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第27回「安土城の決闘」(復習)

【徳川家康略年表】
天文11年(1542年)12月26日 徳川家康誕生
天文24年(1555年)3月   徳川家康、元服
永禄3年(1560年)5月19日 「桶狭間の戦い」(岡崎城へ帰還)
永禄4年(1561年)4月11日 「牛久保城攻め」(今川氏から独立)
永禄5年(1562年)1月15日 「清須同盟」(織田信長と和睦)
永禄5年(1562年)2月4日  「上ノ郷城攻め」(人質交換)
永禄6年(1563年)7月6日  「元康」から「家康」に改名
永禄6年(1563年)10月   「三河一向一揆」勃発
永禄7年(1564年)2月28日 「三河一向一揆」終結
永禄8年(1565年)11月11日 二女・督姫(母:西郡局)誕生(旧説)
永禄9年(1566年)5月      松平家康、三河国を平定
永禄9年(1566年)12月29日「松平」から「徳川」に改姓。「三河守」に。
永禄11年(1568年)10月   織田信長、足利義昭と共に上洛
永禄11年(1568年)10月18日 足利義昭、征夷大将軍に任官
永禄11年(1568年)12月6日 武田信玄、駿河国へ侵攻開始(第1次侵攻)
永禄11年(1568年)12月13日 徳川家康、遠江国へ侵攻開始
永禄11年(1568年)12月18日 徳川家康、引間城を奪取
永禄12年(1569年)5月15日  掛川城、開城(遠江国平定)
永禄13年(1570年)3月    徳川家康、上洛
元亀元年(1570年)4月30日 「金ヶ崎の退き口」  
元亀元年(1570年)6月28日 「姉川の戦い」
元亀元年(1570年)9月12日  徳川家康、浜松城に移る。
元亀元年(1570年)10月   徳川家康が、武田信玄との同盟を破棄
              →上杉謙信と「三越同盟」を締結
元亀元年(1570年)11月   松平勝俊、下山を脱出して浜松へ至る。
元亀3年(1572年)10月3日 武田信玄、「西上作戦」を開始
元亀3年(1572年)12月22日 「三方ヶ原の戦い」
元亀4年(1573年)4月12日 武田信玄、死没。享年51。
天正2年(1574年)2月8日  お万の方、於義丸(後の結城秀康)を生む。
天正2年(1574年)6月18日 武田勝頼、高天神城を落とす。
天正3年(1575年)3月19日 武田勝頼、足助城を落とす。
天正3年(1575年)4月3日   大岡弥四郎忠賀、刑死(鋸挽きの刑)
天正3年(1575年)5月16日 鳥居強右衛門勝商、刑死(磔刑)
天正3年(1575年)5月21日 「設楽原の戦い」
天正3年(1575年)12月24日 二俣城、開城
天正3年(1575年)12月27日 水野信元、誅殺。享年不明(50代前半?)。
天正4年(1576年)12月22日 亀姫、奥平信昌と結婚(7月説あり)
天正4年(1576年)3月     五徳、長女・登久姫を生む。
天正5年(1577年)7月     五徳、次女・熊(国)姫を生む。
天正6年(1578年)3月     徳川家康、西郷局と結婚
天正7年(1579年)4月7日  西郷局、長松(長丸、徳川秀忠)を生む。
天正7年(1579年)8月29日   築山殿、殺害さる。享年不明(38?)。
天正7年(1579年)9月15日   松平信康、自害す。享年21。
天正8年(1580年)8月25日   佐久間信盛を追放(「19ヶ条の折檻状」)
天正9年(1581年)3月22日   岡部元信、討死(「高天神城の戦い」)
天正10年(1582年)3月11日 武田勝頼、死没(武田氏滅亡)。享年37。
天正10年(1582年)4月10日~4月21日 織田信長の凱旋旅行
・・・(今回ここまで)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天正10年(1582年)6月2日  織田信長、死没(本能寺の変)。享年49。
慶長3年(1598年)8月18日  豊臣秀吉、死没。享年62。
慶長5年(1600年)9月15日  徳川家康、天下人になる(関ケ原の戦い)。
慶長8年(1603年)2月12日  徳川家康、江戸幕府を開設
元和2年(1616年)4月17日  徳川家康、死没。享年75。


1.安土饗応の日程

5月15~17日 徳川家康と穴山梅雪、安土城で明智光秀に接待される。
5月17日 明智光秀、安土城から居城・坂本城に帰城。
5月19日 織田信長、徳川家康と穴山梅雪とで惣見寺で幸若舞と能を観賞。
5月21日 徳川家康、上洛する。
5月29日 織田信長、上洛する。徳川家康、堺へ行く。
6月  2日 徳川家康、上洛途中で「本能寺の変」を知る。→「伊賀越え」

2.安土城

 フロイス『日本史』には、「信長が明智を使い、家康を殺すという噂が流れた」とある。徳川家臣団は、「殺されるのでは?」と緊張していたが、井伊万千代だけが「何という城だ!」と脳天気にはしゃいでいた。


3.安土饗応(食事)

 よく知られるストーリーは、「明智光秀が腐った魚を出したので、饗応役を解任して中国へ向かうよう指示した」である。

 『信長公記』では、「大宝坊に泊まっている徳川家康一行の饗応役は明智光秀で、期間は15~17日の3日間であったが、中国の羽柴秀吉から救援要請が来たので、饗応役を解任して中国へ向かうよう指示した」とする。腐った魚の話は出てこない。

 一方、次に揚げる『川角太閤記』では、「徳川家康一行の宿泊所は明智光秀の屋敷であり、織田信長が行ってみると、腐った魚の匂いが充満していたので、明智光秀の饗応役を解任した」とする。料理人が腐った匂いに気づかないはずがないので、一説に、酢を使って寿司を作ろうとしていたとする。

■『川角太閤記』安土饗応

【現代語訳】
 「徳川家康が、織田信長からの駿河国の拝領のお礼に、穴山梅雪を連れて、上洛する」と伝わってきたので、織田信長は、宿泊所に明智光秀の屋敷を指名し、御馳走の豪華さや、魚などの準備の具合を見るために明智光秀の屋敷へ行くと、夏なので、用意された生魚が想像以上に痛んで(腐って)おり、門から屋敷の敷地へ入ると同時に、風に乗って悪い匂いが漂ってきた。織田信長は、この匂いを嗅ぎ、大層怒り、料理場へ直行した。「この様子では。徳川家康の卿馳走(接待)は務まらない」と怒り、徳川家康は堀秀政の屋敷に泊めることにしたと、当時の人は(今は老人となっているが)「その通り」と記憶している。しかしながら、『信長公記』には、「大宝坊を徳川家康の宿に決め(明智光秀に接待させ)た」とある。このように宿泊所については、2通りあることをご了承いただきたい。
 明智光秀は、「恥をかいた」として、木の器や魚の台、その他、用意した鳥、魚など、残らず堀へ投げ入れた。「その悪い匂いほ、安土中に吹き散った」という。

家康卿は駿河國御拝領の為、御禮、穴山殿を御同道成され、御上洛之由聞こし召さるに付き、御宿には明智日向守所御宿に仰せ付けられ候處に、御馳走のあまりにや、肴など用意次第、御覧成さるべきために、御見舞候處に、夏故用意のなまざかな、殊の外さかり申候故、門へ御入成られ候とひとしく、風につれ悪き匂い吹来候。其の香り御聞付成られ、以之外御腹立にて、料理の間へ直に御成成られ候。「此の様子にては、家康卿馳走は成間敷」と、御腹立成られ候て、堀久太郎の所へ御宿仰せ付けられ候と、其の時節の古き衆の口は「右の通り」とうけ給候。『信長記』には「大宝坊所、家康卿御宿に仰せ付けられ候」と御座候。此宿の様子は、二通に御心得成らるべく候。日向守、「面目を失ひ候」とて、木具、さかなの台、其外用意のとり肴以下、残り無くほりへ打こみ申候。「其悪にほひ、安土中へふきちらし申す」と相聞え申し候事。

『川角太閤記』
https://dl.ndl.go.jp/pid/1920322/1/191

 演出面においては、岡田准一演じる信長の怒りがどこでピークを迎えるのか。そのグラデーションを重視したという。加藤監督は、信長が光秀に対して腹を立てた本当の理由は料理に落ち度があったことではなく、咎められた光秀が信長に発したある言葉だったと話す。
 「光秀は信長に打たれながら『私は何も細工は。上様のお申しつけ通り、私はなにも』って言うんですよね。つまり、それは信長と光秀の間でこの宴に関する何らかの密談があったことを露呈したことになる。信長にしてみれば“お前、それをここで言うのか”と。自分が決して見せない裏の段取りみたいなものを光秀という言わば格下の人間によってさらされてしまった。一方、その狼狽する信長から、三河の家臣団たちが信長という絶対的なカリスマを殿(家康)が越えていこうとする瞬間と見て取る。そういった構図にしたかったので、岡田さんには光秀のその一言をピークにしていただきたいとお伝えしました」

https://www.cinematoday.jp/news/N0138034

 徳川家臣団は、「殺されるのでは?(毒を盛られるのでは?)」と緊張していたが、井伊万千代だけがお構いなしにパクパク食べていた。
 なお、井伊万千代は、この年の冬に元服して「直政」と名乗り、翌・天正11年1月11日に松平康親の娘(徳川家康の養女)・花と結婚した。


4.安土饗応(幸若舞)

 5月19日、織田信長は、徳川家康と穴山梅雪と共に惣見寺で幸若舞を観賞した。演目は『信長公記』によれば「大職冠」「田歌」「和田酒盛」であるが、『どうする家康』では、織田信長が大好きな幸若舞の「敦盛」に変えられた。

 ところで、饗応の宴では信長が愛したとされる芸能「幸若舞(こうわかまい)」を、小姓たちが舞い踊るシーンが盛り込まれた。当初は予定になかったシーンだったというが、この舞を取り入れた理由について「『人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり』の一説で知られる舞ですよね。饗応の宴というからには何か出し物があるだろうということで芸能考証の友吉鶴心先生にご相談したところ、幸若舞に決まりました」と加藤監督。

https://editor.note.com/notes/n5da03335f2cd/edit/

 芸能考証の先生に相談せず、時代考証の先生に相談していたら、史実通り、幸若大夫義重の「大職冠」「田歌」「和田酒盛」になっていたかもね。

まず青陽の朝には、垣根木伝う鶯の野辺になまめく忍び音や、野径の霞現れて外面の花もいかばかり、重ね桜に八重桜。
九夏三伏の夏の天にもなりぬれば、藤波いとうか、ほととぎす夜々の蚊遣り火下燃えて忍ぶる恋の心す。
黄菊紫蘭の秋にも成りぬれは、尾上の鹿、立田の紅葉、枕にすだくきりぎりす聞かでや萩の咲きぬらん。
玄冬素雪の冬の暮れにもなりぬれば、谷の小河も通い路も、みな白妙に四方なると言えども消えて跡もなし。
名残惜しき故郷の木々の梢を見捨てつつ、今はまた一ノ谷の苔路の下に埋もるる、経盛の末の子の無官の太夫敦盛、
(中略)
人間五十年、化天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり。一度生を受け、滅せぬ物のあるべきか。

『敦盛』

5.安土城の決闘 ─脚本通りの相撲ではなく、アドリブ。─

 第27回では、家康が京の本能寺で信長を討つ計画を家臣たちに明かしたのち、信長に招かれ安土城へ。ところが明智光秀が饗応役を務めた酒宴の席で、家康が膳の鯉がにおうと言い出し、信長は光秀に激高。光秀が失脚したその晩、信長は家康を再び呼び出し「本当に“におった”のか?」と問い詰める。腹の内を明かさない家康に対し、信長は家康の正室・瀬名と息子・信康の死を持ち出して挑発。両者がにらみ合う緊迫のシーンが展開された。
 もともとこのシーンでは家康と信長が取っ組み合いをする予定だったが、事前の監督と松本、岡田の3者による打ち合わせを経て変更することになったという。
 「大体、週頭にリハーサルを行ってその週に収録しているんですけど、今回はその前の週に一度、松本さんと岡田さんと軽くセッションをやらせていただきました。台本上では2人が相撲を始める展開だったんですけど、それをやると(第2回で描かれた)若かりし日の家康と信長に立ち返るという、ある種のノスタルジーになる。だけど、今の二人はもう昔の相撲をとるような関係ではない。覇道を行く信長と、王道を行く家康、もはや完全に道が分かれた二人のシーンだと思うので」
 第27回は、家康にとって絶対的なカリスマだった信長が陰りを見せ、家康が信長を凌駕する存在になっていくことを示す回でもある。加藤監督は、その一端となるのが冒頭で信長が悪夢をみるシーンだと語る。
 「信長が自分を制御できなくなっているというか、自分の果てが見えてきてしまっているというのが、冒頭のシーンだと思うんですよね。自身がたどってきた道、多くの命を奪ってきたことと格闘している。そんな信長と、瀬名を失ってから3年の間、自身と対峙し続けてきた家康が一対一でぶつかるという展開においては、肉体ではなく、精神のぶつかり合いになるのではないかという話になりました。撮影の10日ぐらい前にそのパターンで一度やってみようということになり、軽く合わせてリハーサルをやって本番に入った感じです。信長が刀を手にしているといった、大まかな動きは事前に決めていましたが、刀を抜いて振り下ろすといった動きは岡田さんのアドリブです」
 信長が終始刀を手にしている設定については、監督と岡田が話すなかでアイデアが生まれたという。「特に刀を持つ必要はないのですが、信長が『京で待ち伏せして俺を討つつもりか?』とひれ伏した家康に迫るところで、それを手でやるのか、脇に置いてあった刀でやった方がいいのかと。僕が“刀でやりたい”と話したら岡田さんが“じゃあ、そのままずっと持っちゃうけど”とおっしゃって動いていくうちにああいう感じになりました。文句なしにカッコいいですし、振り下ろす動作にも何かを断ち切る意味合いが込められているように感じられて、そういったところも含めて岡田さんのお芝居は素晴らしかったですね」
 これまで家康に対して弱みを見せることのなかった信長だが、本回では自身の苦悩を告白するシーンがあった。信長は「人を殺めるということはその痛み、苦しみ、恨みを全てこの身に受け止めるということじゃ」と言い、いずれその報いとして無残な死を遂げることを予期しながら、「恨め、憎んでもいい。だから俺の側で俺を支えろ」と家康に懇願する。
 「ある意味、究極のラブシーンですよね(笑)。きっと寂しかったんですよね。孤高の人ですけれど、最終的にはストレートに言うしかなかったのかなと」
 一方、信長の苦悩を受け止めた家康が涙を流すシーンは松本のアドリブだったという。「信長が刀を振り下ろして座りこんだ後、家康が1、2歩後ずさるんですよね。これまでずっと信長に追いつこう、食らいつこう、超えようとしていたんだけれど、今目の前にいる信長は完全に打ちひしがれているというのが、手に取るように見えてしまう。後ずさりながら一筋の涙が頬を伝う……という松本さんのお芝居は、それは素晴らしかったですね」
 最後には家康が信長の側に寄り「弱きウサギがオオカミを食らうんじゃ」と耳元でささやく流れだが、この描写も松本のアドリブ。これまでにも家康と信長が至近距離で話すシーンは度々あり、とりわけ第15回「姉川でどうする!」では信長が家康の耳を噛む描写が反響を呼んだ。しかし、本回ではその構図が逆転する。
 「あまり見たことない家康だなと。いつもは信長が寄っていくんですよね。その直前にも信長がクローズな距離感で『腹の内を見せなくなったな』とつぶやくところがありますが、家康は全く動じず、最後には家康が『わしはわしのやり方で世を治める』『行き詰まっておるのはおぬしではないのか』と迫る。それに対して信長はもはや動くこともできないという逆転の瞬間と、感情のぶつかり合いを表現しなければならないので大変なシーンではありました」
 ところで、信長は家康の殺意を察知しながら、わずかな手勢を連れて本能寺に向かうことをあえて予告するが、それはなぜなのか。加藤監督は信長の心理をこう分析する。
 「もうどこかで終わりにしたいんですよね。彼の戦いの人生を。彼は革新の人ではあるんだけど、理想主義者ですよね。理想を達成するためにあまりにも修羅の道を進んできてしまった。その先にある理想の新しい世界を見たいんだけど、それを創っていくのは自分ではないこともよく分かっている。それでもやれるなら、家康に支えてほしいとラブコールを送っているわけです。それを許してくれないんだったら本能寺で殺してほしいという。哀しい人ですよね」
 完全なる主従関係にあった信長と家康の愛憎が入り乱れ、ある決定的な瞬間を迎えた本エピソード。同時に、演じる岡田と松本の演技の熱もピークを迎えた記念すべき回となった。


「本能寺の変の動機」は、「邪馬台国の位置」、2025年大河「写楽の正体」と並ぶ「日本3大ミステリー」の1つで、
・野望説
・怨恨説(私憤説)
・突発説
・信長非道阻止説(朝廷守護説)
・四国征伐回避説
・黒幕存在説(黒幕説)
など50種類以上の説が存在する。

 ちなみに私の説(と言っても他にも同じことを言ってる人がいると思うが)は、「黒幕存在説とトンデモ説以外、全て正解。野望、怨恨、信長非道阻止、四国征伐回避など様々あって「殺したい」と思っており、殺せる状況になったので殺した」とする「複合→突発単独説」です。


★今後の『どうする家康』

・第28回「本能寺の変」(7/23)
・第29回「神君伊賀越え」(7/30)
・第30回「賤ヶ岳の戦い」(8/6)
・第31回「豊臣秀吉との確執」(8/13)
・第32回「小牧・長久手の戦い」(8/20)
・第33回「於義丸を豊臣秀吉の人質(養子)に」(8/27)
・第34回「石川数正出奔」(9/3)
・第35回「
・第36回「
・第37回「
・第38回「
・第39回「
・第40回「
・第41回「
・第42回「
・第43回「
・第44回「
・第45回「
・第46回「
・第47回「
・第48回(最終回)「

※大河ドラマガイド「どうする家康 後編」は5月31日に発売されました。※ノベライズ3巻は7月25日、4巻は9月発行予定です。


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