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後醍醐天皇の子供たち

後醍醐天皇の子は、皇子が8人、皇女も8人だという。(諸説あり)

第一皇子:尊良親王(一品親王。1306?-1337)
第二皇子:世良親王(1307?-1330)
第三皇子:護良親王(大塔宮。1308-1335)
第四皇子:宗良親王(二品親王、信濃宮。1311-1385?)
第五皇子:恒良親王(1325-?)
第六皇子:成良親王(1326-1344)
第七皇子:義良親王(後村上天皇。1328-1368)
第八皇子:懐良親王(鎮西宮。1329?-1383)

第一皇女:姚子内親王?(1307? - ?)
第二皇女:欣子内親王(1308?-?)
第三皇女:瓊子内親王(?–?)
第四皇女:?(1314-?早逝)
第五皇女:懽子内親王(宣政門院。1315-1362)
第六皇女:祥子内親王(1322?-?)
第七皇女:幸子内親王(1335-?)
第八皇女:惟子内親王(新宣陽門院。?-?)

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 宗良親王は、興国5年/康永3年(1344年)に信濃国伊那郡の豪族・香坂高宗に招かれ、大河原(長野県下伊那郡大鹿村大河原)に入り、この地を拠点としたので、「信濃宮(しなののみや)」と呼ばれている。

 尹良親王は、宗良親王の子で、母は香坂高宗の娘とも、知久氏の娘とも、井伊道政の娘・井伊重子(駿河姫)とも。2つめの居城は砦山城(愛知県北設楽郡豊根村坂宇場)とされる。
 応永21年(1414年)、井伊氏の重臣・奥山朝藤の子・奥山金吾正定則は、「由機良(ゆきよし)親王」(尹良親王)を奉じ、大里に仮御所と政所、小畑に関所、久頭合に高根城を築き、尹良親王は、応永31年(1424年)8月10日までの10年間、高根城にいたという。(『浪合記』では、島崎城入御を応永31年(1424年)4月のことし、それまでは高根城ではなく、寺尾城にいたとする。)
 尹良親王は、世良田政義(ひ孫が松平氏の祖・世良田(松平)親氏)の娘と結婚し、子には津島神社社家の氷室家の祖・氷室良新がいる。


親王【天皇家】
  ‖──────────┬桜子姫 【井嶋氏】
重子姫【井伊氏】   └尹親王【天皇家】
           ‖────────┬王【大橋氏(津島四家筆頭)】
         琴姫【世良田氏】 ├新【氷室氏(津島神社神主家)】
                                                               └崎之宮(御名不詳)親王【早逝】

 テレビ朝日『ナニコレ珍百景』にて「日本珍百景」に指定された【珍百景No.322】「温めない電子レンジ」の先にある神社を「若宮社(南朝若宮社、根の若宮社)」(愛知県岡崎市中伊町大手)といい、御祭神の「崎宮」は、尹良親王の子だという。逃亡先のこの地で瘧(熱病)を煩って薨去したので祀ったという。
 宗良親王の正室・井伊重子は熱病で亡くなったといい、彼女(法名「金地院殿慶岩寿永大禅定尼」)の墓「岩神さま」(静岡県浜松市北区細江町気賀)に詣でれば熱病は治るという。気賀の祖母の墓までなんとか逃げられれば、薨じることはなかったであろう。誠に残念である(合掌)。

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一、由緒
後醍醐天皇の皇孫・尹良親王、島崎の城の御出発あり。三河国足助重春が城へ移らせ給はんとして信濃国波合にて薨じ給う。王子崎之宮(御名不詳)親王御幼稚に在しまし乳母智典姫及臣下2人等と共に難を三河国に避け給ひ中保久村字根村に隠し給ひぬ。当所居住荻埜伊右衛門(東加茂郡東大沼村荻埜長三郎の祖先となりと伝ふ)従者として当所に到れり。親王は瘧(おこり)を病み給ひ秋8月彼岸の中日薨じ給へり。其時乳母は山下へ水汲に行き川端にて親王薨じ給ふと云ふ声を聞き驚愕気絶し其儘(そのまま)歿(ぼつ)せり。親王は尊骸を山上に奉葬し後祠を建てて祀る。即ち当社なり。乳母は川端に葬れり。之を乳母塚と伝ふ。世人当社の森を称して乳兒の森と云ふ。


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