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三河国(愛知県岡崎市)の飛犬頭伝説

1.新田義貞の討死


 延元3年/建武5年(1338年)閏7月2日、新田義貞勢(50人)は、斯波高経勢(300人)と越前国藤島の灯明寺畷(福井県福井市新田塚町)で戦った(「藤島の戦い」)。斯波勢は、弓を携え、楯を持った歩兵を多く連れていた。一方、新田勢は楯を持たず、射手も一人もいなかったので、格好の的となってしまった。
 この時、中野宗昌は、
「千鈞(せんきん)の弩(ど)、廿日鼠の為に機を発たず」(ハツカネズミを捕まえるのに強力な石弓を使わないように、大事の前の小事、大志を抱いている者(大将)は命を粗末に扱わないものである)
として、新田義貞に退却を進言したが、新田義貞は、
「士を失い、独(ひとり)免(まぬが)るゝは、我が意にあらず」(味方の兵を見殺しにして、自分一人だけ生き残るのは不本意である)
と言って中野宗昌の意見を却下して進軍すると、馬に矢が5本当って馬が狭い溝を飛び越せず、新田義貞は落馬した。起き上がったところに矢が眉間に命中し、新田義貞は観念して、首を太刀で掻き切って自害した。新田義貞の首を取ったのは氏家重国だという。

『太平記』20巻「義貞自害事」
 義貞の方には、射手の一人もなく、楯の一帖をも持せざれば、前なる兵、義貞の矢面に立ち塞りて、只的に成てぞ、射られける。中野藤内左衛門は、義貞に目加して、「千鈞の弩は為廿日鼠不発機」と申けるを、義貞きゝもあへず、「失士独免るゝは非我意」と云ひて、尚敵の中へ懸入んと、駿馬に一鞭をすゝめらる。此馬名誉の駿足なりければ、一二丈の堀をも前々輒く越けるが、五筋まで射立られたる矢にやよはりけん。小溝一をこへかねて、屏風をたをすが如く、岸の下にぞころびける。
 義貞、弓手の足をしかれて、起あがらんとし給ふ処に、白羽の矢一筋、真向のはづれ、眉間の真中にぞ立たりける。急所の痛手なれば、一矢に目くれ心迷ひければ、義貞、「今は叶はじ」とや思けん、抜たる太刀を左の手に取渡し、自ら頚をかき切て、深泥の中に蔵して、其の上に横てぞ伏給ひける。越中国の住人・氏家中務丞重国、畔を伝て走りより、其の首を取て鋒に貫き、鎧、太刀、刀、同じく取り持ちて、黒丸の城へ馳せ帰る。

2.新田義貞の首

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 首のない新田義貞の胴体は、灯明寺畷に葬られたと勘違いしている観光客が多いのですが、8人の時宗の陣僧により、灯明寺畷から時宗長崎道場・称念寺(福井県坂井市丸岡町長崎。上の写真。石碑は福井地震で倒れて割れたまま)に運ばれ、葬られました。

 ──さて、首は何処に?

善昌寺(旧・大同寺):桐生市新里町新川
大同元年(806年)、伝教大師最澄の弟子・宥海が大同寺を創建。
新田義貞の首を桃井次郎が藤島から持ち帰り、船田義昌に預けた。(一説に、単身京都に潜入した船田善昌が、勾当内侍(こうとうのないし)の侍女「丹の局」の協力を得て、晒されていた首を盗み、上野国新田荘まで持ち帰った。)
船田義昌は首を大同寺に埋めて供養した。寺号も善昌寺とした。
※発掘したら、多人数の人骨が出てきた。戦死した新田一族の墓であろう。
※なお、船田善昌は、延元元年(1336年)にすでに戦死している(『太平記』15巻「正月十六日合戦。附けたり船田入道討死が事」)。
★『桐生市ホームページ』「善昌寺の新田義貞公首塚」
https://www.city.kiryu.lg.jp/kankou/spot/niisato/1001852.html

滝口寺:京都府京都市右京区嵯峨亀山町
 建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中、延元3年(1338)、越前国(福井県)藤島で討死し、 足利尊氏によってその首級を晒されていた。
 妻であった勾当内侍が都に晒されていた新田義貞の首を持ち出し、滝口寺に葬った。

糟目犬頭神社:愛知県岡崎市宮地町馬場

 建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中、延元3年(1338)、越前国(福井県)藤島で討死し、 足利尊氏によってその首級を晒されていた。
 義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主、大久保氏の先祖)は、 主君義貞の晒首を奪い返して三河の領地に往き、主君義貞の本国、上野国(群馬県)に首級を葬ろうとしたが、腐敗がひどかったで、やむなく義貞の首を「犬の首」だと偽って大宝元年(702年)創建の式内・糟目神社に埋葬し、自身もこの地で歿したと伝えられている。
※京都から上野国新田荘へ行くのは東山道を使うが、岡崎に屋敷城があったので、遠回りになるが、東海道を使ったという。
※宇都宮泰藤は、新田義貞を弔うために法華宗に帰依し、出家して「蓮常」と名乗り、正平7年(1352年)に51歳で亡くなった。墓は糟目犬頭神社近くの本寿山妙国寺にある。
※新田義貞の首を犬の首にたとえたのは、各地の「飛犬頭伝説」が思い浮かんだのか、『太平記』に「犬死」とあるからなのか。

新田神社:神奈川県小田原市東町4丁目

■「新田義貞の首塚」(現地案内板)
 建武の中興の柱石であった新田義貞は、北陸を転戦中、延元3年(1338)、越前国(福井県)藤島で討死し、 足利尊氏によってその首級を晒されていた。
 義貞の家臣宇都宮泰藤(小田原城主、大久保氏の先祖)は、 主君義貞の晒首を奪い返して領国三河に往き、妻子に暇を告げ、主君義貞の本国、上野国(群馬県)に首級を葬るため東海道を下った。
 しかし、酒匂川のほとり、ここ網一色村に達したとき、病にかかり再起できなくなってしまったという。 そこでやむなく義貞の首をこの地に埋葬して、自身もこの地で歿したと伝えられている。
 その後、新田義貞の首塚として地元の人々に尊信されていたが、戦後一時荒廃してしまった。しかし、近年地元有志によって 復興整備され、新田義貞の首塚の碑も建立された。
 なお北方八幡神社境内に、新田神社の祠がある。

※宇都宮泰藤ではなく、船田善昌とする説もあるが、船田善昌は、延元元年(1336年)にすでに戦死している(『太平記』15巻「正月十六日合戦、附、船田入道討死事」)。

3.宇都宮泰藤


 宇都宮泰藤は、宇都宮第7代宗主景綱の孫・武茂時綱(時景)の子です。

宇都宮⑦景綱┳⑧貞綱━⑨公綱━⑩氏綱━⑪基綱━⑫満綱━⑬持綱
      ┗泰宗┳時景┳泰藤━泰綱泰道泰昌昌忠忠與…
         ┣貞泰┣師奏
         ┗貞宗┣泰朝
            ┣氏泰
            ┗泰景

宇都宮泰藤の最期については、

糟目犬頭神社の伝承:岡崎に屋敷城があり、新田義貞の首を糟目犬頭神社に埋めると、新田義貞を弔うため出家して「蓮常」と名乗り、岡崎で亡くなり、墓は糟目犬頭神社近くの本寿山妙国寺にある。

・新田神社の伝承:領国三河に往き、妻子に暇を告げ、上野国まで首級を葬るため東海道を下ったが、網一色村で病にかかり、新田義貞の首を埋め、自身もこの地で沒した。

と両社食い違っています。(「大久保氏の産土社は犬頭神社で、大久保氏が小田原城主になった時、小田原にも新田神社として祀った」という説がありますが、もし新田神社が新しい犬頭神社であれば、伝承を犬頭神社と合わせると思いますよ。)

 大久保氏の系図では、祖先は宇都宮泰藤で、苗字を「宇津」に変え、さらに苗字を「大久保」、通字を「泰」から「忠」に変えたとしています。

★参考記事「大久保彦左衛門忠教」
https://note.com/sz2020/n/ne9fad43e8be4

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 宇都宮氏は大家で、全国各地に分家がありますので、宇都宮泰藤が三河国碧海郡和田荘に(地頭、もしくは荘主として?)来て、土着しても不思議ではありません。上の写真は、本寿山妙国寺の宇都宮5代墓所(和田宇都宮6代のうち、和田宇都宮初代泰藤の墓は少し離れた山門付近にあり、ここは宇都宮泰綱から忠與の墓になります)です。

 ただ気になるのは、宇都宮泰藤は南朝遺臣だということです。三河国の平野部は「足利第二の本拠地」として、細川氏、吉良氏、今川氏、仁木氏、等の発祥の地(本貫地)であり、世良田親氏(後の松平初代親氏)のような南朝遺臣は、三河国の山間部「奥三河」に潜んでいました。ですから、南朝遺臣の宇都宮泰藤が岡崎平野の中心部に住んでいたとは考えにくいのです。(南朝遺臣の動向を書いた偽書『浪合記』には、「宇津十郎忠照、三州前木に住す。桐山、和田の大久保祖也。元は駿河国富士郡住人・宇津越中守の二男也。宇津宮甚四郎忠成、同国大久保に住す」とあります。「三州前木」は、山中城の近くの岡崎市舞木町です。)

 学者は、「宇都宮氏(通字は「泰」。菩提寺は妙国寺)と大久保氏(通字は「忠」。菩提寺は長福寺)は無関係。和田に興った大久保氏が、宇都宮氏の子孫だと詐称している」としますが、私は「宇都宮泰藤が(世良田親氏のように)三河国に流れてきて、その子は(世良田親氏が松平氏の娘婿となって「松平」と名乗り、「世良田」の名を消して隠れ住んだように)宇津(うづ)氏(本拠地は岡崎市宇頭(「うず」。現在の読み方は「うとう」)町。『浪合記』では三河国大久保)の娘婿となり、和田に本拠地を移して大久保氏と名乗った」と考えています。

4.糟目犬頭神社


 『延喜式』に古代の官社のリストが載っています。そこに
>碧海郡 糟目(カスメノ)神社
とあります。糟目犬頭神社の旧鎮座地は上和田村西糟目森崎で、大宝元年(702年)に彦火火出見尊(注)を祀った式内・糟目神社だそうです。それで犬頭神社が旧社名「糟目神社」に戻そうとしたところ、春日神社が、「我が社こそが式内・糟目神社であると」名乗り出て、調査した結果、結論が出ず、結局、明治4年(1871年)、額田県の命により「糟目犬頭神社」、明治5年(1872年)、額田県の命により「糟目春日神社」と名乗っています。

(注)愛知県蒲郡市神ノ郷町壱町田の式内・赤日子神社の御祭神・赤日子神(彦火火出見尊、豊玉彦命、妃神・豊玉姫命(海神の娘))の彦火火出見(ひこほほでみ)尊(別名:天津日高日子穂々手見命、火折彦火火出見尊、山幸彦、等)で、ここでは神武天皇の別称ではない。
 海人族・安曇氏(『新撰姓氏録』に「安曇連は綿津豊玉彦の子、穂高見命の後なり」とある)が祀ったという。安曇氏は、岡崎市内を流れる矢作川を遡って安曇野(長野県安曇野市)に達した(一説に、安曇氏の祖神・穂高見命が穂高岳(長野県安曇野市穂高)に降臨)。

★参考記事「三河国の式内社」
https://note.com/sz2020/n/n600abb6cbc3b

『三河国内神明名帳』に、
>正四位下 糟目明神 坐 碧海郡
>従四位上 犬頭明神 坐 碧海郡
とあるので、「春日神社の旧名が糟目明神、犬頭神社の旧名が犬頭明神」とお考えの方がおられるようですが、それは間違いです。糟目犬頭神社が、糟目神社から犬頭神社に社名を変えたのは新田義貞の死後であり、『三河国内神明名帳』の成立は平安時代です。(『三河国内神明名帳』の「犬頭明神」は、犬頭糸の生産を行っていた「桑子明神 坐 碧海郡」か、同じ社名で郡違いの「犬頭明神 坐 宝飯郡」になります。)

 私としては、「糟目春日神社が延喜時代の糟目神社であり、洪水で流され、御祭神が漂着した地に建てられたのが糟目犬頭神社である」とする説を支持したい。

★参考記事「三河国内神明名帳」
https://note.com/sz2020/n/nebfd5f34d17a

(1)飛犬頭伝説

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「飛犬頭伝説」とは、「大木の木陰で休んでいると、飼っていた白い犬が吠えて五月蝿いので、首を跳ねると、頭が空を飛んで大木に潜む大蛇の喉に噛み付き、大蛇を殺し、主人を救った。主人は『危険を教えてくれていたのか』と反省し、大木の近くに犬胴塚、家に帰って近くに首塚を築き『犬頭霊神』として祀った」という話で、全国にあります。(上の漫画は、星野之宣『宗像教授異考録』(第2集)「花咲爺の犬」(小学館)より)

(2)糟目犬頭神社の飛犬頭伝説


 新田義貞の没年(1338年)の8年後の貞和2年(1346年)5月、上和田城主・宇都宮泰藤は、犬頭神社(現在の糟目犬頭神社)の近くで鷹狩をし、境内の大杉の木陰で休んでいると、飼っていた白い猟犬が吠えて五月蝿いので、首を跳ねると、頭が空を飛んで杉の大木に潜む大蛇の喉に噛み付き、大蛇を殺し、宇都宮泰藤を救った。宇都宮泰藤は『危険を教えてくれていたのか』と反省し、杉の大木が生えていた犬頭神社の境内に「大塚」(現在の大和田島弁財天がある場所)を築き、犬の頭を「犬頭霊神」として祀り、犬の尾を「犬尾霊神」として、下和田に犬尾神社として祀ったという。
 永延元年(987年)、紀州熊野三所大権現を合祀し、観応元年(1350年)には、新田義貞の敵・足利尊氏が、熊野権現領100貫文を寄進したそうです。

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現在の御祭神は、
①彦火火出見尊【糟目神】
②伊弉諾尊、伊弉册尊、素盞嗚命【紀州熊野三所大権現】
③犬頭靈神【犬頭神】
で、④豊受姫命を合祀しているとのことです。本殿には扉が3つしかないです。(犬頭靈神は大和田島弁財天に遷されたのか?)
 洪水のため、建久元年(1190年)、現在地(愛知県岡崎市宮地町馬場)に遷座し、犬頭霊神を祀る「大塚」が築かれると、洪水に遭わないよう、大塚に境内社として大和田島弁財天(御祭神は「水難除け」の市杵島姫命)が祀られたという。

伊弉册尊
    ‖
伊弉諾尊
┳底津綿津見神【綿津見三神】┓
    ┠中津綿津見神【綿津見三神】┠穂高見命【安曇氏】┳豊玉姫命
    ┠上津綿津見神【綿津見三神】┛         ┗玉依姫命
    ┠天照大御神 【三貴神】━━━天忍穂耳尊━━━┳火闌降命
    ┠月読命   【三貴神】           ┗彦火火出見尊
    ┗素盞嗚命  【三貴神】            (豊玉彦命)

大宝元年九月創立彦火火出尊を鎮祭し糟目神社と称す。永延元年六月十五日紀州熊野三所大権現を合祭す。旧社は今の隣村上和田村の西糟目森崎に在り、往来矢作川洪水につき今の地に遷座、 観応元年足利尊氏熊野権現領として百貫文目を寄付し、豊太閣の世まで相続すると云う。犬頭霊神の由緒は相伝う上和田城主宇都宮泰藤なるもの貞和二年壬辰五月当社に於て鷹狩す。 時に社殿の坤の方に七囲世の大杉樹あり、泰藤樹下に憩い仮寝す。樹に巨蛇あり、 首を垂れ将に泰藤呑まんとす。率いる処の白犬頻に吠へ泰藤を警す。泰藤驚き覚む、 然れども此事あるを知らず。亦眠り亦吠ゆ此如再三、泰藤怒り差添の刀を抜き犬頭を断つ、 頭忽ち飛騰し蛇の噛み之を殺す。泰藤驚き且つ悔いその犬を以て犬頭霊神として当社に合祀す。実に当年九月十五日なりと云う。天正十年岡崎城主田中平部少輔吉政豊大閣の命を以て大杉樹を伐り 同郡大浜村に於て船に造ると云う。慶長八年八月二十八日東照公より犬頭社領四十三石の朱印を賜うてより 以後徳川氏代々準之、依て社号を犬頭大神明と称す。明治四年額田県の命を以て即ち今の糟目犬頭神社と改称す。明治五年九月十八日郷社に確定。明治四十年十月二十六日神饌

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 御由緒
一、社名 大和田島弁財天
一、祭神 市杵島姫命
一、御神徳 商売繁盛 福徳開運 財宝■■
一、例祭日 六月二日  日次祭 毎日二日
 由 緒
この島は大塚と称し今より六百四十年前
南朝の忠臣宇都宮泰藤公が新田義貞
の首を京都よりうばい埋めて犬頭霊神を
祀ったと伝えられ其の後星霜久しく
荒廃していたが篤志家と氏子崇敬者の
請願に依り神殿を造営神橋鳥居を
建築神池を整備 昭和四十九年六月
滋賀県の竹生島より祭神を勧請して
奉斎する

※市杵島姫命の御神徳は、「宗像三女神」として、航海安全、市場神として商売繁盛、弁才天として芸事上達(業成就、能達者。特に音楽関係の芸能人が信仰)、弁財天として金運上昇とするのが一般的。

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 鳥居と狛犬は、福井県福井市の足羽山(新田義貞が討死した灯明寺畷から出土した新田義貞の兜を祀る藤島神社がある山)で採掘される笏谷石(しゃくだにいし)製で、狛犬の背には慶長15年(1610年)閏2月吉日に岡崎城主・本多豊後守康重が「三州碧海郡和田之郷熊野権現犬頭社御宝前」に「石之駒犬一対」を寄進奉るとあります。(慶長10年(1605年)奉納の神殿狛犬は「唐猫」で、慶長15年(1610年)奉納の神前狛犬は「駒犬」。)
 このタイプの狛犬は、狛犬学では、
・三国湊狛犬(橋本萬平『狛犬をさがして』)
・白山狛犬
・笏谷石狛犬
・越前狛犬
・越前禿狛犬(たくきよしみつ)
などと呼び、統一されていません。

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糟目犬頭神社は拝殿、社務所、鳥居が改修されて案内板が増えたと言うし、本寿山妙国寺は大震法によって木造の本堂は解体されてセレモニーホールのような美しい建物になったという。コロナ禍が過ぎたら行ってみよう。

★参考冊子:『糟目犬頭神社』
http://sakuza.g1.xrea.com/1gaiyou/yukarinoti/%E7%B3%9F%E7%9B%AE%E7%8A%AC%E9%A0%AD%E7%A5%9E%E7%A4%BE.pdf

★参考記事:『岡崎ルネサンス』「犬にゆかりのある2つの神社」
https://citypromotion.okazaki-kanko.jp/report/story-show-64

★参考記事:『猫の神様を求めて』
愛知県の猫神・糟目犬頭神社の「唐猫」前編
http://nekonokamisama.blog3.fc2.com/blog-entry-81.html
愛知県の猫神・糟目犬頭神社の「唐猫」中編
http://nekonokamisama.blog3.fc2.com/blog-entry-82.html



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