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瀧山寺の文化財 :三門(山門、惣門)

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 三門を潜れば、目の前に七堂伽藍が・・・というわけではない。
 三門から本堂までは約800mある。
 本堂への行き方には、
①三門を潜り、青木川沿いに東進し、640余段の石段を登る。
②瀧山坊本坊の前の道を登って常盤中学校の裏門脇から急な坂道を登る。
③近年開かれた本坊上手からの急な坂道を登る。
の3通りある。

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 国指定重要文化財
               滝山寺
 建造物 滝山寺三門  一棟
 三間一戸楼門、屋根入母屋造こけら葺き。斗組(ますぐみ)は下層三手先、上層尾垂木三手先の典型的な中世楼門で、ほとんど純和様で造られ、わずかに上層部頭貫木鼻に天竺様の影響が認められる。『滝山寺縁起』によると、文永4年(1267)の建立で、市内最古の建造物。
 楼上正面の扁額は文永12年正三位藤原朝臣経朝の書。
 工事にあたり飛騨権守藤原光延が垂木を逆さに打ったのを恥じて自殺したとの伝承があり、正面左手の塚はその墓という。
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/155735

「飛騨権守藤原光延之塚」。

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■『徳川家康のふるさと岡崎 史跡と文化財めぐり』「さかさ垂木」
伝説
 仁王門は文永4年(1267)飛騨の匠が建てたものである。完成後、ある老婆が東南の裏手左の尾垂木の切り違えがあるのを見て「匠の建てしもこの過失あるかな」とつぶやいたのを聞き、深く恥じて仁王門の階上よりのみをくわえてとびおり、のど元を突いて死んだ。その所に一本の椿が生え、年々美しい花が咲いたが、実は結ばなかった。村人はこの椿を「匠霊花」と呼んだ。そして、ここに塚を築いた。現在、仁王門の正面左手にあるのがそれである。
(参考)
 昔の人は、完全ということは満の次に欠が来るとして何か縁起のよくないことが起こりはしないかと恐れ、その一部を不完全にしておいたといわれる。

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 扁額の裏に「文永十二年藤原朝臣経朝の書」とある。

※藤原9代経朝:世尊寺流書道を中興したいわゆる「平安の三蹟(さんせき)」の一人・藤原行成の藤原8代行能の子。世尊寺流は、藤原初代行成から藤原17代行季まで、代々、宮廷の書き役を司どった。
「世尊寺流」と呼ばれる書は、柔和で端正な書体、豊満な筆線、粘りのある線質を特徴としている。
・藤原①行成(ゆきなり)…⑧行能─⑨経朝…⑰行季(ゆきすえ)

【参考資料】
・『岡崎市史』「額田郡 滝」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1240710/97
・奥村全應『瀧山寺縁起』1929
https://websv.library.okazaki.aichi.jp/winj/img/zoomify/510035349.pdf

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