見出し画像

浅井長政が織田信長を裏切った理由(Reco説他)

①なぜ、織田信長は朝倉義景を攻めたのか?
②なぜ、浅井長政は織田信長を裏切ったのか?


従来説はこうです。
①上洛を要請したのに朝倉義景は無視したので攻めた。
②長年親しい間柄の朝倉義景を浅井長政に無断で攻めたので裏切った。

現在は否定されています。
①上洛を要請したメンバーに朝倉義景は含まれていません。
(『二条宴乗日記』「永禄13年2月15日条」に名前がない。)
②朝倉氏は他国と結託して浅井氏を攻めています。

信長上洛付、書立。昨日、京都北大へ下。
就信長上洛可有立京衆中事
北畠大納言殿(同伊勢諸侍中)徳川三河守殿(同三河遠江諸侍衆)姉小路中納言殿(同飛騨国衆)山名殿父子(同□国衆)畠山殿(同□□衆)遊佐河内守
三好左京大夫殿 松永山城守(同和洲諸侍衆)
同右衛門佐 松浦孫五郎 同和泉国衆
別□□□□(播磨国衆)同孫左衛門(同□国□衆)
丹波国悉 一色左京大夫殿(同丹後国衆)
武田孫犬丸(同若狭国衆)京極殿(同浅井備前)
同□子 同七佐々木 同木林源五父子
同相州南諸侍衆 紀伊国衆 
越中神保名代 能州名代 
甲州名代 淡州名代 
因州武田名代 備前衆名代 
池田、伊丹、塩河、有右馬此外其寄□ニ衆として可申触事
  同触状案文
禁中御修理武家御用其外天下弥□□来中旬可参洛候条、各御上洛、御礼被申上、馳走肝要、不可有御延引候。恐々謹言。
   □□月廿□日          信長
依仁躰文躰可有上下
進左馬よりな□さゝげ所望来。一つゝみ進上候。あ□□□□□□御番参。

※□は虫損。


──では、史実は?

①従来は「朝倉義景征伐」が本命で、そのカモフラージュが「武藤友益征伐」だと考えられてきたが、実は「武藤友益征伐」(将軍・足利義昭の親戚の若狭国守護・若狭武田氏の内乱の沈静)が本命で、その延長が「朝倉義景征伐」(若狭国内乱の黒幕は朝倉義景なので、挟み撃ちになる前に征伐)だった。

②A説:『二条宴乗日記』に「京極殿(同浅井備前)」とある。浅井氏は国衆であるから誰に従属しようが自由で、それを「裏切り」とは呼ばない。
※織田信長が上洛し、挨拶に来た人たちに「妹婿の浅井長政へも挨拶に行って」と頼んだので、浅井長政の知名度が上がった。(浅井長政は国衆に過ぎず、しかもまだ3代目で、知名度が低かった。)
②B説:妹の婿なのに、扱いが、対等ではなく低く、「このままでは、いつか滅ぼされる」と恐怖を感じたので裏切った。(織田信長の長女・五徳と自身の長男・竹千代を結婚させて同盟を組んだ徳川家康は、国衆から戦国大名になり、『二条宴乗日記』には2番目に「徳川三河守殿(同三河遠江諸侍衆)」とあるが、織田信長の妹・お市と結婚して同盟を結んだ自分は、16番目に「京極殿(同浅井備前)」と北近江の京極氏の家臣として登場する。)
②C説(誰も言ってないのでReco説):京都での喧嘩の遺恨
・『どうする家康』:浅井家家臣と徳川家家臣が喧嘩
  →史実:浅井家家臣と織田家家臣が大喧嘩。死者多数。
ちなみに、
・『どうする家康』:ナンパ男を織田家家臣が殺害
  →史実:ナンパ男を織田信長が殺害
※詳細は↓の記事で。

■『麒麟がくる』

■『どうする家康』



記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。