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第6回「続・瀬名奪還作戦」(復習)

永禄3年(1560年)5月19日 「桶狭間の戦い」(岡崎城へ帰還)
永禄4年(1561年)4月11日 「牛久保城攻め」(今川氏から独立)
永禄5年(1562年)1月15日 「清須同盟」(織田信長と和睦)
永禄5年(1562年)2月26日 「上ノ郷城攻め」(人質交換)
永禄6年(1563年)7月6日   「元康」から「家康」に改名
永禄9年(1566年)5月     「三河国平定」(牛久保の牧野氏が従属)
永禄9年(1566年)12月29日「松平」から「徳川」に改姓。三河守叙任。


前回は創作でしたので、史実厨の出番はありませんでした。
今回は「史実と違う」と史実厨が騒ぎそうな回でしたね。
①上ノ郷城攻めで戦功をあげたのは、伊賀衆ではなく、甲賀衆。
②瀬名姫と亀姫は既に岡崎にいて、人質交換は竹千代のみ。
③人質交換のアイデアは太原雪斎(崇孚)のものではない。
④関口氏純は誅殺されていない。
でも、面白かった。とにかく面白かった。
史実かどうかなんて問題外の面白さでした。
大河というより、民放の「エンタメ重視の時代劇」的ではありましたが。

「史実と違う」「いや、ドラマだからいいのだ」という場外乱闘がある。時代考証の学者がいなければ、こういう議論が起きるであろうが、この物価高で生活苦の国民が多い時代、NHKは国民に強制している受信料で3人もの学者を雇っているのに起きているわけで、「時代考証は1人でいい」「今の時代考証はギャラ泥棒」「何もしないでお金をもらえるのはいい仕事。俺がやる」という極論を口走る国民、矛先をNHKから時代考証の学者に向ける批判者が現れても致し方なしか。
「史実と違う」と言っている方は、史実を知っている方なので問題ないが、『どうする家康』の視聴者には「ジャニーズのファンです。生まれて初めて時代劇を見ました」という方が少なからずいる。こうした時代劇リテラシーの無い方が「放映されたことは史実」と思い込んでしまうことが恐ろしい。
 『鎌倉殿の13人』では、公式サイトに鎌倉幕府公式史書『吾妻鏡』と時代考証による解説が掲載されていた。『どうする家康』でも、手を抜かず、江戸幕府公式史書『徳川実紀』を掲載し、「これが史実とされてきましたが、最近の研究ではここが違うとされています。本ドラマでは・・・を採用しました」と解説を載せてもいいのではないかと思う。時代考証に書いてもらえば、「時代考証はギャラ(受信料)泥棒。何もしないで、お金をもらっている」とは言われないであろう。

 ①「上ノ郷城攻め」で戦功をあげた忍者集団は、松井忠次の命を受けた甲賀流伴党である。(それでか、『どうする家康』「忍者アクション指導」担当は甲賀流伴党21代目宗家・川上仁一氏である。)
 名取山の松平本陣の旗が強く揺れていたのがよかった。放火すれば延焼しそう。ただ、当日は雨でしたが・・・。
 あのおびただしい数の舟はどこから? 水軍、持ってた??

津の平近所さしむかひに、東条と申す昔よりの城へ、宗輝様(忠次。のち康親)御移り、御用心よく、御心安おぼし召し、伊賀、甲賀より覚えある者御呼び下し、其の内、物頭(ものがしら)・中書兄弟、此の人とは、朝夕相伴にて、御膳の内の物をも分けて下さるるやうに、御懇に成られ、御かゝへ置き、其の上、御談合有りて、東三河の内、西郡の城を雨の夜に忍び取りになされ候。

※松井忠次の親友・石川昌隆(正西)が著した『石川正西聞見集』の「宗輝様」は松井忠次、「物頭・中書」は忍者頭(組頭、棟梁)・伴中書、「西郡(にしのこほり)の城」は上ノ郷城である。

石川善大夫昌隆(正西)『石川正西聞見集』(光西寺所蔵)
https://dl.ndl.go.jp/pid/3042454/

 ②「竹千代様をば駿河に置きまいらせられて」であり、瀬名姫と亀姫は既に岡崎にいて、人質交換は竹千代のみ。5月19日の「桶狭間の戦い」後の6月4日に長女・亀姫が生まれているわけで、身重の体での長距離移動は大変だったと思う。(『三河物語』によれば、石川伯耆守数正が殉死しようと駿府へ行くと、今川氏真が人質交換を提案してきたという。)
 しかし、史実として、この時、今川氏真は東三河に出張ってきており、駿府にはいなかった。実際、豊橋市には、「人質・竹千代は吉田城にいた」「人質交換は吉田湊で行われた」という伝承が残っている。

 其よりして、東三河へ御手を懸けさせ給いて、西の郡の城を忍び取りに取らせ給いて、鵜殿長勿(注:長勿=長持は既に死んでおり、長照の誤り)を打ち取り、両人之子供を生け取り給ふ。
 然る間、竹千代様をば駿河に置きまいらせられて、御敵にならせ給ひければ、竹千代様を「今害死し奉れ」「後害死奉れ」「今日の」「明日の」とののしれども、関口刑部の少輔殿の御孫なれば、さながら害死し奉る事も無し。然らば、石川伯耆守申しけるは、「いとけなき若君御一人戕害(しょうがい)させ申さば、御供も申す者無くして、人の見る目にもすごすごとして御(おわします)べし。然らば、我等が参りて御最後の御供を申さん」とて駿河え下りけるを、貴賎上下感ぜぬ者も無し。
 然る処に、「鵜殿長勿子供に人質替ゑにせん」と申し越しければ、上下万民喜び申す事、限り無くして、「さらば」と云ひて、替ゑさせ給ふ。其の時、石川伯耆守、御供申して、岡崎え入らせ給ふ。上下万民、続いて御迎いに出でけるに、石川伯耆守は、大髯(ひげ)噉(く)ひ反(そ)らして、若君を頸馬に乗せ奉りて、念じ原ゑ打ち上げて通らせ給ふ事の見事さ、「何たる物見にも是に過ぎたる事はあらじ」とて見物する。「氏真は、扨(さて)も扨も阿呆の人かな。抑々(そもそも)竹千代様を鵜殿に代ると云ふ方薬かな」と云ひたり。

『三河物語』 
https://dl.ndl.go.jp/pid/1885188/1/28

③人質交換は、太原雪斎(崇孚)の「安祥城代・織田信広と竹千代の人質交換」にヒントを得たものではない。
 天文18年(1549年)11月9日、今川義元は、太原雪斎に出陣させて、安祥城を攻め落とさせ、織田信広を生捕りにし、翌10日、名古屋の萬松寺天王坊に幽閉されていた竹千代とで人質交換が笠寺で行われたとされているが、9月には既に竹千代は今川方にいた(『戦国遺文 今川氏編』907)ので、この人質交換は史実ではない。

④ドラマの関口氏純夫妻(ふさい)は打ち首になったかどうかは不明であるが、この時(永禄5年(1562年))、関口氏純は自害していない。関口氏純の死亡年および死因は不明であるが、永禄9年(1566年)9月までは生存が確認されている(『戦国遺文 今川氏編』2104)。

※「夫妻(ふさい)」という言い方:「「夫妻」は、夫と妻、つまり現在と同じ意味の言語として、『日葡辞書』に「Fusai (フサイ)。ヲット、ツマ」と登場する。それどころか、9世紀の『霊異記』、12世紀の『康頼宝物集』にも「夫妻」は登場します」(時代考証・平山優)



★今後の『どうする家康』
・第7回「わしの家」
・第8回「三河一揆をどうする」
・第9回「守るべきもの」
・第10回「側室をどうする」
・第11回「信玄との密約」
・第12回「氏真」


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