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万寿(後の源頼家)の誕生

1.鶴岡八幡宮の整備


康平6年(1063年)    8月 源頼義が石清水八幡宮を勧請「由比若宮」
永保元年(1081年)  2月 源義家が「由比若宮」を修理
治承4年(1180年)  10月 源頼朝が「由比若宮」を小林郷北山に遷座
治承5年(1181年) 1月1日 源頼朝、神馬1頭を寄附
治承5年(1181年) 7月3日 社殿造営の大工・郷司を召喚
治承5年(1181年) 7月8日 大工・郷司到着し、造営開始
養和元年(1181年) 7月20日 宝殿の上棟式
養和元年(1181年)12月 「浜の大鳥居」を建立
養和2年(1182年) 1月1日 源頼朝、神馬1頭を寄附
養和2年(1182年)   3月 源頼朝が「若宮大路」「段葛」を造営
養和2年(1182年)   4月 源頼朝が「源平池」を造営
寿永元年(1182年) 8月12日 源頼家が誕生
寿永元年(1182年) 8月13日 源頼朝が神馬を奉納
寿永元年(1182年) 8月15日。六斎念仏を開始

(1)宝殿の上棟式


 養和元年(1181年)7月20日、「鶴岳若宮寳殿上棟」(鶴岡若宮宝殿の上棟式)の時、大工に渡す馬を源義経が引く(曳く)ことになったが、「2人で行う馬引きの1人を自分(源頼朝の猶子で、次期鎌倉殿候補筆頭)が務めてしまっては、自分に見合う相手がいるとは思えない」と言った。
 源義経の真意は、「自分に匹敵する人物は(1人もいないのに)2人もいるはずがないから」と驕り高ぶって辞退したのか、「自分の相手の2人は恐縮するであろうから、かわいそうだから」と辞退したのか、「そもそも馬引きは下人の仕事で、御家人の仕事ではないから」と辞退したのか分からないが、源頼朝に諌められた。

■『吾妻鏡』「養和元年(1181年)7月20日」条
 養和元年七月大廿日甲午。鶴岳若宮寳殿上棟。社頭東方搆假屋、武衛着御。々家人等候其南北。
 工匠賜御馬、而可引大工馬之旨、被仰源九郎主〔義經〕之處、「折節無可引下手者」之由被申之。重仰云、「畠山次郎、次、佐貫四郎等候之上者、何被申無其仁之由哉。是併存所役卑下之由、寄事於左右、被難澁歟」者。九郎主、頗恐怖、則起座引兩疋。初下手、畠山次郎重忠、後、佐貫四郎廣綱也。此外、土肥次郎實平、工藤庄司景光、新田四郎忠常、佐野太郎忠家、宇佐美平次實政等引之。
 申尅事終。武衛令退出給。

(養和元年(1181年)7月20日。鶴岡若宮の宝殿の上棟式(が執行された)。社頭の東方に仮屋を構え、源頼朝が着座した。御家人達は、その南北に座した。
(造営に携わった)大工達に褒美の馬を与るとして、大工に与える馬を引く役を(源頼朝が)源義経に言いつけたところ、「(上の手綱を私が引くと、私は貴方の異母弟(『玉葉』では猶子)なので、私に)見合った下の手綱を引く身分の者が(2人も)いないのではないか」と(源義経が)言った。源頼朝が続けて「畠山重忠、次には佐貫広綱がこれをするのだから、なぜ仁無き事だと言うのだ。併(しかし)ながら、この所役は卑下(身分の低い者がやる役)だとして、事を左右に寄せて(あれこれ言い逃れて)渋っているのか」と言った。源義経は、非常に恐れて、直ぐに立ち、2頭の馬を引いた。最初の馬の下の手綱を畠山重忠が引き、次の馬の下の手綱を佐貫広綱が引いた。この他、土肥実平、工藤景光、新田忠常、佐野忠家、宇佐美実政等が引いた。
 午後4時頃に上棟式が終わり、源頼朝は退出した。)

※参考記事:渡邊大門「【深読み「鎌倉殿の13人」】源頼朝が弟の義経に馬を引くよう命じた深い理由」
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon/20220329-00288765

(2)若宮大路


 北条政子が懐妊した際、源頼朝は、安産祈願のため、鶴岡八幡宮の参道(若宮大路)の整備を行った。源頼朝が自ら陣頭指揮をし、有力御家人たちが土や石を運んで段葛(だんかずら)を作ったという。この「参道(若宮大路)の整備」は、「参道」と「産道」を掛けたもので、鶴岡八幡宮を胎内とし、その参道を太く真っ直ぐに作ることにより、ストンと生まれる「安産」を祈願したのだという。その参道は「若宮大路」と呼ばれた。「若宮」は、『吾妻鏡』には「鶴岡若宮」とあり、「由比若宮」を古宮、元宮とし、「鶴岡八幡宮」を若宮、今宮、新宮とする呼称であろうが、若宮大路(北条政子の産道)を通って生まれる若宮=源頼家とすれば、「若宮=仁徳天皇=源頼家で、若宮の父=八幡大神(応神天皇)=源頼朝」となると思われる。

若宮大路:幅12丈(約36m)を掘り下げ、道路幅員は10丈(約30m。道幅は、大軍の進軍を阻むためや、遠近法により八幡宮が遠くに見えるよう、鶴岡八幡宮に向かうに従い徐々に狭くなっているが、鶴岡八幡宮から見ると、遠近法により同じ幅に見える)で、両脇に幅1丈(10尺。約3.03m)、深さ5尺(0.5丈。約1.5m)の濠を構え、掻き上げた土で土塁「段葛」(幅5間(約9m)、高さ1尺5寸(約45cm)の盛り土部分)を造った。(これは、地球温暖化による海進により、参道がぬかるんできたことによる。平清盛の死因にしても、地球温暖化によるマラリア説もある。)

■『吾妻鏡』「養和2年(1182年)3月15日」条
 養和二年三月大十五日乙酉。自鶴岳社頭、至由比浦、直曲横而、造詣往道。是、日來、雖爲御素願、自然渉日。而依御臺所御懷孕御祈故、被始此儀也。武衛手自令沙汰之給。仍、北條殿〔時政〕已下各被運土石云々。

(養和2年(1182年)3月15日。鶴岡八幡宮の社頭から、由比ヶ浜(の大鳥居)まで、曲がっていた道を真っ直ぐにして参道を造らせた。この事は前からの願いであったが、自然と日延べになっていた。御台所(北条政子)のご懐妊のご祈願のため、この事を始められたのである。武衛(源頼朝)自ら命令した(現場監督になった)。それで、北条時政以下、各々が土や石を運んだんだという。)

(3)源平池


 2つの池には島が4つあったが、現在、源氏池には3つの島、平家池には4つの島がある。これは源氏の発展を願う「3=産」と平家の滅亡を願う「4=死」をかけるため、北条政子の命により、源氏池の島を1つ壊したと伝えられている。

 昔は、源氏池には源氏の白旗にちなむ「白蓮」が、平家池には平家の赤旗にちなむ「紅蓮」がそれぞれ咲いていたというが、現在は紅白咲き乱れている。

■『吾妻鏡』「養和2年(1182年)4月24日」条
 養和二年四月小廿四日甲子。鶴岳若宮邊水田〔号弦巻田〕三町余、被停耕作之儀、被改池。專光。景義等奉行之。

(養和2年(1182年)4月24日。鶴岡若宮付近の「弦巻田」(苗を渦巻きのように植える斎田)という水田の3町余り(一町=9917.36㎡)の耕作を止める儀式をして、放生池「源平池」に変えた。専光房阿闍梨良暹(伊豆山走湯権現 (伊豆山神社)の僧侶で、鶴岡八幡宮の臨時別当)と大庭景義が執行した。)

(4)神馬の奉納


 万寿(後の源頼家)の誕生祝いで、御家人達が源頼朝に献上した馬は、200頭もあった。源頼朝は、この馬を「鶴岳宮」(鶴岡八幡宮)、「當國一宮」(寒川神社)、「大庭庤」(大庭神社)、「三浦十二天」(十二所神社)、「栗浜大明神」(久里浜住吉神社)を初めとする神社に分けて奉納した。
※相模国の主な神社
https://note.com/sz2020/n/nb0f955807bbc

■『吾妻鏡』「寿永元年(1182年) 8月13日」条
 壽永元年八月大十三日辛亥。若公誕生之間、追代々佳例、仰御家人等、被召御護刀。所謂、宇都宮左衛門尉朝綱、畠山次郎重忠、土屋兵衛尉義淸、和田太郎義盛、梶原平三景時、同源太景季、横山太郎時兼等献之。亦、御家人等、所献御馬、及二百餘疋。以此龍蹄等、被奉于鶴岳宮、當國一宮、大庭庤、三浦十二天、栗濱大明神已下諸社也。兼備父母之壯士等、被撰定御使云々。

(寿永元年(1182年) 8月13日。若君(万寿。後の頼家)が誕生したので、代々の吉例としてに従って御家人達に護り刀を出させた。それ(万寿の護り刀)は、宇都宮朝綱、畠山重忠、土屋義清、和田義盛、梶原景時、梶原景季、横山時兼が献上した。また、御家人達が献上した馬は、200頭に及んだ。この竜蹄(りゅうてい。名馬、駿馬)を鶴岡八幡宮、寒川神社、大庭神社、十二所神社、久里浜住吉神社などに奉納した。両親の揃った若武者が使者に選ばれたという。)

2.万寿(後の源頼家)の誕生

■『吾妻鏡』「寿永元年(1182年)8月12日」条
 壽永元年八月大十二日庚戌。霽。酉尅、御臺所男子平産也。御驗者、專光房阿闍梨良暹、大法師觀修。鳴弦役、師岳兵衛尉重經、大庭平太景義、多々良權守貞義也。上総權介廣常引目役。
 戌尅。河越太郎重頼妻〔比企尼女〕依召參入、候御乳付。

(寿永元年(1182年)8月12日。晴れ。午後6時頃、御台所(北条政子)は男子を平産(安産)した。験者(げんざ。加持・祈祷を行う修験者)は、をしたのは、専光房阿闍梨良暹(伊豆山走湯権現 (伊豆山神社)の僧侶で、鶴岡八幡宮の臨時別当)と大法師(だいほっし)観修であった。鳴弦(めいげん)役(邪気を払うために弓の弦を鳴らす役目)は、師岳重経と大庭景義と多々良権守貞義であった。上総広常は引目役(蟇目役。邪気を払うために耳元で鏑矢を振って鳴らす役)であった。
 午後8時頃、河越重頼の妻(比企掃部允と比企尼の次女。河越尼)が呼ばれてきて、乳付(ちづけ。初めて乳を吸わせる儀式)をした。

3.産養(うぶやしない)


 出産後3日・5日・7日・9日目の夜に、赤子の衣服、飲食物などを贈って祝宴を開くという平安貴族の通過儀礼。

■『吾妻鏡』「寿永元年(1182年)8月14日」条
 壽永元年八月大十四日壬子。若公三夜儀。小山四郎朝政沙汰之云々。

(寿永元年(1182年)8月14日。若君(万寿。後の源頼家)の生まれて3日目を祝う儀式を小山朝政が施行したという。)
■『吾妻鏡』「寿永元年(1182年)8月16日」条
 壽永元年八月大十六日甲寅。若公五夜儀。上総介廣常沙汰也。

(寿永元年(1182年)8月16日。若君(万寿。後の源頼家)の生まれて5日目を祝う儀式を上総広常が施行した。)
■『吾妻鏡』「寿永元年(1182年)8月18日」条
 壽永元年八月大十八日丙辰。七夜儀、千葉介常胤沙汰之。常胤相具子息六人。着侍上。父子裝白水干袴。以胤正母〔秩父大夫重弘女〕爲御前陪膳。又、有進物。嫡男・胤正、次男・師常舁御甲、三男・胤盛。四男・胤信、引御馬〔置鞍〕、五男・胤道持御弓箭。六男・胤頼役御劔、各列庭上。兄弟皆容儀神妙壯士也。武衛殊令感之給。諸人又爲壯觀。

(寿永元年(1182年)8月18日。若君(万寿。後の源頼家)の生まれて7日目を祝う儀式を千葉常胤が、6人の息子たちを引き連れて施行した。千葉常胤だけが侍所の中へ入った。父子は白い水干を着て、千葉胤正の母(秩父重弘の娘)が給仕役を務めた。また、若君への贈り物があった。嫡男・千葉胤正と次男・相馬次郎師常は兜と鎧を、三男・武石胤盛と四男・大須賀胤信は、鞍を置いた馬を引き、五男・国分胤道(胤通)は弓矢を、六男・東胤頼は太刀を持って、庭に並んだ。兄弟はいずれも容姿端麗の武士であった。源頼朝は、殊に感心した。見ていた人達もまた壮観だと感心した。)

千葉常胤┬嫡男:千葉胤正
    ├次男:相馬師常
    ├三男:武石胤盛
    ├四男:大須賀胤信
    ├五男:国分胤通
    ├六男:東胤頼
    └七男:日胤(園城寺の僧。源頼朝の祈祷僧)

■『吾妻鏡』「寿永元年(1182年)8月20日」条
 壽永元年八月大廿日戊午。若公、九夜御儀、外祖〔時政〕令沙汰之給。

(寿永元年(1182年)8月20日。若君(万寿。後の源頼家)の生まれて9日目を祝う儀式を外祖父・北条時政が施行した。)

4.『鎌倉殿の13人』ではここを変更


・源頼朝が馬引き役を拒否したのは、養和元年(1181年)7月20日のこと。

■生誕儀式
験者:専光房良暹と大法師観修
鳴弦役:師岳重経と大庭景義と多々良権守貞義
(東西南北に向かって弓弦を鳴らす。)
引目役(蟇目役):上総広常
(『鎌倉殿の13人』の上総広常は引目役に任命され鳴弦を行った。)
乳付:河越重頼の妻→『鎌倉殿の13人』では比企能員の妻・道子?

■産養
三夜御儀:小山朝政
五夜御儀:上総広常
七夜御儀:千葉常胤
九夜御儀:北条時政

5.比企ファミリー


★『鎌倉殿の13人』の比企ファミリー


比企尼(頼朝の乳母) ─比企能員(頼家の乳母父)
             │
             道子

比企能員:源頼朝の乳母・比企尼の甥で猶子(養子)。源頼家の乳母父。養母・比企尼には逆らえない。妻・道子(渋河兼忠の娘。源頼家の乳母)にも逆らえない。
 娘・若狭局が源頼家の側室となって嫡子・一幡を産んだ事から権勢を強めたが、比企一族の台頭を恐れた北条一族との対立により、「比企能員の変」(「比企の乱」とも)が起こり、比企一族は滅亡する。(北条義時は、比企一族の姫の前と離婚した。)

★史実の比企ファミリー

                              源頼家
比企掃部允(藤原秀郷流。武蔵国比企郡の代官)       ├一幡
  ├────────────┬猶子:比企能員(頼家の乳母父)─若狭局
比企尼(頼朝の乳母)  ├長女:丹後内侍 ─女子 (源範頼室)
            ├次女:河越尼  ─郷御前(源義経室)
            ├長男:比企朝宗 ─姫の前(北条義時室)
            └三女:伊東祐清室─女子 (平賀朝雅室)

丹後内侍(たんごのないし):比企掃部允と比企尼の長女。安達盛長と結婚し、子に安達景盛、安達時長、島津忠久、女子(源範頼室。『鎌倉殿の13人』では常(つね))他。

源義経:正室は、河越重頼と源頼朝の乳母・比企尼の次女・河越尼の娘・郷御前(さとごぜん。『鎌倉殿の13人』では里(さと))。妾は静御前、蕨姫(平時忠の娘)、浄瑠璃姫(矢作長者の娘)。
・「源義経と浄瑠璃姫」
https://note.com/sz2020/n/n921a0b784b2f

平賀朝雅:母は源頼朝の乳母・比企尼の三女で、北条時政&牧の方の娘と結婚した。源頼朝の猶子であったので、北条時政&牧の方は、娘婿・平賀朝雅を将軍にしようとしたが、北条政子&義時が知り、北条時政&牧の方は、伊豆国へ流され、平賀朝雅は討ち取られた(「牧氏事件」)。


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