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2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第13回)「幼なじみの絆」

■あらすじ(敬称略)


 北条政子(小池栄子)が男児(おのこ)・万寿を出産し、源頼朝(大泉洋)の嫡男誕生に沸く鎌倉であったが、源頼朝の浮気が大騒動に発展した。激怒した北条時政(坂東彌十郎)が伊豆国北条へと戻ると、源頼朝の人気は急落し、北条時政は「男気がある」「鎌倉殿に文句を言える男」として人気が急上昇した。
 北条時政の帰国を比企家発展の好機と捉えた比企能員(佐藤二朗)夫妻は、北条家に替わって比企家が「鎌倉の要」になろうと、源範頼(迫田孝也)&源義経(菅田将暉)に源頼朝の乳母・比企尼の孫娘・里(アカデミー賞「国際長編映画賞」受賞映画『ドライブ・マイ・カー』や朝ドラ『カムカムエヴリバディ』に出演して注目を集める三浦透子。菅田将暉との共通点は歌手でもあること)と常(渡邉梨香子)を紹介する。(源範頼は鎌倉殿に内緒のあからさまな政略結婚を嫌うが、源義経は里(郷御前)が気に入る。)
 平家に敗北し、再起を図る源行家(杉本哲太)は、源頼朝を頼って相模国松田郷に住んでいたが、困窮を理由に領地1国を要求したが、断られたので、木曽義仲(青木崇高)を頼った。木曽義仲は、源義賢(源頼朝の父・源義朝の弟)の子であるが、その父・源義賢は、鎌倉の源頼朝の兄・源義平と領地争いをして討ち取られた。このため、源義仲は、信濃国木曽に逃れ、「木曽義仲」と呼ばれていた。源頼朝は、「木曽義仲は、兄・源義平を父の仇として恨んでいるはずで、襲って来るかも」と疑心暗鬼で、武田信義の噂を信じて、木曽義仲を討とうとするが、人気が落ちた源頼朝との出陣を、坂東武者たちは断ったので、木曽義仲には使者・源範頼を送って様子を探ることにした。噂と異なり、木曽義仲は「噂とは、流す者に都合良く出来ている。惑わされてはいかん。源氏同士では戦わない」とし、その証として、見返りを求めることなく、嫡男・木曽義高(源義高、清水冠者)を源頼朝に人質として差し出した。(こうして、木曽義仲が源頼朝を襲ったら、人質・木曽義高は殺されることになったが、木曽義仲は「父を信じよ」と木曽義高を送り出した。)
 さて、玉の輿に乗った北条政子は坂東中の女性の憧れの的であったが、北条政子はエゴサーチしていないので、そのことに気づかず、アイドルにふさわしい「女磨き」をしていないことを「顔の薄い女」亀に指摘され、「源頼朝とは縁を切るから、女子力を高めてくれ、(坂東武者に失望された源頼朝の二の舞を踏まず)『さすが。御台所だけのことはある』と、坂東女の憧れの的であり続けてくれ」と頼んだ。北条政子は今で言う「ファーストレディ」ですので、女性の憧れ(玉の輿)、手本でなければならないでしょう。(伝承では、亀の前は、「椿の御所」に移り、源頼朝との関係を続けたという。)
 さて、さて、主人公・江間義時(小栗旬)は、八重(新垣結衣)のことを一途に思い、ついに八重は心を許した(結婚を承諾した?)。

 「幼なじみの絆」・・・江間義時の片思いは実り、幼なじみの伊東八重と結ばれるようだ。(大河紀行で「八重の生まれ故郷・伊東市にも、義時ゆかりの場所があります。最誓寺は、「義時の妻となった八重により、千鶴丸の供養のために建立された」と伝わる寺です」と言っていた。最誓寺は、江間小四郎と八重姫の発願により創建された西成寺の後身寺である。この江間小四郎には、北条義時説と江間近末説があるが、寺を建てられる程の財力がある人物といえば、北条義時であろう。なお、豆塚神社では、建立者を「北条(江間小次郎)義時」とする。)ちなみに実際の伊東八重は、三浦義澄預けとなっていた父・伊東祐親の世話をしていたが、伊東祐親の自害後、源頼朝の仲介で千葉常胤の子・相馬師常と結ばれている。
 幼なじみの木曽義仲と巴御前(2005年大河『義経』の巴御前は小池栄子)は、巴御前の片思いのまま。(そもそも巴御前は架空の人物とされる。源義高の母は中原兼遠の娘であり、巴御前ではない。)

 黒髪の乱れも知らずうち臥せば まづかきやりし人ぞ恋しき(和泉式部)
(髪の乱れに気づかすに寝た時、まず髪を梳かしてくれた人が恋しい。)

源義経と里って、なぜ漁師小屋で寝てた?
里の髪は乱れてなかったけど、着物の裾は大きく乱れてた。

いずれにせよ、「幼なじみ」とか、「初恋」って胸キュンワードですね。

1.江間小四郎義時


『国史大辞典』に、北条義時について「時政の嫡子で、幼名を江間小四郎と言った」とあるが、北条義時の前半生は謎で、学者は「源頼朝から江間を与えられて江間義時と名乗った」とし、『鎌倉殿の13人』では「源頼朝は、江間を欲しがった北条時政に与えようとしたが、北条義時に与えることにし、江間を与えたので、江間義時と名乗った。北条時政は、『北条家以外に別家・江間家も出来て、北条家が大きくなった』と喜んだ」とする。
 幼名が江間小四郎であるならば、「江間は北条時政の領地であり、元服に際して北条時政から江間を与えられた」となるのではないか?

            北条四郎時政
              ├─────────┬北条三郎宗時【死亡】
伊東祐親【死亡】┬前室の娘【死亡】   └江間小四郎義時
        │
        │   源頼朝
        │  ├千鶴丸(【死亡】と見せかけ逃亡。後の源忠頼)
        └後室の三女・八重
            ├江間小次郎(→江間義時の養子)
           江間次郎近末【死亡】


※関連記事①:「江間氏の謎 」
https://note.com/sz2020/n/n12b8c52b1d13
※関連記事②:「式内・石徳高神社(豆塚神社)」
https://note.com/sz2020/n/n94390976d1e5
※関連記事③:「八重姫と江間次郎」 (最誓寺など)
https://note.com/sz2020/n/n192b60d8b24f

2.木曽義仲


源頼義┬義家─義親─為義┬長男:義朝┬長男:義平(義賢を討つ)
   │         │     └三男:頼朝(義仲と不仲)
   │         ├次男:義賢─次男:義仲─長男:義高
   │         └十男:行家─長男:光家
   └義光─義清─義光─武田信義─五男:信光

※河内源氏の源義朝は、父・源為義と不仲になり、廃嫡され、無官のまま東国(関東)に下った。替わって次男・義賢が嫡子と成るが、やはり廃嫡され、四男・頼賢が嫡男となった。
※木曽義仲の兄・源仲家は、源頼政の養子となり、源頼政や以仁王と共に治承4年(1180年)5月26日に亡くなった。

 治承4年(1180年)9月7日、木曽義仲は大軍を率いて、平家方・笠原氏と戦う源氏方・村山氏&栗田氏の救援に向かい(市原合戦)、そのまま父の旧領である多胡荘(群馬県高崎市)のある上野国へと向かうも、12月24日、源頼朝との衝突を避けて信濃国に戻り、依田城(長野県上田市御嶽堂)にて挙兵した。

 寿永2年(1183年)2月、源頼朝と敵対して敗れた志田義広(源義広)と、源頼朝から追い払われた源行家が、木曽義仲を頼って身を寄せ、木曽義仲がこの2人の叔父を庇護した事で、源頼朝と木曽義仲の関係は悪化した。
 また、源頼朝と木曽義仲のどちらに付くか迷っていた甲斐源氏・武田信義の子・武田信光が、娘を木曽義仲の嫡男・木曽義高に嫁がせようとして断られた腹いせに「木曽義仲は、平家に木曽義高を嫁がせて手を組み、源頼朝を討とうとしている」と讒言したという。

■『平家物語』
武田五郎信光、木曽をあたみ兵衛佐に讒言しける意趣は、「彼の清水冠者を信光が聟にとらむ」と云ひけるを、木曽うけずして、返事に申したりけるは、「同じき源氏とて、かくは宣ふか。娘もちたらば、まゐらせよかし。清水の冠者につがはせむ」と云ひけるぞ、あらかりける。信光是を聞きてやすからず思ひて、いかにもして木曽を失はむと思ひて、兵衛佐に讒したりけるとぞ後には聞こえし。

 3月上旬、源頼朝は、信濃国に軍勢を差し向けた。木曽義仲は、「倒すべきは平家であり、源氏同士で争う理由はない」として、越後国へと移った。源頼朝は、「戦う意志が無いのならば、叔父2人を引き渡すか、嫡男を人質に差し出すかして証明せよ」と使者を送った。「叔父2人を引き渡すだろう」と考えていた源頼朝は、嫡男・木曽義高が差し出されたことに驚き、和議を成立させ、両者の武力衝突は避けられた。

 以上のように、木曽義仲は、嫡男を人質に差し出して2人の叔父を源頼朝から守った(源氏同士の戦いを避けた)立派な人物である。なお、上記の治承4年(1180年)の話は『吾妻鏡』により、寿永2年(1183年)の話は、(『吾妻鏡』には、寿永2年(1183年)の記事が欠けているので)『平家物語』などによる。

■『吾妻鏡』「治承4年(1180年)9月7日」条
治承四年九月大七日丙辰。源氏木曽冠者義仲主者。帶刀先生義賢二男也。義賢、去久壽二年八月、於武藏國大倉舘、爲鎌倉悪源太義平主被討亡。于時、義仲爲三歳嬰兒也。乳母夫・中三權守兼遠懷之、遁于信濃國木曾、令養育之。成人之今、武畧禀性、征平氏可興家之由有存念。而前武衛於石橋、已被始合戰之由、達遠聞、忽相加欲顯素意。爰、平家方人有笠原平五頼直者、今日、相具軍士、擬襲木曾。々々方人村山七郎義直并栗田寺別當大法師範學等聞此事、相逢于當國市原、决勝負。兩方合戰半、日、已暮。然、義直箭窮頗雌伏、遣飛脚於木曾之陣、告事由。仍木曾率來大軍、競到之處、頼直怖其威勢逃亡、爲加城四郎長茂、赴越後國云々。

(治承4年(1180年)9月7日。源氏の木曽冠者義仲は、東宮帯刀先生(とうぐうたちはきのせんじょう)こと源義賢の次男である。源義賢は、去る久寿2年(1155年)8月16日、武蔵国の大倉館(埼玉県比企郡嵐山町)で鎌倉の悪源太義平に討たれた(「大蔵合戦」)。その時、駒王丸(後の源義仲)は、3歳児であった。乳母夫(めのと)・中原兼遠が抱いて、信濃国木曽(長野県木曽郡木曽町)へ逃げ、源義仲を育てた。成人した今、武略については稟性(ひんせい。天賦の才)があり、平家を成敗して源家を興したいと思っていた。そこに「源頼朝が石橋山で合戦を始めた」と遠く木曽まで届き、すぐに参陣して率直に意を顕したいと思った。ここに平家方の笠原頼直は、今日、兵を率いて木曽を襲おうと企てていた。木曽方の村山義直(信濃源氏・井上氏の一族)と栗田寺(長野県長野市栗田。栗田氏の菩提寺。後に東之門町に移り、寿福山無量院寛慶寺と称す)別当・大法師範覚(村上為国の子・寛覚)たちがこのことを聞き、信濃国市原(長野県長野市市原。「市村」の誤記?)で対峙し、決戦となった。双方の合戦の半ばで既に日が暮れた(「市原合戦」「善光寺裏合戦」)。村山義直は矢が尽きて雌伏し(劣勢となり)、飛脚を木曽義仲の陣に遣り、事情を知らせた。それで、木曽義仲は大軍を率いて急ぎ(北上して麻績~会田に)到ると、(市原から南下してきた)笠原頼直はその勢いを怖れて逃亡し、越後平氏・城長茂の軍勢に加わるために(善光寺を通って)越後国へ向かった(北上した)という。)
■『吾妻鏡』「治承四年(1180年)12月24日」条
治承四年十二月小廿四日壬寅。木曾冠者義仲避上野國、赴信濃國。是有自立志之上、彼國多胡庄者、爲亡父遺跡之間、雖令入部、武衛權威已輝東關之間、成歸往之思、如此云々。

(治承四年(1180年)12月24日。木曽冠者義仲は、上野国を逃れ、信濃国に赴いた。これは自立の志がある上、上野国多胡庄(群馬県高崎市)は、亡父・源義賢の旧領であるので、入部(侵入)してみたが、源頼朝の権威が既に関東に輝いているので、帰往の思いを成して、こうした(上野国から退去して信濃国に戻った)という。)


▲「13人の合議制」のメンバー(宿老)

【文官・政策担当】①中原(1216年以降「大江」)広元(栗原英雄)
【文官・外務担当】②中原親能(川島潤哉)
【文官・財務担当】③藤原(二階堂)行政(野仲イサオ)
【文官・訴訟担当】④三善康信(小林隆)

【武官・有力御家人】
⑤梶原平三景時(中村獅童)
⑥足立遠元(大野泰広)
⑦安達藤九郎盛長(野添義弘)
⑧八田知家(市原隼人)    
⑨比企能員(佐藤二朗)
⑩北条時政(坂東彌十郎)
⑪江間(北条)義時(小栗旬)
⑫三浦義澄(佐藤B作)
⑬和田小太郎義盛(横田栄司)

▲『鎌倉殿の13人』
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/

▲参考記事
・サライ「鎌倉殿の13人に関する記事」
https://serai.jp/thirteen
呉座勇一「歴史家が見る『鎌倉殿の13人』」
https://gendai.ismedia.jp/list/books/gendai-shinsho/9784065261057
・富士市「ある担当者のつぶやき」
https://www.city.fuji.shizuoka.jp/fujijikan/kamakuradono-fuji.html
渡邊大門深読み「鎌倉殿の13人」」
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon

▲参考文献
・『吾妻鏡』
・『北条九代記』(『鎌倉年代記』の異本)
・読み本系『平家物語』
 ・『平家物語』(延慶本)
 ・『源平闘諍録』(『平家物語』の異本)
 ・『源平盛衰記』(『平家物語』の異本)
・『曽我物語』(真名本/仮名本)
・安田元久 『人物叢書 北条義時』(吉川弘文館)1986/3/1
・元木泰雄 『源頼朝』(中公新書)2019/1/18
・岡田清一 『日本評伝選 北条義時』(ミネルヴァ書房)2019/4/11
・濱田浩一郎『北条義時』(星海社新書)2021/6/25
・坂井孝一 『鎌倉殿と執権北条氏』(NHK出版新書)2021/9/10
・呉座勇一 『頼朝と義時』(講談社現代新書)2021/11/17
・岩田慎平 『北条義時』(中公新書)2021/12/21
・山本みなみ『史伝 北条義時』(小学館)2021/12/23

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