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浪合の尹良親王

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 応永31年8月15日同十五日、尹良親王一行は、吉良(愛知県西尾市吉良町。幸田の誤りでは?)の西郷弾正左衛門尉正庸など、桃井義繁の厚恩の者に頼るため、飯田(長野県飯田市)から三河国に向った。大野(長野県下伊那郡阿智村智里大野)に至ると、雨が激しく降り、道は川のようになった。未の刻(13時~15時の2時間)から風雨がさらに激しくなり、昼間だというのに、暗い夜のようになった。
 その時、駒場小次郎、飯田太郎と名乗る野武士が突然現れ、尹良親王一行を襲った。下野宗徹、世良田義秋、羽河景庸、羽河景国、一宮伊予守、酒井貞忠、酒井貞信、熊谷直近、大庭景郷、本多忠弘らが防戦したが、地形が頭に入っている野武士たちは、ゲリラ戦を挑んできた。
 大井田一族が野武士たちに討たれると、下野宗徹と政満は、山麓の民家に尹良親王の御輿を入れ、「最早これまで」と自害を勧めた。尹良親王は生き
残った従臣たちを集め、「これまでの忠義は後の世まで忘れない」と感謝して、自害した。従臣15人が殉死し、家に火をかけた。自害の地を「宮様が御腹をめされた地」の意味で「宮ノ原」、従臣の遺体を埋めた塚を「千人塚」(戦人塚)と呼ぶ。

■『浪合記』「尹良親王伝」
 同15日、飯田より三河に向ふ。
 大野村より、雨、夥く降りて、道路、大河の如し。未の尅より、風雨、猶、烈しく、十方暗夜に等し。野武士、又、俄に起って、駒場小次郎、飯田太郎と名乗りて尹良君を襲ひ奉る。
 下野入道宗徹、世良田次郎義秋、羽河安芸守景庸、同安房守景国、一宮伊予守、酒井七郎貞忠、同六郎貞信、熊谷弥三郎直近、大庭治部太輔景郷、本多武蔵守忠弘以下、防戦ふ。賊を討てども、切ども、賊は案内は、よく知りたり。彼に集より駆出て水陸を走り、畦岸に聚て散々に矢を放る。味方、天難逃がたく、襄運是に極て、尹良君、免れさせ給ふ事かたく、大井田一井、賊の為に討る。下野入道、并に政満は、小山の麓の在家に主君・尹良の御輿を舁入させ、御自害を勧め奉る。宮は、残る人々を召され、「年頃、日頃の忠義、後の世まで御忘あるべからず」とて、甲斐甲斐しく御生害有りければ、入道を初め、主従25人思ひ思ひに自殺し、家に火を懸け、悉く爛せしこそ悲しけれ。
 政満は、御遺言を守り、此の難中を免れて上野国にぞ皈へりける。時は、応永31年8月15日、信濃国大河原にて、尹良親王、御生害なり。宮の御腹なされし処とて、世話に「宮ノ原」と云ふなり。討死の死骸を埋めて、1堆の塚とす。是を「千人塚」と云ふ也。石塔は、信濃国浪合の聖光寺に有りとなん。
   応永31年8月15日合戦討死法名
   大龍寺殿一品尹良親王尊儀 [後醍醐天皇皇孫]
   大円院長誉宗徹大居士   [桃井入道宗綱]
   智真院浄誉義視大居士   [羽河安芸守景庸]
   依正院義傳道伴大居士   [世良田義秋]

■宮ノ原の浪合神社の尹良親王陵(首塚)

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 勅使が参向し、尹良親王の墓だと認められた。

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 右:宮内大臣従二位勲一等伯爵・渡邊千秋による「尹良親王御舊迹」碑。
 左:尹良親王の墓(宝篋印塔)

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 尹良親王陵の首塚

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