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「鎌倉殿サミット2022 ~ 源頼朝 死をめぐるミステリー 日本史上の大転換点 ~」

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2022年1月2日(日) [BSP][BS4K] 午後6時00分~午後8時00分
歴史サミット第3弾「鎌倉殿サミット2022」
~源頼朝 死をめぐるミステリー 日本史上の大転換点~

 第一線の研究者が一堂に会し、激論を繰り広げる歴史サミット。謎に満ちた鎌倉幕府初代将軍・源頼朝の死の真相に迫る。大河ドラマ時代考証担当も参戦!鎌倉殿が丸わかり。
 通説では「落馬」で急死したとされる源頼朝。しかし幕府の正史「吾妻鏡」では、なぜか頼朝の死の前後の記録がすっぽりと抜け落ちている。しかもその後、2代頼家、3代実朝も相次いでこの世を去り、頼朝の血は途絶えてしまう。病死か事故か、恨みか、暗殺か…。暗躍したのは誰だ?頼朝の死のミステリーをひもといていくと日本史上の大きなターニングポイントとなった鎌倉幕府の真実が見えてくる。

【司会】爆笑問題
【解説】東京大学史料編纂所教授・本郷和人     
【パネリスト】
・井上章一(国際日本文化研究センター所長)   
・近藤成一(放送大学教授)          
佐伯智広(帝京大学文学部史学科准教授)  
坂井孝一(大河ドラマ時代考証担当者)     
・長村祥知(大河ドラマ時代考証担当者)      
野村育世(女子美術大学付属高等学校・中学校教諭)
※時代考証:呉座勇一は辞退。木下竜馬(東京大学史料編纂所助教)。


■源頼朝の死因「鎌倉殿サミット2022

・落馬説:『吾妻鏡』にあるが直接的死因ではない。
・病死説
・怨霊説:『盛長私記』(怨霊による落雷に馬が驚いて落馬)
     『保暦間記』(『盛長私記』は偽書)
・暗殺説(『吾妻鏡』の曽我兄弟による源頼朝の暗殺未遂~御家人反発説)
 ・朝廷による暗殺説
 ・北条氏による暗殺説~北条陰謀説
 ・源範頼による暗殺説→ばれて源頼朝による粛清→源頼朝に反発
・御家人反発説
・北条陰謀説

●『吾妻鏡』に源頼朝の死の記録が抜け落ちている理由
①源頼朝を尊敬する徳川家康が、散在ていした『吾妻鏡』を集めた(が見つからなかった)。
②新井白石によれば、徳川家康が「名将の恥になるようなこと(落馬で死亡)は載せるべきではない」として隠したという。(とはいえ、徳川本以外の写本もあるので、徳川家康が徳川本のみ隠しても意味が無い。)
③『吾妻鏡』を編纂させた北条氏について、都合が悪いことが書かれているので破棄したのであろう。(3年分削除ということは、源頼朝の死因について以外に、一幡の誕生と扱いも削除したかった?)
④もともと存在しない。(『吾妻鏡』は、将軍毎に並行して書かれた。(『吾妻鏡』には、3種の記述の特徴が有り、3人、もしくは、3グループ以上で並行して書いた事が明らかである。)頼朝将軍記の担当者(グループ)は、記載内容が多くて、最後の3年間分は未完だとする説。)
・編集者/グループ①担当記事:頼朝将軍記
・編集者/グループ②担当記事:頼家/実朝/頼経/頼嗣将軍記
・編集者/グループ③担当記事:宗尊将軍記

●鎌倉幕府の成立年は?(教科書:1192年から1185年への変更)
・1180年説(近藤成一説「東国国家論」):源頼朝が鎌倉殿と称された年
・1190年説(佐伯智広説「権門体制論」):源頼朝が上洛した年
・1192年説(従来説):源頼朝が朝廷から征夷大将軍に任命された年
※源頼朝の意図が、鎌倉を首都とする関東王国の樹立であれば1180年、鎌倉に幕府を置いての全国統一であれば1190年だというが、源頼朝が早世して意図が分からなくなったことと、「幕府」の定義があいまいなことにより、正解は不明。
※本郷和人「源頼朝が征夷大将軍に実は大して関心なかった訳

●感想
 「西国は平氏、東国は源氏」のイメージであるが、実はそうではない。源義経は、追討の院宣が出ると、西国に逃げようとした。日本が、源義経の九州王国、天皇の近畿王国、源頼朝の関東王国(「東国国家論」)、藤原氏の奥州王国に分かれる(もしくは、北九州、鎌倉、平泉が特別行政区として朝廷から独立する)のも面白いかなと思ったが、源頼朝は源義経と藤原氏を討って、朝廷に擦り寄ったので、日本の分裂は避けられた。だが、御家人は、そうした源頼朝(源氏)に失望して、北条氏(平氏)のもとに集まったようにも思われる。御家人が源頼朝に期待していたのは、「平清盛の継承」ではなく、「平将門の再来」ではないだろうか?
 源頼朝の死をめぐるミステリーとしては、①死因が不明、②『吾妻鏡』の死亡記事の欠如に加えて、③墓が無いことがあげられる。鎌倉市西御門の法華堂(明治の神仏分離で白旗神社)に葬られたというが、見当たらない。現在、「源頼朝の墓」と呼んでいるのは、源頼朝の死後580年、江戸時代の安永8年(1779年)に源頼朝の子孫・島津重豪が建てたものである。(もしかしたら、源頼朝の墓が無かったので建てたのではなく、あったが、風化していたので、島津重豪が建てなおしたのかもしれない。)
 暗殺説は、番組では完全否定されたが、馬を射れば、もしくは、大きな音をたてれば、馬が暴れて、源頼朝は落馬すると思う。河原であれば、落馬した時に川原石で頭を打って亡くなるかも?

★史料:東京大学史料編纂所「大日本史料総合データベース」
・ 『承久記』「正治1年1月11日 1 征夷大将軍正二位源頼朝薨ずの条」
https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0417/supple/0381?m=all&s=0381
※扱いが軽い。もっと多くの本からの引用文を載せていただきたかった。

★司会の太田光(爆笑問題)が読んだ太宰治『右大臣実朝』
https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2255_15060.html

★源頼朝の死因のまとめ
https://note.com/sz2020/n/n96f7c8e37486


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