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未発表記事『明智物語』にみる明智光秀の出自

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【現代語訳】遠江国「井伊谷(いいのや)崩れ」の事
 この時、遠江国側の井伊谷、金指(かなさし)、冨部(とんべ)、愛宕岩(あたごいわ)、奥山、中野の6ヶ所は、一族が寄り集まって領していた。
 井伊氏は、徳川家康公の家臣となっていた。これは当時の井伊侍従の先祖である。中野氏は井伊氏に属し、金指も徳川家康公に属していたが、愛宕
岩の上村忠国、奥山の主馬允、冨部の小太郎──この3人は、誰にも属さず、徳川家康と武田勝頼の合戦の度毎に、野伏(野武士)たちを駆り集め、弱点を見つけては横槍を入れて突き崩すというゲリラ戦を、遠江国の徳川家康公に対しても、甲斐国の武田勝頼に対しても、数度しかけていた。(後略)

 これは、明智光秀の一代記『明智物語』(全2巻)の「遠州「井伊谷崩れ」の事」の前半である。「井伊谷崩れ」というからには、登場人物は、井伊谷の領主と秋山虎繁の2人かと思えば、遠江国側の6人と秋山虎繁の7人である。

 永禄11年(1568年)、武田信玄は今川領の駿河国に、徳川家康は今川領の遠江国に侵攻した。武田信玄別働隊・秋山虎繁隊は、国境(大井川)を越えて遠江国に侵入し、東遠の「冨部の小太郎」を蹴散らし(「冨部の小太郎」は松下氏の頭陀寺城(静岡県浜松市南区頭陀寺町)へ逃げ込んだ)、中遠の見付(静岡県磐田市見付。遠江国の国府所在地)に本陣を置いた。武田信玄に駿府今川館を襲われた今川義元が東遠の掛川城へ逃げ込むと、徳川家康は、武田信玄に対し、「西遠の引間城に本陣を置いて東遠の掛川城を攻めようと思うが、中間地点の中遠の見付に武田軍がいるのは邪魔だ」と怒ったので、武田信玄は、秋山虎繁に、尾張国へ向かうよう命令した。(通説では、徳川家康が掛川古城に本陣を置いて掛川城を攻めていると、信濃国伊那にいた秋山虎繁が遠江国に向かい、見付に本陣を置いて、掛川城の今川氏真と掛川古城の徳川家康を武田信玄とで挟み撃ちにしようとしたが、徳川家康は、今川氏真と和議を結んで船で逃がし、自分も奥平一族の活躍で救われたとする。)
 秋山虎繁は、西遠(井伊谷)を経て、奥三河に入り、「愛宕岩の上村」と「奥山の主馬」を蹴散らした。2人は菅沼藤蔵の井代城(愛知県新城市井代)へ逃げ込んだ。
 徳川家康は、「愛宕岩の上村」は武略の人で手強く、「奥山の主馬」は武勇の人で強いが、いつでも調略できるとし、「2人を倒す事よりも、遠江侵攻が優先」として、2人の事を放置して遠江国へ侵攻したのであるが、「今回、菅沼藤蔵のもとに武略の人と武勇の人が集まったのはまずい」と思ったという。(『明智物語』には「右流左死」と思ったとあります。読めますか? 答えはコメント欄に。)
 すると、菅沼藤蔵が「奥山の主馬」の首を持ってきたので、徳川家康は、「ラッキー」と思ったという。(『明智物語』には「幸の事なりける」とあります。)そして、徳川家康は、武略の人「愛宕岩の上村」を召抱え、菅沼藤蔵の軍師にしたという。

タイトルは「遠州「井伊谷崩れ」の事」ですが、実質的には「遠州「井伊谷崩れ」の事。付けたり、上村忠国、菅沼藤蔵が軍師になりたる事」ですね。

※菅沼藤蔵
 天文20年(1551年)9月3日、明智定明(土岐定明)と菅沼定広の娘の間に生れる。
 天文21年(1552年)6月16日、父・明智定明は、美濃守護・土岐頼芸と斎藤道三の内紛に乗じて、父の弟・遠山定衡に殺害され、居城・土岐高山城も御嵩城主・小栗教久に攻められて落城したため、遺子・愛菊丸(2歳)は、外祖父・菅沼定広を頼って母と共に三河国へ落ち延びた。母が奥平貞勝と再婚すると、愛菊丸は、叔父(母の弟)・菅沼定仙の養嗣子となり、菅沼藤蔵と称して菅沼定仙の居城・井代城に住んだ。
 永禄7年(1564年)、14歳で徳川家康に召抱えられた。通説では、菅沼定仙が徳川家康の元へ連れて行ったとするが、『明智物語』では、徳川家康と幼少の頃に学問や手習いに励んだ法蔵寺(愛知県岡崎市本宿町寺山)で出会って気に入り、召抱えたとしている。
 三河国加茂郡に領地を有していたが、天正10年(1582年)、織田信長に甲斐武田氏が滅ぼされると、甲斐国切石(山梨県南巨摩郡身延町切石)に1万石を与えられて大名となり、明智定政と改称した。(「本能寺の変」後の徳川家康の「神君伊賀越え」のメンバーを記した古文書に「菅沼定政」の名がある。明智定政への改称は、「神君伊賀越え」の後か?)
 文禄2年(1593年)には、従五位下、山城守に叙任された上、徳川家康の「土岐家を再興せよ」という命により、土岐定政に改称した。
 慶長2年(1597年)3月3日、死去。享年47。

■『寛政重修諸家譜』清和源氏頼光流土岐支流「菅沼」
定政 愛菊 藤蔵 山城守 実は明智兵部大輔定明が長男
天文21年、定明、美濃国にをいて斉藤道三と戦ひ、討死の時、定政、わずかに2歳にして、家臣に懹かれ、三河国に来りて、舅(ははがたおじ)定仙がもとに養はれ、菅沼藤蔵と称し、のち「土岐」に改む。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082719/334

 なぜ「遠州「井伊谷崩れ」の事」に菅沼藤蔵について詳しく書かれているかというと、『明智物語』は、遠江国新居に住む森秀利(82歳)へ慶長19年(1614年)冬にインタビューした記事=聞き書きであり、森秀利は、菅沼藤蔵の父・土岐定明の家臣だったからです。

 ではなぜ、『明智物語』に土岐定明や菅沼藤蔵について詳しく書かれているかというと、明智光秀は土岐定明の弟にして、菅沼藤蔵の叔父だからです。菅沼藤蔵は明智光秀の甥である。

■『明智物語』の系図

  土岐⑧頼明┬土岐⑨定明─愛菊丸(菅沼藤蔵→土岐⑩定政)
          ├遠山定衡
          └猶子・明智光秀

※猶子:①兄弟の子。甥。②他人の子を自分の子としたもの。養子。

 『明智物語』の系図上では、土岐定政は、明智光秀の「甥」である。
 しかし、『明智物語』において、土岐定明が明智光秀に向かって、「其の方の事、連枝とはいへども、実は猶子也」(お前は実の弟ではない。親戚ではあるが、猶子(養子)である)と言っている。ようするに、明智光秀の正体は、「土岐定政の弟」ではなく、「土岐定政の連枝(親戚)から迎えた猶子(養子)」であって、正体(父親の名前)は不明である。

 『明智物語』では、天文18年(1549年)4月23日、明智定明は領地の3分割統治を提案し、自分は土岐を領して土岐定明と名乗り、弟・定衡に遠山を与えて遠山定衡、弟・光秀に明智を与えて明智光秀と名乗らせたとするが、「土岐頼尚譲状」によれば、明智定明の父・明智頼明が譲られた明智領は、美濃国内土岐郡内の妻木(明智光秀の妻の出身地)、笠原、駄智(ものまねの神奈月さんの出身地)、細野だけであり、明智定明が東美濃(現在の可児市、多治見市、中津川市、瑞浪市、恵那市、土岐市、御嵩町)全域にわたって領していたとは考えにくい。

■一般的な「土岐明智系図」

┌成頼┬土岐政房┬土岐頼純
│  ├頼定  └土岐頼芸【土岐氏】
│  └頼尚┬明智⑧頼典─明智⑨光隆─明智⑩光秀【明智氏→絶家】
│     └明智⑧頼明┬明智⑨定明─⑩愛菊丸【明智氏→沼田土岐氏】
│            └定衡
└光高(玄宣)┬光重【京都明智氏】
       └政宣〔行方不明〕

※明智光秀は明智氏の嫡流で、10代宗主になる予定であったが、8代宗主の祖父・明智頼典が明智頼尚によって廃嫡され、さらに義絶。明智光秀の両親は離婚し、明智光秀は(織田信長に仕官するまで)消息不明となる。(明智頼明が義絶された明智頼典の幼い孫・明智光秀を救おうとして養子にすれば、『明智物語』の系図(土岐定政は明智光秀の甥)になる。)
 明智頼明が8代宗主、明智定明が9代宗主となった。(明智頼明が明智光秀ではなく、義絶された明智頼典の子・明智光隆を救おうとして養子にすれば、明智光秀の父・明智光隆と土岐定政の父・明智定明は兄弟となり、土岐定政は、明智光秀の従兄弟となる。)
 愛菊丸(菅沼藤蔵)は、徳川家康に仕官すると、明智家を再興し、10代宗主・明智定政と名乗った。(明智家の家宝「血吸いの槍」が、明智光秀から明智定政に渡された。)後に明智定政は、徳川家康の命により、土岐氏を再興し、土岐定政と名乗り、沼田土岐氏の祖となった。

 明智光秀の出自は不明だが、明智定政について調べれば、明智光秀の出自が分かるかもしれない。

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