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三河国の聖徳太子伝承

 『日本書紀』に聖徳太子が建てた寺が46とあるが、どの寺であるかは書かれていない。それで、鎌倉時代以降、リストアップが始まった。その殆どは大和国を中心に畿内にある。畿内にないのは、
・美濃国:太子寺
・三河国:真福寺
・駿河国:符神寺
・信濃国:阿弥陀院
・出羽国:四天王寺
の5所院のみである。
 尾張国、三河国、遠江国は「物部王国」であるから、無いと思っていたが、三河国(岡崎市)には物部真福開山の真福寺がある。(なぜ存在するかという考察は別稿で。)

■三河国五ヶ寺(三河五薬師)
・第1に鳳来寺(愛知県新城市門谷鳳来寺)  :利修仙人開山
・第2に桜井寺(愛知県岡崎市桜井寺町本郷) :空海開山
・第3に滝山寺(愛知県岡崎市滝町)     :役小角開山
・第4に真福寺(愛知県岡崎市真福寺町薬師山):聖徳太子開基
・第5に高隆寺(愛知県岡崎市高隆寺町)   :聖徳太子開基

■物部真福と真福寺
https://note.com/sz2020/n/necc2e5b4eb0e

★聖徳太子建立四十六ヶ寺

・法隆寺の僧・顕真『聖徳太子伝私記』
四十六箇寺院は(二種様)、
符神寺(駿河国嶽上在之)、
阿弥陀院(信乃国。後名善光寺。本名亦云百済寺)、
・・・。

・実秀『太子伝撰集抄別要』1607
四十六个寺院と云ふは、『私注抄』の義と、『法空抄』の義と二種あり。
『私注抄』一義云ふ、符神寺(駿河内山岳有)、阿弥陀院・・・。

※「聖徳太子建立四十六ヶ寺」については、『私注抄』のリストと、『法空抄』のリストの二種類ある。

 三河国は「物部王国」ではあるが、古寺には太子堂があって、聖徳太子(童子)立像が祀られている。
 また、下の写真は、聖徳太子が、この場で飲んで名付けた「小渡井枡井戸」(石標には「霊泉 満数(ます)井」とある。愛知県豊川市音羽町長沢)で、今でも連日、多くの人がポリ容器を持って霊水を汲みに来ている。

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 ──聖徳太子が「物部王国」の三河国に来た???

■小菅廉『尾三郷土史』(1980)
聖徳太子、物部守屋と戦い敗北して三河国に逃れ来給ひし時、お味方せし人あり。其の急なる場合、太子一人とならせらる。土人(くにびと)は、太子の車を夕顔の茂りたる畑の中へ曳き入れ、其の危難を免れしめ奉る。太子は、其の功を嘉賞し大きなる田を賜ふ。これ大田氏の祖と。故に、太田は誤りにして又その徽章も葉と片輪を用ひしが、後世、桔梗は太田氏の記章と誤信するに至ると。

 太田氏(家紋は「丸に細桔梗」)は、江戸城を築いた太田道灌や、歴代掛川城主として知られる摂津源氏である。源頼政の末子・源広綱を祖とし、源資国が丹波国桑田郡太田(現・京都府亀岡市薭田野町太田)を拠点として、太田氏を称したという。
 って、突っ込み所はそこじゃないだろ!? 聖徳太子が物部守屋に負けた? 聖徳太子が三河国八名郡神郷(後の美和郷)太田(現・愛知県豊橋市石巻本町太田)に逃げて来た?
 神(みわ)郷には、式内・石巻神社(三河国四宮)がある。地名からしても、大三輪氏の大神神社の分社で、石巻山には三輪大神(多分、饒速日命)が祀られていると容易に想像できるが、大神神社によれば、

 ──当社所蔵の分社一覧には、石巻神社は掲載されていない。

という。三輪氏でなければ誰が建てたのかと調べてみれば、

 ──孝安天皇の御代に、三河国造・知波也命が、祖・大木食命を勧請。

饒速日命─宇麻志摩治命─彦湯支命┬出石心大臣命─大矢口宿禰命─大綜杵命…
                └出雲色大臣命─大木食命…知波夜命

偽書『先代旧事本記』によれば、八名郡は三河国ではなく、穂国にあったと思われる。そこに三河国造が祖先を祀る? 頭が混乱してきた。


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