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Recoの君語りー『光る君へ』(第2回)「めぐりあい」ー

 主人公は紫式部。 平安時代に、千年の時を超えるベストセラー『源氏物語』を書き上げた女性。彼女は、藤原道長への思い、そして、秘めた情熱とたぐいまれな想像力で、光源氏=光る君のストーリーを紡いでゆく。
 変わりゆく世を、変わらぬ愛を胸に懸命に生きた女性の物語。(NHK)

藤原道長と紫式部

 母の死から6年、まひろ(吉高由里子)は15歳となり、成人の儀式を迎える。死因を隠した父・為時(岸谷五朗)との関係は冷めきる中、まひろは代筆仕事に生きがいを感じている。一方、道長(柄本佑)は官職を得て宮仕え。姉・詮子(吉田羊)が帝との間に皇子をもうけ、道長の一家は権力を拡大していた。道長の父・兼家(段田安則)は権力をさらに強固なものにしようと道兼(玉置玲央)を動かし、天皇が退位するよう陰謀を計る。

NHK公式

史実は、藤原道長の誕生年以外は不明ですが、前回書いたように、

延喜21年(921年)1月11日 安倍晴明、生まれる。
康保  3年(966年) 藤原道長、生まれる。
安和  2年(969年)「安和の変」(藤原氏による他氏排斥事件)
貞元  2年(977年) 3月28日 師貞親王の読書始
         紫式部、生まれる?
天元元年(978年)4月10日 藤原頼忠の娘・遵子が円融天皇に入内
天元元年(978年)7月24日 安倍晴明屋敷に落雷
天元元年(978年)8月   藤原兼家の娘・詮子が円融天皇に入内
天元  3年(980年)紫式部(4歳)と藤原道長(15歳)、運命の出会いと別れ
           紫式部の実母、病死?

くらいが妥当かなと思うのですが・・・。

 貞元2年、安倍晴明が登場したので、天文観測をして「天下に名を轟かす歌人が生まれた」と言うのかと思ったら、はずれました。このドラマの紫式部は、貞元2年にはもう生まれていて、8歳でした。
 今回判明したのは、「母の死から6年、まひろは15歳となり、成人の儀式を迎える」ということです。


■裳着(もぎ)

 「裳着」とは、成人した貴族の女性が、初めて裳(も)に袖を通す成人の儀式のことで、男性の「元服(初冠)」にあたります。

 裳着(もぎ)は、平安時代から安土桃山時代にかけて、女子が成人したことを一族および他氏に対して示すことを目的として行われた通過儀礼。
 なお、通説では初潮を迎えた後の10代前半の女子が対象とされている。成人したものとして当該の女子に初めて裳を着せる式で、裳着を済ませることで結婚などが許可された。
 女子に裳を着せる役は腰結(こしゆい)と称され、徳望のある者から選ばれた。日取りは吉日が選ばれ、裳の腰紐を結び、髪上げをするほか、「鉄漿親」(かねおや)の立ち会いのもと、女子は初めてお歯黒を付け、眉を剃り、厚化粧をして殿上眉を描いた(引眉)。これ以降、裳着を済ませた者は、小袖は白を、袴は緋(ただし、江戸時代以降は結婚まで引き続き濃紫)を着ることとされた。
 江戸時代以降、武家と庶民において女性の成人儀礼は男性同様に元服と称し、実施年齢も18歳から20歳位に引き上げられ、または結婚と同時に行うようになった。

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■をしへて! 佐多芳彦さん ~平安時代の女性の成人式! 「裳着の儀」
大河ドラマ「光る君へ」第2回でまひろ(吉高由里子)が行った「裳着(もぎ)の儀」。風俗考証を担当する佐多芳彦さんに、この儀式の意味などについて伺いました。
――「裳着の儀」とは、どのような儀式でしょうか?
平安時代の女性にとっての成人式になります。裳というのは後ろに引いている白いプリーツスカートのようなものですが、実は裳だけではなく、唐衣(からぎぬ) や袴(はかま)も一緒にまとうんですね。現代では十二単(ひとえ)とも呼ばれますが、これが正装である女房装束の基本となります。唐衣と裳の組み合わせは、奈良時代にはプライベートな格好だったのですが、平安時代になると礼装に格上げされました。
――どのくらいの年齢で行われていたのでしょうか?
10代の前半くらいです。この「裳着の儀」を行うと成人したことになり、婚姻を結ぶことができるようになりました。本来はこのタイミングで、引眉(ひきまゆ)を引いたり、お歯黒を付けたり、白粉(おしろい)を塗ったりもしているのですが、ドラマでここまでやると大変なので「光る君へ」では行っていません。お歯黒は虫歯の予防のために付けられていたのですが、現代人の感覚ではニヤッと笑ったときに不気味に見えてしまうんですよね(笑)。
――宣孝(佐々木蔵之介)はまひろの正面で何をしているのでしょうか?
宣孝が行っているのは、腰結(こしゆい)です。その家にとって非常に人望のある男性が裳を腰に結び、成人する女性の人生の門出を祝福するんですね。男性が成人する際に後見人が冠や烏帽子(えぼし)をかぶせますが、これと同じです。
――「裳着の儀」でまひろが着ている女房装束はとても立派で、貧乏な為時の家にあったとは思えないのですが、どこから調達していたのでしょうか?
貴族社会の意外な一面なのですが、晴れ舞台があってそこに相応の衣服が必要となった場合、経済力がある家は当然自分たちでまかないますが、それが難しいときには誰かに借りていたりするんですね。
――借りることができたんですね。
そうなんです。また現代と同じように、親類や知人などから祝いの品として送られることもありました。けれどもこのシーンに関しては、為時が愛娘(まなむすめ)のために必死に資金を工面して立派な女房装束を用意してあげたと思いたいですね。

https://www.nhk.jp/p/hikarukimie/ts/1YM111N6KW/blog/bl/ppzGkv7kAZ/bp/py5g5QWBXR/

※引眉とお歯黒

 京都では、「裳着」ではなく、「十三詣り」を行います。
 平安時代、「裳着」において、裳を着せる役は「腰結(こしゆい)」と呼ばれ、人徳のある者や、一族の長などが務めましたが、現代の「十三詣り」では、最後に帯締を締めるのは父親です。

 十三詣りあるいは十三参り(じゅうさんまいり)は旧暦の3月13日前後 (新暦の3月13日から5月13日)に、男女とも数え年13歳でおこなう祝いである。子供の多福・開運を祈り、小学校を卒業して中学校に入学する春に寺社に詣でる形式が一般的。
 特に京都嵯峨の虚空蔵法輪寺における虚空蔵菩薩への「十三参り」は有名である。虚空蔵菩薩は十三番目に誕生した智恵と福徳を司る菩薩とされる。これに因み別名、知恵詣りまたは智恵もらいとも云う。七五三ほど全国的に一般的ではない。
概要
 十三詣りの由来は諸説あり、13歳は半元服であり大人の仲間入りをする年齢だった説、厄年を迎える初めての年が13歳であり厄払いの意味があった説、虚空蔵菩薩が菩薩の中で13番目に生まれたとされており、これが由来となった説などがある。
 初めて大人の寸法(本断ち)の晴れ着を着るが、肩上げを必ずする。この時期にそろえた着物をおりあるごとに着せて、着物になじませ自然に立居振舞を身につけさせるはじめとする。
(中略)13歳という年齢が元服の時期と合致するため、一種の通過儀礼として伝承された。関西では七五三よりこちらの方が盛んな地域も多く、中でも京都嵐山の法輪寺・大阪の太平寺・奈良の弘仁寺が有名である。

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 さて、「母の死は9歳の時」というのは、学説(2~4歳の頃)とは大きく異なるのですが、ドラマの設定で年表を修正すると、

延喜21年(921年)1月11日 安倍晴明、生まれる。
康保  3年(966年) 藤原道長、生まれる。
安和  2年(969年)「安和の変」(藤原氏による他氏排斥事件)
安和  3年(970年) 紫式部、生まれる。
貞元  2年(977年)3月28日 師貞親王の読書始
天元元年(978年)4月10日 藤原頼忠の娘・遵子が円融天皇に入内
天元元年(978年)8月   藤原兼家の娘・詮子が円融天皇に入内
             安倍清明宅に落雷
天元元年(978年)   紫式部(9歳)と藤原道長(13歳)運命の出会いと別れ
             紫式部の実母、病死と公表(実は道兼に殺害された)
永観  2年(984年)  紫式部、15歳になって裳着
永観  2年(984年)4月3日 高麗人の船が筑前国早良郡に来着
永観  2年(984年)  紫式部(15歳)と藤原道長(19歳)、運命の再会

となります。

〇実際の藤原道長は、紫式部よりも10歳ほど年上だと思われますが、このドラマでは4歳年上となります。

〇安倍晴明の屋敷に雷が落ちたのを藤原詮子が円融天皇に入内した天元元年(978年)8月とする記録はありません。7月24日に落ちたとする記録(『百練抄』『日本紀略』)はあります。
 ちなみに、落雷の最古の史料は、天智天皇8年8月に藤原鎌足邸に落ちたというものです。天智天皇と藤原鎌足といえば、「乙巳の変」の共犯者ですね。2人の出会いは、法興寺の打毬で、天智天皇(当時は中大兄皇子)の皮鞋が脱げたのを、藤原鎌足が拾ったことです。藤原鎌足の子孫の紫式部の脱げた靴が、藤原鎌足の子孫の藤原道長の頭に当たるという「再会」の演出って、藤原鎌足と中大兄皇子との出会いのオマージュでしょうか?

【紫式部の家族】

 前室・藤原為信の娘:紫式部が4歳?の時(980年)に死去(死因不明)
   ┣長女:974? -1000?(紫式部の1歳年上):26歳で死去(死因不明)
   ┣次女:紫式部(977? -?):藤原宣孝室、上東門院女房。
   ┣長男:藤原惟規(978? -1011):越後で死去。享年34?
  藤原為時(越前守→越後守)
   ┣次男:藤原惟通(979? - 1020)
   ┣三男:定暹(980? - ?)
   ┣三女:藤原信経室
  後室・詳細不明

 史実を想像するに、「紫式部の母は、978年に藤原惟規を生むが、産後の肥立ちが悪くて死去。藤原為時はすぐに再婚し、翌年、藤原惟通が生まれた」のではないだろうか。
 さらに想像すれば、1000年に姉が亡くなったのを契機に『源氏物語』を書き始めた(現実逃避。空想の世界に生きる)となろうかと。
 これをドラマの設定に修正すると、次のようになるでしょうか。

 前室・藤原為信の娘:ちやは。紫式部が9歳?の時に殺害される。
   ┣長女:ドラマには登場しない。
   ┣次女:まひろ。紫式部(970 -?):藤原宣孝室、上東門院女房。
   ┣長男:太郎。藤原惟規(971? -1011):越後で死去。享年41。
 藤原為時(越後守)
   ┣次男:藤原惟通(979? - 1020)
   ┣三男:定暹(980? - ?)
   ┣三女:藤原信経室
 後室・詳細不明


■父親と娘の仲

 ドラマのまひろ(紫式部)は、次の4つの理由で父親が嫌いです。
①父親のせいで貧乏(親ガチャ失敗)。母は自分の着物を換金している。
②貧乏なのに、母以外にも女がいる。
③父親の就職は母のお百度参りのお陰であるが、藤原兼家のお陰とした。
⓸母を殺した藤原道兼を訴えず、母は病死にされた。
そして、今回、⑤代筆業をするなと言われた。

<学説>
①父親は無職であったが、母の家は裕福なので、これほど貧乏ではない。
②無職で貧乏なので、別の女はいない。ただ、母の死後、すぐに再婚した。
③師貞親王の御読書始で副侍読を務めた縁で就職できたのであろう。
⓸母の死因は不明。貴族が人を殺す場合は、従者にやらせるであろう。

 藤原為時は、娘・まひろをどう扱ったらよいのでしょうか?
 藤原兼輔(紫式部の曽祖父)『後撰和歌集』「雑」1102番歌に、

   人の親の心は闇にあらねども
       子を思ふ道にまどひぬるかな

(子を持つ親の心は、道が見えないほどの真っ暗闇ではないが、親たる者、子供の事となると、扱いに悩み、道に迷ってしまうものである。)

【藤原氏(北家)】

 藤原忠平┳実頼━頼忠遵子
 
    ┗師輔┳伊尹━懐子━花山天皇(第65代)
        ┣兼通
        ┣安子┳冷泉天皇(第63代)
        ┃  ┗円融天皇(第64代)
        ┗兼家┳道隆
           ┣超子━三条天皇(第67代)
           ┣道兼
           ┣詮子━一条天皇(第66代)
           ┗道長

※藤原氏(北家)は、娘を天皇と結婚させ、生まれた子の祖父として摂政、関白になり、政権を牛耳った(「摂関政治」)。

■父親と息子の仲 ー人殺しの利用ー

「分からぬのなら黙っておれ。これは心からの忠告じゃ」(藤原宣孝)
「病死にしたのは良い了見だった」(藤原宣孝)

 藤原宣孝はいい人。さすが未来の旦那様。

 私が藤原為時なら、藤原兼家に
「あなたの次男が私の妻を殺した。どうしてくれるんだ?」
と詰め寄り、沈黙と交換に出世を要求するも、口封じに殺されたでしょうね。

 藤原兼家は怖い。「長男・道隆=いい人 / 次男・道兼=汚れ役」と決め、殺人事件の件で藤原道兼を「従者に殺させず、自分で殺して家の名を汚した」「わしが従者を殺すはめになり、わしの手も汚れたのだぞ」と責め、円融天皇に薬を盛らせる。もちろん、ばれたら「藤原道兼の独断」と主張し、藤原道兼を殺して(口封じして)終わりにするつもりでしょう。「道兼=狂暴」という噂もあるので、利用しやすい。

※第1回反省会で言われたのは、
①平安貴族は人を殺さない。従者にやらせる。
②白菊が写された。平安時代には野菊しかない。
くらいですが、今回、①が解消。文句のつけようがない脚本です。
これは、脚本家の優秀さはもちろん、本作の時代考証の先生が熱い方で、長時間話し合っているからだそうです。風俗考証の先生も頑張って!(野菊ではないけど、野菊に見える小輪でした、)
③ 「円融天皇に毒を飲ませるのではなく、安倍晴明の呪詛でいいのでは?」という意見がありますが、この頃、安倍晴明は都におらず、尾張国~遠江国にいたという。

【ネタばらし】藤原道長(966-1028)は、三男であるので、家督相続には関係なく、のんびりと暮らしていた。ところが、長徳元年(995年)、関白であった長男・道隆(983-995)が糖尿病でなくなり、引き継いで関白になった次男・道兼(961-995)が数日後に病死する(「七日関白」)と、嫡男になった。

【今後の展開予想】 
①どうも藤原道兼は、殺人の件を、父・兼家が知っているのは、弟・道長がちくったからと思ったらしい。弟いじめが激化する?
②「兄・道隆の死を悲しんだ道長が、慰めてもらおうと紫式部に会いに行く。その時、紫式部は『母の仇が関白になるなんて』と漏らしてしまい、驚いた道長は、子供の頃にいじめられていたことを思い出し、兄・道兼を紫式部のために毒殺し、『兄上、念願の関白になれてようございましたな。たった7日間でしたが』と捨て台詞を言い、関白に就任する」って感じでしょうか?

天元元年(978年)4月10日 藤原頼忠の娘・遵子が円融天皇に入内
天元元年(978年)8月   藤原兼家の娘・詮子が円融天皇に入内

・結果、遵子は男子を生めず、詮子は生んだ。
・詮子の父・藤原兼家は、外孫・懐仁親王を即位させるために陰謀を巡らし、花山天皇を約1年で退位させた。

  藤原(北家)頼忠━次女・藤原遵子(じゅんし/のぶこ)
               ┣(無子)
           第64代・円融天皇
               ┣懐仁親王(第66代・一条天皇
  藤原(北家)兼家━次女・藤原詮子(せんし/あきこ)

■「鶏鳴狗盗(けいめいくとう)」

 鶏の鳴き声が上手い者と、犬のように盗むのが上手い者──どちらも役に立たない者に思われるが、役に立つ時もあることのたとえ。
 乱暴な息子でも、足で扇を開く東宮でも、いつかは役に立つものである。

 紫式部が詳しい解説を弟にしようとしたら、
「やめて。気持ち悪いから」
と止められました。いつの時代も、歴女は嫌われるものだと改めて実感(泣)。
 代わりに私が解説を・・・って、実は「鶏鳴狗盗」については、既に↓で解説済みです。

■散楽

天元元年(978年)4月 藤原頼忠の娘・遵子(のぶこ)が円融天皇に入内
天元元年(978年)8月 藤原兼家の娘・詮子(あきこ)が円融天皇に入内

  アキの女御(藤原詮子?)孕めよ♪
  ハルの女御(藤原遵子?)孕めよ♪
  宿れ 宿れ 宿れよ♪

アキ「授かりました。やり遂げました。私は皇子を産みましたー!」
円融天皇?「この子がおればアキなどいらぬ。あっちへ行け」
アキ「弟よどうしたらいいの、助けてくれ、弟(藤原道長?)よ」

藤原詮子は円融天皇に和歌を送りました。
それを読んで、円融天皇は、お渡りになられるも、
「これはなんだ? 見苦しいことをするな。そなたは懐仁の母であるぞ。汚らわしい」(いい年して性欲とは、はしたない)
と諫めました。

■母子相姦

 当時の人は15歳とかで子供を産んだから、その子が15歳になった時、産んだ母親は30歳。15歳と30歳なら、両方いけちゃう?

 師貞親王は、安和2年(969年)、父・冷泉天皇の弟で叔父でもある守平親王の即位(円融天皇)と共に生後10か月足らずで立太子しました(次の天皇に決定しました)。永観2年(984年)8月27日、円融天皇の譲位を受けて即位しましたが、在位は2年足らずで、19歳の若さで退位して出家てしまいましたが、性欲は衰えておらず、乳母子・中務(なかつかさ)と、その娘・平平子(たいらのひらこ/へいし)を同時に愛し、それぞれに男子を産ませました。中務との御子を「母腹宮」(おやばらのみや、親腹御子、五の宮・清仁(きよひと)親王)、平平子との御子を「女腹宮」(むすめばらのみや、女腹御子、六の宮・昭登(あきのり)親王)と呼んだと『栄花物語』にあります。

おやばらのみこをば五のみや、むすめばらのみこをば六のみやとて、をのをのみな、なべてのみやたちのえ給ふほどの御封ども、たまはらせ給ふ。

『栄花物語』(巻8)「初花」
https://dl.ndl.go.jp/pid/877396/1/139

 平安時代の歴史物語といえば、『大鏡』と『栄花物語』ですね。(「六国史」の最後の『日本三代実録』は、仁和3年(887年)8月26日までです。)
・『大鏡』:文徳天皇~後一条天皇の14代176年間を紀伝体で。
・『栄花物語』:宇多天皇~堀河天皇の15代約200年間を編年体で。

■平安時代最大の対外危機「刀伊の入寇」の前兆?

「刀伊の入寇(といのにゅうこう)」とは、「元寇」に先立つ寛仁3年(1019年)に、女真族の一派とみられる海賊が壱岐国、対馬国を襲い、さらに、北九州に侵攻した事件のことで、「刀伊の来寇」ともいいます。

 9世紀から11世紀にかけての日本は、記録に残るだけでも、新羅国や高麗国などの海賊による襲撃と略奪を数十回受けており、特に被害を被ったのが北九州の玄界灘沿岸でした。

 今回、ドラマで取り上げられたのは、永観2年(984年)4月3日に、高麗人(こまびと)の船が、筑前国早良郡(現・福岡県福岡市)に来着したことです。大宰府の適切な対応で、何事もなく帰国したとか。

異朝事
(中略)
同二年四月三日、高麗人船来著筑前国早良郡事。
同廿一日、高麗国人事。

『小記目録』(16 臨時6)

 以上、今回は藤原道長が放免に捕らえられた場面で終了。

※放免(ほうめん):検非違使(けびいし。警察官。後には訴訟や裁判官も兼任した。少数だったので、超多忙だったという)の下で働く罪を許された元罪人。「下部」とも呼び、犯罪者を探索し、捕縛や拷問を担当しました。
 検非違使は、江戸幕府では火付盗賊改方に相当するという。『鬼平犯科帳』の長谷川平蔵は、元罪人を使っていますが、それは「情報屋」としてであって、捕縛権や拷問権は与えていませんでした。
 ドラマでは、藤原兼家が「治安維持のために、検非違使の人数を増やし、褒美を与えればよい」と提案し、藤原実資(さねすけ)が支持したため、褒美目当てで逮捕したため、冤罪が増え、自分の息子が捕まったとした。

 別当(1名)>佐(2名)>大尉(4名)・・・>放免


 今回は前回の6年後ということでしたが、この6年間で、(①紫式部と藤原道長が成長して、子役の2人が回想でしか登場しなかったこと、②散楽の内容が現代になったこと、以外は)何も進展がなかったようで、「話が6年間の空白で途切れた」という感じはしませんでした。また、物語の進行も分かりやすく、「なぜ?」と思う場面は、前回同様ありませんでした。分かりやすい台本です。
 藤原為時は再婚して子供も産まれてると思うのですが・・・「再婚していないので、身の回りの世話をさせるために、越前国へ紫式部を連れて行った」という流れになるのでしょうか?

 唯一説明不足と思われる「鶏鳴狗盗」の解説は、(大学入試時の漢文の知識ですが)既にしています。あとは「放免」ですかね。

 ということで、『光る君へ』の長文の物語(ストーリー)解説記事も、長い歴史(ヒストリー)解説記事も、書く事は、非常に困難です。申し訳ありません m(_ _)m

 でも、今、仕事は、「光の語り部」として「光語り」をすることしかないので、がんばろうと思います。記事のご感想、ご意見をお寄せください。

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