていたり…とかく悪い意味で世間の耳目を集める人だった。僕もこの人たちは唾棄すべき人間だと思っていたし、ようやく逮捕されてホッとしている次第でもある。
でも彼が捕まったと聞いて、少し背中に悪寒が走るのを感じた。
誰かを一方的に悪い人間だと見なし、そいつを法律の威を借りて制圧し、その模様を配信して金を稼ごうとするそのあり方。書いていても気分が悪くなる悪辣な行為だと思う。しかしその悪辣さが、明らかに自分にも内在していることを認めざるを得ないのだ。

東京地裁の入り口の左手にはちょっとしたスペースがある。朝、傍聴をしようと東京地裁に来るとこのスペースに人だかりができていることがよくある。
ここは傍聴券の抽選を待つ人が待機するスペースなのだ。
傍聴券が出るような裁判、それは大きく報道される事件であったり、知名度のある人の裁判であったりすることが多い。
僕は元来が列に並ぶということができない性格だし、世間から注目を集めていても自分が興味を抱けなければ傍聴したいとも思わないので、この列で傍聴券の抽選を待ったことは数えるほどしかない。抽選で当たった記憶があるのはドラゴンアッシュのベースの男の大麻裁判と、NHK党の候補者が居住実態がないにも関わらず選挙に出て無効とされたことを不服として起こした民事裁判と…そのくらいだ。上記の2件は単に気まぐれを起こして並んでみただけでそう傍聴したかったわけでもない。他にもいくつか並んではいるはずだがいかんせん記憶がない。記憶に残らない程度のものだったのだろう。
注目される事件の被告人の裁判がある時、この傍聴券スペースには多くの人が集まることは先ほど述べた。では彼らは何を観たくて平日からここに集まっているのだろう。

裁判。
それはそもそもどんな意義を持って行われているものなのか。刑事裁判だけに絞って言えばそれは2点の単純な目的からなされている。
まず1つ、被告人の人権を守ること。そしてもう1つは何が起きたのか真相を明らかにすることだ。
刑法について学ぶときに一番はじめに出てくるのが「罪刑法定主義」という言葉だ。「いかなる行為が犯罪となり、それに対していかなる刑罰が科せられるかについて、あらかじめ議会が民主的に定める成文の法律をもって規定しておかなければならない」という近代憲法の原則である。たとえば窃盗罪は法定刑が「十年以下の懲役又は五十万円以下の罰金」と定められている。たとえ何億円盗んだとしても十年以上の懲役が科されることはないし、窃盗罪の構成要件を満たしていない行為が窃盗罪で裁かれることはない。あくまで被告人は被告人が犯した行為のみが問われ、その行為についてのみ法律に基づいた処罰を受ける。
つまり何が言いたいかというと、裁判というのは被告人の行動について審議する場であり、決してその人格に対して劣悪なものであると烙印を押す場ではない、ということだ。
あくまで法律の条文の通りに処罰を受け自分のした間違えた行動の責任を取ってもらう。それ以上のことは決して強いてはならない。それが裁判という場の原則であり、もっと言えば近代国家の原則だ。

先日、ある裁判を元にして書かれた記事を読んだ。性犯罪絡みの裁判だった。
そこに書かれていたのはひたすらに煽情的な内容だった。言葉こそ穏やかではあったが被告人の発言の一部をことさらに取り上げるその筆致が目指していたもの、それは明確に被告人の人格に対しての攻撃だった。読者をしてその被告人の劣悪さのみに注目させようとするその狙いは明確なものだった。
そこには何の議論も存在しなかった。誰かの人格を劣悪なものだと仮定するなら、その人格を劣悪にさせた要因について考えなくていいはずなどない。1人の市民としてそれを考えるとき、必ず行き当たるはずの場所にはこの記事は触れもしなかった。憎しみや怒りといった感情を煽る一方、この社会の構造そのものに対する疑義は一切提示されなかったのだ。

傍聴券の列に並ぶ人たちが観ようとしているもの、観たいと望んでいるもの、それは誰かの人格を劣悪なものだと決めつけ否定するショーなのではないか、そう思えてならないことがある。
あれはたしかストーカー規制法の裁判だったか。閉廷し法廷の外に出るや否や「マジでキモい」と笑い合う二人連れの傍聴人を見たことがある。その被告人の事件に至るまでの生活状況や境遇、彼がどのように生きようとしていたかを語った言葉には触れもせず「キモい」の一言を吐き捨てていた。
彼らが観たもの、それはただの「キモい」人間であり、それを観たことで彼らは「自分とは違う人種である」という優越感を含んだ劣情とも呼ぶべき暗い願望を充たしたのだ。それは「裁判」の場で行われることではないし、行われるべきことでもない。だが彼らは裁判をそのような欲望にかられて傍聴をしていたのだ。それは人間の姿を見るときの視線ではなかった。まるで動物園で檻の外側から珍しい動物を眺めるような、そこにいる動物を自分たちよりも劣った生物と見なし蔑視しながら覗き見る、そんな視線であった。


ある「お笑い芸人」の人がいる。カッコでわざわざくくっているのは僕が彼を「お笑い芸人」とは思っていないし思いたくないからだ。そして彼の「ネタ」を「お笑い」でもないし「芸」でもないと思っている。
彼は裁判所に毎日のように通い裁判の傍聴をする。そして傍聴した内容をまとめて面白おかしく「芸」として披露している。
はっきり言う。醜悪極まりない。愚劣な唾棄すべき所業だ。その「笑い」は人の尊厳を踏みにじることで発生する類のものだ。
何故、誰かの犯した過ちを「笑い」にしようとするのだろう。そこで毀損されているのは生きている人間の歩んだ人生そのものである。誰かを貶めることで得られる安心感、誰かの人格を劣悪だと決めつけることで得られる優越感、そんなものを「笑い」をまぶして提供し恥じないその姿勢には虫酸が走る。
先ほど少し書いた性犯罪の記事にしても同じだ。提供するのが「笑い」ではなく「怒り」に変わってるだけで、その煽情的な本質は何一つ変わりはしない。そのほうが「数字」は稼げるのだろう。その「数字」と引き換えに喪っているものの存在に畏れを抱かない傲慢さは軽蔑に値する。

この「お笑い芸人」にしても、人の感情を煽ることのみに主眼を置いた記事にしても、冒頭で挙げたYouTuberたちと何ら変わるところはない。
彼らのしていること、それは誰かの人格に劣悪だと烙印を押す行為に他ならない。そして烙印を押されていない人々の間で儚く脆い連帯を築こうとしているだけだ。
ここで自分のことを省みてみる。僕も裁判の傍聴に通い、そこで見聞きしたものを「ネタ」として扱っていた時期は間違いなくあった。そして今もそれがまったくないとはとても言えない。強い言葉で批判をしたがなんのことはない、自分だって彼らとさほど違いはないのだ。だからこそYouTuberの逮捕という報道に触れて背すじに冷たいものが走るのを感じたのだ。

裁判という場で聞こえる声。
それは今の社会ではかき消されてしまうような小さくか細い声だ。意識しなければとても聞こえはしない。それでもたしかに声はする。その声は叫んでいる。助けを求めて、痛みを訴えて、涙ながらに叫んでいる。その声は、聞こうとする誰かがいなければ誰にも届かないままに消えていく。
そんな声を拾いたい。聞く人になりたい。そう思って僕は裁判所に通っている。聞こえているかはわからない。それでも誰かが耳を傾けなければいけない何かがそこにある。そう思っている。
それがいつの間にか変節し、そこにいる人を自分とは違う世界を生きる存在だと見下してしまうことがある。そんな時、傍聴席に座ってはいても僕の耳には何も届いていない。
ある意味では、例のYouTuberたちには感謝をしている。僕も彼らと同じだ。人を貶めるのが楽しい、そんな人間だ。そんなことを思い起こさせてくれる。
彼らの裁判もそのうちに始まるのだろう。傍聴券を求める人数も多そうだ。僕はその列には加わるつもりはまったくないが、彼らの「声」も聴いてみたいとは思っている。


「まっとうに生きられなかったんじゃない、まっとうに生きさせてくれなかったんだ」
昔傍聴した被告人の言い放った言葉だ。死者こそ出なかったが、無差別通り魔事件の裁判である。
障害、イジメ、差別、孤独。この裁判に関連する単語を並べていけばこんな感じだろうか。誰も手を差し伸べなかった。誰も助けてくれなかった。そして彼女は包丁を手に駅へと走って行った…。
誰かを傷つけたかったわけじゃない、でも誰かを傷つけずにはいられなかった。
人を貶め、その仄暗い悦びに支配されてしまったその心の底には何があるのだろう。それで金銭を得ることができ、一部の人からとはいえ喝采まで浴びせられる中で、彼らの中で何が喪われ何が蝕まれていったのだろう。
まだわからないが、彼らは法廷の場ですごく「面白い」ことを言うのではないかと思っている。その「面白さ」の影に隠れている「声」は何を語るのか。傍聴券の列に並ぶつもりもない僕が聴く可能性はないが、その時に法廷で傍聴をしている誰か1人でも聞き取ってくれることを望んでいる。

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