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高良玉垂命の謎

1.高良玉垂命の正体


 高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)が筑後国一宮・高良大社(福岡県久留米市御井町1番地)の御祭神であることは、よく知られていますが、北九州の神が、なぜ埼玉県の駒形神社に祀られているのでしょうか?

駒形神社(埼玉県日高市高萩):品陀和氣命、息長帯比売命、高良玉垂命
駒形神社(埼玉県秩父市堀切):誉田別命、神功皇后、高良玉垂命
駒形神社(埼玉県朝霞市宮戸4丁目駒形):高麗方権現(高良玉垂姫命)

 そもそも、高良玉垂命は、筑後国一宮・高良大社の神ですから、さぞかし有名な神かと思いきや、記紀(『古事記』と『日本書紀』の総称)には登場しない謎の神なのです。

★「高良玉垂命」を祀る主な神社

上野幌神社(北海道札幌市厚別区厚別町上野幌):宇佐八幡大神、大山祇大神、熊野山大神、高良玉垂大神、西寒多大神
若宮八幡神社(千葉県市原市菊間)境内社高良神社:高良玉垂大神
世田谷八幡宮(東京都世田谷区宮坂)境内社高良神社:高良玉垂命
堀之郷正八幡宮(神奈川県秦野市堀山下):誉田別尊、息長帯姫命、高良玉多礼命
蓬田八幡神社(長野県佐久市蓬田)配祀:高良玉垂命
鞭嵜八幡宮(滋賀県草津市矢橋町):応神天皇、聖母大神、高良大神、住吉大神
御香宮(京都府京都市伏見区御香宮門前町)配祀:高良(たから)大明神
吉永八幡宮( 山口県下関市豊浦町大字吉永)配祀:高良(たから)大明神
高良大社(福岡県久留米市御井町) :高良玉垂命、八幡大神、住吉大神
高良下宮社(福岡県久留米市御井町):高良玉垂命
大善寺玉垂宮(福岡県久留米市大善寺町宮本):玉垂命(藤大臣、高良大神)、八幡大神、住吉大神
赤司八幡宮(福岡県久留米市北野町赤司)配祀:高良大神
風浪宮(福岡県大川市大字酒見)相殿:高良玉垂命
山北八幡宮(熊本県玉名郡玉東町白木):応神天皇、健岩龍命、高良玉垂命

 高良玉垂命は全国の神社で祀られているが、これは宇佐神宮の神「八幡三神」が全国に祀られているのと同じで、高良玉垂命は基本的には北九州の神であろう。
 高良玉垂命の正体について、ネットで検索すると多種多様である。

★高良玉垂命の正体
武内宿禰(物部保連、藤大臣、住吉大神(底筒男命))説
藤大臣(中臣鳥賊津臣命、藤大臣連保、月天子、住吉大神)説
物部祖神(饒速日命、物部胆咋連、物部保連、天明玉命(玉祖神、天目一箇命))説
綿津見神(豊玉彦命、彦火々出見尊、安曇磯良)説
⑤日下部氏族・水沼君(宗像三女神奉斎者)の祖神
景行天皇(大足彦)説:景行天皇の熊襲征伐の高良行宮
⑦朝鮮半島からの渡来神説(新羅神説、高麗神説、難波の比売許曽神(新羅から来た阿加流比売神)説)

 多種多様になった理由は、北九州連合国家「和国(中国人の表記は「倭国」。「東海姫氏国」とも)」には、「大和国」の神々の体系(記紀の神々の体系の原型)とは別の北九州王国独自の神々の体系があり、そこに景行天皇─ヤマトタケル─仲哀天皇の親子3代がやってきて、従属した神々を大和の神々の体系に取り込んで、その体系を崩してしまったからだと思われます。さらに鎌倉時代の八幡神の流行により、その体系が崩されています。

 日本中の神々が出雲に集うという神無月に、高良玉垂命は出雲に行かず、当地では10月を「神在月」と言います。行かない理由は記紀の神々と別体系の神で、高良山を景行天皇に占領されても従属を拒んだからでしょう。あるいは、別名で登場しているのかもしれません。別名──たとえば、月讀命(軽井沢の駒形神社の祭神)とか。

※江戸時代には、高良玉垂命=武内宿禰とし、山頂域の奥宮を「高良廟」と称して武内宿禰の墓所とし、筑紫国内の多くの高良社が武内宿禰を祭神としていましたが、それは、江戸時代に久留米藩が祭神を武内宿禰に特定したためだそうです。(現在の高良大社の社殿は、久留米藩第3代藩主・有馬頼利の寄進によるもので、万治3年(1660年)に本殿、寛文元年(1661年)に幣殿と拝殿が完成しました。)藩主が祭神不明の神社の祭神を調査させて特定した例は他にもあります。

 北九州王朝「和国」の体系の復元は、記紀に掲載されていないので、足繁く北九州へ行き、宇佐神宮や住吉神社を中心に「伝承」「口碑」を調べるしかないでしょう。

2.高良玉垂命に関する伝承

(1)玉垂命(高良大神)


 さて、伝承に拠ると、「玉垂命は、玉垂姫命と共に大善寺玉垂宮(福岡県久留米市大善寺町宮本)に住んでいたが、玉垂姫を大善寺玉垂宮に残して高良大社に移り、「高良玉垂命」と名乗った」そうです。

・大善寺玉垂宮では、高良玉垂命(高良大社のご祭神)=玉垂命(大善寺玉垂宮のご祭神)=藤大臣としている。
・「玉垂姫を大善寺玉垂宮に残して高良大社に移り」ではなく、高良大社の横に玉垂姫命=豊比売を祀る「豊比売神社」を建てたとも。

 高良大社『高良玉垂宮神秘書』(通称:『高良記』。戦国時代の成立)によれば、護国神通高良大菩薩(高良大神)が高牟礼山(鷹群山)に登り、「為善山。我久可住」と言ったので、「高良山」と変わったのであり(143条)、3年住むと飽きたので、「住厭(すみあき)」という地名になった(144条)とあります。「住厭(すみあき)」・・・明らかに「住吉(すみよし)」に対応させてる!

※『高良玉垂宮神秘書』(全551条)143条
一、大菩薩、此の山に御遷幸有りて、スミアキに登り給ひて、御記文に「為善高山。良我久可住(善き高山なり。良く我久しく住すべし)」と給ふに任せ、その記文の言葉を採りて「高良山」とは名付けたり。

 さて、高牟礼(たかむれ)山の祭神は、「高木神(高御産巣日神、高皇産霊神、高牟礼神)」で、高木神は、現在、高良山麓の二之鳥居の脇の「高樹神社」に地主神として祀られています。高木神は山頂におられたが、玉垂神に山を貸したところ、玉垂神が神籠石を築いて結界を張って鎮座したため、山上に戻れず、山麓(現在地)に鎮座しているのだそうです。

「高樹神社」社前案内板
 祭神は高皇産霊神(造化の三神の一)。
古くは「高牟礼権現」と称し、高良山の地主神と伝えられる。
 この神社はいわゆる国史現在社(正史=六国史に名の現れる神社)で、「三代実録」元慶2年(878)11月13日の条に「筑後国高樹神ニ従五位ヲ授ク」とあり、やがて正五位下に進んだことが、天慶七年(九四四)の「筑後国内神名帳」によって知られる。
 もと地主神として山上に鎮座していたが、高良の神に一夜の宿を貸したところ、高良の神が神籠石を築いて結界(区画を定め出入を禁ずること)の地としたため山上にもどれず、ここに鎮座するに至ったという伝説が、高良大社の古縁起に見えている。高良山の別名を「高牟礼山」と称するのも、この神の名に因むものである。


 祭政一致の古代にあっては、古代の祭祀場・高良山の祭神交代は、九州王朝の王権交代(クーデター)を意味するのだそうです。また、高良玉垂命は朝鮮半島の神であり、北九州が朝鮮人に征服された証拠だとも解されています。
 私は、景行天皇に奪われた高良山を奪回したって話だと思うのですが、どうでしょう?

(2)玉垂姫命(豐姫大神)


 高良大社の御祭神・高良玉垂命の妃・高良玉垂姫命の別名を豊比売命(とよひめ)といい、高良大社は「高良玉垂命と豊比売神の2神を主神とし、左右の相殿に八幡大神と住吉明神を祀る神社」、もしくは、「高良大社の横に豊比咩神社があった」とされています。
 式内・豊比咩神社の論社は次の4社です。

論社①本山天満宮(福岡県久留米市上津町本山)境内社・豊姫神社
・御祭神:豊姫命
「豊姫宮は、元東上村中組に鎮座ありし社殿を、大正14年5月3日、本山天満宮へ合祀し、後日、石の小祠を建立し、此処に遷座す」
論社②豊姫神社(福岡県久留米市北野町大城字大屋敷)
・御祭神:豊玉姫命(玉依姫命の姉)
論社③赤司八幡宮(福岡県久留米市北野町赤司):旧・止誉比咩神社
・御祭神:止誉比咩命(「豊姫命」とも。神功皇后の妹)
 赤司(あかじ)八幡宮は、延長2(924)年に創建された神社で、『止誉咩(とよひめ)神社本跡縁起』によると、創建時の社名は「筑紫中津宮」で、後に「止誉比咩神社」に変え、さらに戦国時代に「八幡宮」に変わったそうです。
論社④高良大社合祀(本殿内の御客座)・豊比売神社
『延喜式』には、

三井郡 ミヰ:3座 大2小1
高良玉垂命神 カワラノタマタレノミコト(名神大)
伊勢天照御祖神 イセアマテラスミオヤ
豊比咩神 トヨヒメ(名神大)

とあります。気になるのは、
①「三井郡」。現在の「御井町」。
②「高良玉垂神社」ではなく、「高良玉垂命神社」
③高良玉垂命神社と豊比咩神社が離れて記載されていること。
④「高良」は「コウラ」ではなく「カワラ」
です。
①御井神=木俣大神=駒形大神
②ただ単に珍しいなと。普通は「命」や「尊」は省くかと。他には「太田命社」とか。
③続けて書かずに、「伊勢天照御祖神」(御祭神:饒速日命)が入っているってことは、別の場所にあったかと。
④『神社覈録(じんじゃかくろく)』に
「高良は加波良(かわら、香春)と訓べし」
とあります。「河原(かわら)」→「かうら」→「こうら(高良、甲良)」と変化したようです。

※『平家物語』(巻第一)「12.鹿谷」
 その比、妙音院の太政大臣殿、大将を辞し申させ給ふ事ありけり 。時に徳大寺大納言実定卿その仁に当たり給ふ由聞ゆ 。また、花山院の中納言兼雅卿も所望あり。
 その外、故中御門の藤中納言家成卿の三男・新大納言成親卿も平に申さる。この大納言は院の御気色よかりければ、様々の祈りをぞ始めらる 。まづ、八幡に百人の僧を籠めて信読の大般若を七日読ませられたりける最中に、甲良(かうら)大明神の御前なる橘の木へ、男山の方より山鳩三つ飛び来たつて食ひ合ひてぞ死ににける 。「鳩は八幡大菩薩の第一の使者なり。宮寺にかかる不思議なし」とて、時の検校匡清法印この由内裏へ奏聞したりければ、「これ直事にあらず。御占あるべし」とて神祗官にして御占あり。「重き御慎み 」と占ひ申す。「但し、君の御慎みにはあらず、臣下の慎み」とぞ申しける。
【現代語訳】安元3年(1177年)、妙音院の太政大臣・藤原師長が内大臣左大将を辞任なされることがあった 。この時、徳大寺大納言実定卿が後任に当たられるという話があった 。また、花山院の中納言・藤原兼雅卿もその職を望まれた。
 その他、故中御門の藤中納言家成卿の三男・新大納言成親卿もその職を切望された 。この大納言成親卿は、後白河法皇に好意を持たれていたので、就任できるよう、さまざまな祈祷を始められた 。まず、石清水八幡宮に100人の僧を篭もらせ、転読大般若(『大般若経』全600巻を7日間読経)をさせていると、石清水八幡宮境内社・甲良大明神(高良神社)の社前の橘の木に、男山(おとこやま)の方から山鳩が3羽飛んで来て、互いにつつき合って死んでしまった。「鳩は八幡大菩薩の第一の使者だ。八幡宮の境内でこんなことが起こったためしはない。前代未聞の出来事だ」と、当時、検校であった匡清法印がこのことを内裏へ奏聞すると、「これはただ事ではない。占いをせねば」と、神祗官に占わせた。その結果、「深く慎むべし」と出た。「ただし、天皇の慎みではなく、臣下の慎しみである」と言う。

※石清水八幡宮公式サイトより「高良神社」
http://www.iwashimizu.or.jp/
徒然草第52段、仁和寺のある法師が山麓の極楽寺・高良神社などを本宮と勘違いし山上まで上がらずに帰ってしまったという話は有名ですが、高良神社は当宮の摂社の中でも、八幡地区の氏神様として篤い崇敬を受けています。7月に行われる「太鼓まつり」では各町内で「太鼓みこし」が豪壮に担がれます。
創建は、貞観2(860)年とも同11年(869)ともいわれ、慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いの兵火によって炎上しましたが、明治17年(1884)に再建され、その後、明治39年(1906)に、ほぼ元の位置にあたる現在の場所に移座されました。

 石清水八幡宮境内社・甲良大明神(高良神社)は、『行教夢記』には「川原神」、『男山考古録』には「瓦社」と記されています。

(3)宇佐神宮の神々


 高良玉垂命の正体は、高良玉垂姫命の正体が分かれば分かるのでしょうけど、高良玉垂姫命も謎の神でした。

 高良大社の中門の奥に本殿があり、向かって右から順に、
・八幡大神(応神天皇。仲哀天皇と神功皇后の子)
・高良玉垂命(神功皇后の功臣・武内宿祢?)
・住吉大神(底筒男神、中筒男神、表筒男神)
が祀られていて、高良玉垂命の正体の解明には、八幡大神と住吉大神の正体の解明も不可欠でしょうね。宇佐神宮(大分県宇佐市南宇佐)では、
・一之御殿:八幡大神 (誉田別尊、応神天皇)
・二之御殿:比売大神 (宗像三女神)
・三之御殿:神功皇后 (息長足姫命、気長足姫尊)
が祀られており、宇佐神宮の最大の謎は、中央に八幡大神ではなく、比売大神が祀られていることです。現在、宇佐神宮では、比売大神を宗像三女神(多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命)としているが、実際には、
・宇佐の地主神説
・卑弥呼説
・台与説(神功皇后の妹の豊姫?)
・与止姫説(与止姫は日神の象徴、銅鏡の化身。宇佐神宮に銅鏡を奉納)
・玉依姫説(豊玉姫の妹)
があります。ちなみに、私説は、
・比売大神=卑弥呼(日の巫女)=高良玉垂姫命(高良の巫女)=天照大神
です。(「玉垂」の「玉」は「玉依姫」や「豊玉姫」、「垂」は「息長足(たらし)姫」に通じる。)

埼玉県の駒形神社3社
駒形神社(埼玉県日高市高萩):品陀和氣命、息長帯比売命、高良玉垂命
駒形神社(埼玉県秩父市堀切):誉田別命、神功皇后、高良玉垂命
駒形神社(埼玉県朝霞市宮戸4丁目駒形):高麗方権現(高良玉垂姫命)

品陀和氣命=誉田別命=応神天皇=八幡大神
息長帯比売命=神功皇后
これで、高良玉垂命が高良玉垂姫命(姫大神)であれば、宇佐神宮と同じメンバーになりますね。高良玉垂命は、中世以降は、「八幡大神の第一伴神」と位置付けられ、八幡神社で祀られるようになったそうです。

 いずれにせよ、筑後国一宮・高良大社と豊前国一宮・宇佐神宮の関係は深いと思われる。問題は、そこに「三大住吉」(筑前国一宮・住吉神社、長門国一宮・住吉神社、摂津国一宮・住吉大社)がどう絡んでくるかです。

(4)住吉三神


 「住吉三神」とは、底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の3柱の神々の総称で、それぞれ、「海底の神」「海中の神」「海面の神」であり、 航海安全の神、豊漁の神として信仰されています。(「住吉大神」は、「住吉三神」と同義とも、住吉三神に神功皇后を加えた4神の総称とも。住吉三神に天照大神と神功皇后を加えた5神を「住吉五所大神」という。)

 また、「つつ」は「星」の意であり、その正体は「航海の目印に使われたオリオン座の三連星」だとも。その下の「小三つ星」(表津少童神、中津少童神、底津少童神)は「宗像女三神」だとも。
 また、神仏習合では、底筒男命=薬師如来、中筒男命=阿弥陀如来、表筒男命=大日如来と、凄いメンバーですね。

 また、住吉三神=武内宿禰説もあります。武内宿禰は、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えた人物で、そんな長生きができるはずはなく、初代、2代、3代の3人がいて、彼らの別称が底筒男神、中筒男神、表筒男神なのでしょう。この説を否定するには、「武内宿禰が生まれる景行天皇14年よりも前に住吉神社はあった」ことを証明すればいいのですが、最古の住吉神社は、どこにあったのでしょう?
 住吉三神は、黄泉国から帰った伊邪那岐命が「竺紫の日向の橘の小門(たちばなのおど)の阿波岐原」(筑紫(九州)の日向国の橘小戸の阿波岐原)で、黄泉国の汚穢を洗い清める禊を行った時、瀬の深い所で底筒男神、瀬の流れの中間で中筒男神が、水表で上筒男神が生まれました。

※『日本書紀』「神宮皇后紀」
「於日向国橘小門之水底所居而水葉稚之出居神。名表筒男・中筒男・底筒男神之有也」(日向國の橘小門の水底に所居て、水葉も稚に出で居る神。名は表筒男・中筒男・底筒男の神有す。)(『日本書紀』)

ということで、住吉三神は、武内宿禰が生まれるずっと前の神代に、「禊ぎ発祥の地」江田神社(宮崎県宮崎市阿波岐原町産母)周辺の阿波岐原(檍原)で、生まれました。そして最古の住吉神社には、

①筑前国説:筑前国一宮・住吉神社
②壱岐島説:住吉神社(長崎県壱岐市芦辺町住吉東触)
③対馬説:住吉神は対馬の豆酘に顕現した。「筒の男」は「豆酘の男」。(田中卓『住吉大社史』) ※現在、豆酘に住吉神社はない。

があります。住吉三神=武内宿禰説の根拠は、『住吉大社神代記』(田中卓『住吉大社神代記の研究』)の

 ──ここに皇后、大神と密事あり。俗に夫婦の密事を通はすと曰ふ。(『住吉大社神代記』「住吉大神顕現次第」)

であり、「八幡大神(応神天皇)は、神功皇后と仲哀天皇の子ではなく、神功皇后と住吉大神(武内宿禰)の子」だとするのですが、普通は「八幡大神(応神天皇)は、神功皇后と仲哀天皇の子」であり、神功皇后と密通した住吉大神は、新設の住吉大社の宮司に抜擢された津守宿禰だと考えられています。
 ちなみに、『高良玉垂宮神秘書』では、神功皇后の夫は高良玉垂命です。和国の神々の体系では、高良玉垂妃(高良玉垂姫命)が神功皇后で、与止姫(豊姫)は神功皇后の妹です。

景行天皇─ヤマトタケル─仲哀(足仲彦)天皇
             ‖─応神天皇─仁徳天皇
            神功皇后(気長足姫尊)

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