異色の経歴

昔の僕は映画を観るのが好きで、割と足繁く映画館に通うタイプの人間だった。ここ何年かはもはや常態となってしまった金欠のせいで映画館に行くのは年に2回か3回くらいになってしまっている。観たい映画はたくさんあるのだが、1回につき2000円飛ぶのはさすがに辛い。そういうわけですっかり映画館からは足が遠のいてしまったのだが、つい先日、久しぶりに映画を観てきた。
映画館に行けば必然、現在公開中の映画やこれから公開される作品のポスターがそこら中に貼ってある。もしもこれらの中に自分に引っかかる、すごく観たい映画を見出してしまったら大変である。観たくても観られないのだ。知りさえしなければ心穏やかに日々を歩んでいけるのに、知ってしまったがばかりに「あの映画、観たいよう」と毎夜ほぞを噛みつつ枕を濡らすことになってしまうかもしれない。あんなものは富豪にとっては新しい情報を仕入れる善きツールなのかもしれないが貧民にとっては目に毒以外の何物でもない酸い葡萄なのだ。
というわけで僕は極度にうつむき、とにかく足元だけを見つめながらトボトボと映画館内を歩いていた。涙がこぼれるのは仕方がない。上を向いたらポスターが目に入ってしまうのだ。そうしたら僕はまた溜めなくてよかったはずの涙を目に浮かべてしまう。…とは言い条、やっぱり気になる。たとえ悲しいことになるのがわかっていても…どんな映画があるのか知りたい。その欲求は強烈なものだった。頑張って曲げていた腰が知らず知らずまっすぐになっていく。目線も少しずつ上に流れていってしまう。もう止めようもない。そして僕はとうとう1枚の映画ポスターを視界に入れてしまった。
僕は泣かなかった。いやむしろ朗らかだったと言っていい。僕が目にしてしまったポスター、それは女子高生がなんやかやで戦時中にタイムスリップして…とかいう内容の映画だった。
こんなの観たくなるわけがない。ゴミである。声を大にして言う。ゴミでしかない。ゴミだと叫びたい。
出ている役者さんを見ても、「こいつらが出てるってことはゴミなんだな」と確信できるメンバーである。すべてにおいて「粗製濫造」という言葉がしっくりくる、今の僕にとっては目に薬な映画だった。
これなら視線をまっすぐ前に向けて歩ける。そう確信して僕はまっすぐテクテクと自分が目指すスクリーンへと闊歩していった。

ポスターだけで「観なくていい」と判断できる映画。なんとなく誰でも想像はできると思う。いわゆるブロッコリーなポスターは言うまでもないし、そういう映画にばかり主演している役者さんもいるからそういう人が主演だったら観なくてもいいのである。ジャニーズやAKBとかの人たちがやたら出てるのも大丈夫なやつだ。
映画だけでなく、そういう判断基準は他のジャンルのものにも存在する。書籍にももちろんある。書店を歩いていて目につくのは帯の推薦文とかだろうか。あれを堀江とかが書いていたらもうその書籍は読まなくていいものだと判断できる。時間は有限だ。読まなくていい本を読んだり観なくていい映画を観ている時間などない。「この映画/本はゴミですよ」と一目でわかるように親切に教えてくれるのは大変にありがたいことである。
そして本や映画ばかりでなく、ネット記事でも同様の判断基準は存在する。下に載せるのが先日見つけた、見出しや紹介文だけで「読まなくていい」と一瞬で判断できる類の記事である。



トリミングがめんどくさかったから残してしまったけど、下のコメントについてるジョン・ドゥなる人物はバカだから気にしないでほしい。


なんでも「女装家」さんのインタビュー記事らしい。これだけなら「読んでみようかな」と思わないでもない。しかしツイートの方に書かれている1つのフレーズが「この記事はゴミだから読まなくていいよ!!」と大声で教えてくれている。
そのフレーズとは何か。「異色の経歴」という惹句である。
思い起こして見てほしい。今までに出会った「わたし、よく人から『変わってる』って言われるんだよね~」とかほざく連中の中に1人でも面白いと思えるやつはいただろうか。1人たりともいなかったはずだ。人から変わってるとよく言われるそいつはその言葉とは裏腹に、言動から服装から持ち物から何から何までありきたりで月並みで凡庸で面白みの欠片さえ見い出せない、絵に書いたような「変わってると言われたい人」の量産型だったはずだ。「異色の経歴」もそれと類するものである。本文を紹介するにあたって「異色の経歴」なんていう、手垢にまみれきった退屈な惹句を用いてしまうその意識の低さ、こんなものはもちろん読まなくていいに決まっている。この女装家さんのことを知らないが、こんな低劣なジャーゴンを用いて紹介するのははっきり言って侮辱だし、女装家さんに対して失礼なことこの上ない話である。


本文こそ読まないが一応、見える範囲の見出しとかは見てみよう。
「慶應→金融→女装家」、この経歴ってそもそも「異色の経歴」なのだろうか。女装家というところが珍しいといえば珍しいが、慶應から金融を経てその業界にいるのはそんなに特殊なことなのだろうか。女装家と言われると馴染みがないから珍しく思えてしまうが、ドラァグの人ということだと解釈すると、ドラァグの人はいっぱいいるわけだし、それぞれいろんなバックボーンの人がいるんだから慶應出がいたって別になんとも思わない。
さらに言うと、この経歴を「異色の経歴」と書いてしまうその内心に、何かとても嫌なものを感じる。
逆に考えてみる。「慶應→金融」と来て、どんなものが続いたら「異色の経歴」ではないのだろう。その答えはわからないが、それと「女装家」という職が乖離しているからこそその距離を「異色」と表現しているのだと推察できる。だが果たして本当にそんな距離なんかあるのだろうか。「慶應」を何かものすごいことのように持ち上げようとしている傲慢さ、そして「女装家」をなんだか下に見ているような不遜さ、そんなものを「異色の経歴」というフレーズに感じ取ってしまうのだ。
慶應→金融の先に続くのが八百屋でもいいし刑務官でもブリーダーでもカメラマンでもピンサロ嬢でも、なんでもいい。そんなのは個人個人が各々の感性と各々の事情があって選択した道であって、別に当人は「異色の経歴」だなんて露ほども思っていないはずだ。
ある人物を思い浮かべてみる。その女性は慶應→電通ときて、作家/ブロガーを名乗ったり血液クレンジングなどを広告するインフルエンサーを名乗ったりと迷走に迷走を重ね、現在は何をしているかわからない、まあ端的に言えば何でもない無職になっている。慶應だろうがなんだろうがいろいろなのだ。みんな失敗したり成功したりしながら自分の道を見失ったり歩いたり止まったりしているだけだ。「異色の経歴」だなんだと騒ぐのは、いつだって無関係な他人ばかりである。

もっと考えてみる。ゴールを「女装家」に固定するとしてどのルートを辿れば「異色」ではない経歴になるのだろう。
「法政大→小学校教師→女装家」だとどうだろう。あまり異色な感じはしないものの、異色じゃない感じもしない。というか、何の感想も出てこない。
「公立高校→旅行代理店勤務→女装家」、これも先ほどと同様、「そうだね」と思うばかりだ。
「美容系専門学校卒→美容師→女装家」、これはなんだかすごくレールに乗っかってる、一番まっすぐな道のりに見える。これは「異色」ではない。
異色ではない経歴は発見できたが、だから何だと言うのだろう、って話である。「慶應→金融」を経た女装家さんと「美容系専門学校→美容師」を経た女装家さん、どちらが良いわけでも悪いわけでもない。2人ともそれぞれ頑張っているんだから2人ともそれぞれ立派だね。それで終わりである。

僕の話も少ししてみよう。前に働いていた工場での話だ。なんでもその工場では僕が初めてだったそうだ。何が初めてかというと、「早稲田大学」に行ってた人間を雇うのが、である。
早稲田→製本工場、これも一応は「異色の経歴」となるのだろうか。
そういうわけで当該工場初の早稲田の人間だった僕の仕事ぶりはどうだったかというと、普通だった。完全に普通だった。中卒の先輩に教わりながらパートのおばちゃんと同じ仕事をしていた。早稲田の文学部で学んだ知識は特に活かされることもなかった。ただひたすら普通に、平凡な社員として平凡な仕事を平凡にこなしていた。工業高校卒の上司の仕事ぶりを見ては「やっぱり技術がある人はすごいな」と感嘆したり尊敬したりしていた。徹頭徹尾、僕は普通だったのだ。
経歴なんてのはその人の一部であってそれが何かを担保することにはならないのである。
プロレスラーから政治家に転身した男性、と聞くとさぞかし閉塞しきった社会を壊してくれそうな期待感をついつい抱いてしまう。ところが蓋を開けてみればそいつは聞かれたことにも答えず閉塞しきった社会にさらに閉塞感を感じさせるような卑怯にして愚劣な振る舞いをしていた。その元プロレスラーの愚かさをみて、僕は「オリンピックという催しは地球上から消滅するべき」というかねてから持っていた持論をさらに強化した。経歴から想像されるイメージをイメージとして抱いておくのもいいが、それはあくまでイメージであって実態はまた別なのである。

誰がどういう道を歩もうが、そんなのは勝手だ。勝手であるはずなのにそれをいちいち評価され吟味されあーだこーだと他人に言われるのは不快だし、言ってるやつの存在は有害である。
ときに、自分の経歴のみが自分を支えるアイデンティティみたいになってる人もいるが、それはそれで惨めなことである。今現在の自分が空っぽだと喧伝しているようなものだ。本人はそれで気もちいいのかもしれないが、それがどれだけ物悲しく滑稽な姿に映るのか気づいていないのは憐れなことである。

「異色の経歴」、こんな言葉を使ってしまうライターさんはどんな人なのだろう、とも想像してみる。
なんとなくだが…映画も観なければ本も読まない人なのではないか、という気がする。そんなヤツが文章の仕事に何故就いたのかはわからないが、そいつにはそいつの何かしらがあったのだろう。それならそれでいいから、なるべく早く他業種に移ってほしいものだ。「文章の世界で生きてきました!」なんて大げさに経歴を盛れば転職もきっとできるのではないだろうか。

だが冒頭で記した通り、僕も最近では映画を観られない。本を読む習慣こそ残ってはいるが、本を購入したりはできない。このままだと本も読まない人間になっていく可能性もある。
そうなれば僕はきっと目の前の人間ではなく、その人間の経歴だけを見てヘコヘコおべっかを使ったり急に尊大な態度になったりするアホと化してしまうだろう。そうはなりたくない。そうならないためには映画を観たり本を読んだりしなくてはいけない。だがそのお金はない。
そこで皆様にお願いがあります。どうかどうかお金を恵んでいただけませんでしょうか。少しでもいいのです。もちろん多額でもいい、ていうかなるべく多額がいいです。そのお金で僕はアイドル(くるみさんが好き)に会いに行ったりお酒を買ったりして、余れば本とかも多分買います。僕はお金がほしいのです。どうか下のサポートというところからお金を恵んでください。どうかどうかよろしくお願いいたします。

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