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聖徳太子と鳳来寺

1.聖徳太子『先代旧事本紀大成経』


 三河国出身で、三河国造家の後裔・興原敏久(物部氏)が著した『先代旧事本紀』(全10巻)には、故郷・三河国の鳳来寺の話はなく、聖徳太子『先代旧事本紀大成経』(全72巻)の第33巻に鳳来寺の神代桐樹の話が載っている。

■『日本書記』(第22巻)「推古天皇10年閏10月の条」
閏十月乙亥朔己丑。高麗僧僧隆、雲聡、共来帰。
(602年閏10月15日、高麗の僧である僧隆と雲聡の2人が来て帰った。)
■『先代旧事本紀大成経』(第33巻)「推古天皇10年閏10月の条」
 閏十月乙亥の朔辛卯、高麗貢調。並僧僧隆、僧雲聡来。
 辛卯、参河国奉大鳥之尾。参河桐生山有神代桐木。長四十九丈、太三十二尋。枝半過枯。中有虚洞。本有洞口。如大室。虚上竜住。時発雲霧而降大雨。依曰桐生山。又云霧降山。
 此木、有下枝。摽西三十尋。此枝大鳥居。鳥長八尺余。尾長一丈余。全身大色五色金翠。処処小色百光紅紫。一尾分三茎、成十二濃薄。金翠不可言。人不知其名。終落三尾。得以奉上。
 洞中有一仏像。非金石、非土木。手指成宝壷。唯見金光。其時、皇太子見其表曰、「是斯鳳尾也。此鳥在丹穴。他国希有見。此鳥好文行。天皇入大道而、開神皇之紀、兼弘儒釈之経故、此鳥、来見。仏像是東方尊薬師如来也。護王道国家尊也。後代、当竜去成寺」。瑞状之有理図一往如是。

【現代語訳】 15日、三河国より大鳥の尾が献上された。(添えられた国司の表状に)「三河国の桐生山に神代桐木が生えている。樹高49丈(148m)、幹の周囲32尋(58m)。枝の半分以上は枯れている。中に虚洞(ほこら)がある。木の根元に洞口がある。広い部屋のようである。虚(ほこら)の上に竜が住んでいる。竜は、時として雲霧を発し、大雨を降らす。依って「桐生山」とも「霧降山」ともいう。
 また、この木に下枝がある。西に伸びる枝は30尋(54m)。この枝に大鳥が居る。鳥の高さは8尺余(約1.5m)。尾の長さは1丈余(約3m)。全身はほぼ五色金翠で、所々が百光紅紫である。1尾は3茎に分かれ、12段階の濃薄(グラデーション)を成している。もちろん、金翠もそうである。(三河国の)人々はその大鳥の名を知らない。ついに3尾落ちた。それを拾って、こうして献上する。
 また、洞中に1体の仏像がある。金石製でも、土木製でもない。手に宝壷を持っている。ただただ金色に輝いて見える」とあった。
 その時、聖徳太子は、その表状を見て、「是は鳳凰の尾である。この大鳥は(『山海経』「南山経」によれば)丹穴の山にいる。他国でも希に見る。この鳥は文行を好む。推古天皇が大道に入り、神皇となり、兼ねてから儒教と仏教を広めているので、この大鳥が、見に来たのである。仏像、是は、東方浄瑠璃界の教主・薬師如来(薬師瑠璃光如来)の像である。王道国家を守る尊である。後に竜は去り、寺となるであろう」と言った。縁起がいい。

※『山海経』「南山経」
又東五百里、曰丹穴(たんけつ)之山。其上多金玉。丹水出焉、而南流注于渤海(渤海、海岸曲岸頭也)。有鳥焉。其状如鶏、五采而文(あや)、名曰鳳皇。首文曰徳、翼文曰義、背文曰礼、膺文曰仁、腹文曰信。是鳥也、飲食自然、自歌自舞。見則天下安寧(漢時鳳鳥數出。高五、六尺、五彩。莊周説鳳文字與此有異。廣雅云、鳳鷄頭、燕頷、蛇頸、龜背、魚尾。雌曰皇、雄曰鳳)。
また東に500里、丹穴(丹(辰砂、硫化水銀鉱)の鉱山)の山という。その頂上には、金、玉が多い。丹水(丹を含む赤い水)が出て南へ流れ、渤海に注ぐ。鳥がいる。その形状は雞の如く、五彩で、文(文字、綾、模様)あり。名付けていう、鳳凰と。首の文を徳といい、翼の文を義といい、背の文を礼といい、胸の文を仁といい、腹の文を信という。この鳥たるや飲食はありのままに(苦労せず)、自ら歌い、自ら舞う。この鳥を見ると(現れると)天下安寧である。(漢代に、鳳の鳥はたびたび出現した。高さは5~6尺(1.5~1.8m)で、五色(赤、青、黄、紫、白)の羽を持っていた。莊周の説の鳳の文の字には相違点がある。『広雅』には「鳳は鶏の頭、燕の頷、蛇の首、亀の背、魚の尾を持ち、雌を凰といい、雄を鳳という」とある。)

2.『聖徳太子伝暦』

■太田白雪『鳳来寺聞書』
聖徳太子伝記に太子、黒の駒にむち打たせ、虚空を走らせ玉ひけるに、蹄に当る物あり。三河国には設楽の峯、是れ鳳来寺の事とかや。

【現代語訳】聖徳太子の伝記に、聖徳太子が愛馬「甲斐の黒駒(くろこま)」に鞭打って、空を走っていた時に、蹄に当る物があった。これは三河国設楽郡の鳳来寺山だという。

※『上宮聖徳法王帝説』に、聖徳太子が、神馬と称えた愛馬「甲斐の黒駒」に乗り、空を飛んで富士山の山頂に登ったとある。

※『聖徳太子伝暦』に、四脚が白い「甲斐の驪駒(くろこま)」に試乗すると、富士山を越え、帰路は信濃国を通って、3日間で都へ帰還したとある。

■『聖徳太子伝暦』
 夏4月、太子命して、左右に良馬を求む。諸国に府(おお)せて貢(たてまつら)令(せし)む。甲斐の国より貢ぐ一の驪駒(くろこま)、四脚の白き者を、数百匹の中に、太子、此の馬を指して曰く「是れは神馬也」と。余は皆、還され令む。舎人の調使・磨を之に加へ、飼養す。
 秋9月、試しに此の馬に馭(ぎょ)しめ、浮雲、東に去る。侍従、仰ぎ観(み)るに、磨独り御馬右に在り。真に雲の中に入る。衆人、相驚く。3日の後、轡を廻(かえ)し、帰り来り。左右に謂ふに曰く「吾、此の馬に騎(の)り、雲を躡(ふ)み、霧を凌(しの)ぎて、真に富士の獄上に到り、転じて信濃に到る。飛ぶこと雷電の如し」と。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544996/35

【現代語訳】推古天皇6年(598年)4月、聖徳太子は、諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い「甲斐の驪駒(くろこま)」を神馬であると見抜き、他の馬を返却し、「甲斐の驪駒」を舎人の調教師・麿に託した。
 同年9月、聖徳太子は、この馬を制御して空に浮かび、東方に去った。仰ぎ見ると、調教師・麿だけを右に従え、雲の中に入っていったので、見た人は驚いた。3日後に帰ってきた。皆が言うには「この馬に乗り、雲を足場として霧を裂き、富士山を越えて、帰途、信濃に至った。飛んでる様子は、雷光のようであった」と。

■三河国五ヶ寺(三河五薬師)
・第1に鳳来寺(愛知県新城市門谷鳳来寺)  :利修仙人開山
・第2に桜井寺(愛知県岡崎市桜井寺町本郷) :空海開山
・第3に滝山寺(愛知県岡崎市滝町)     :役小角開山
・第4に真福寺(愛知県岡崎市真福寺町薬師山):聖徳太子開基
・第5に高隆寺(愛知県岡崎市高隆寺町)   :聖徳太子開基

■参考記事「三河国の聖徳太子伝承」
https://note.com/sz2020/n/n67772ab60287

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