見出し画像

あかりちゃんと饗庭へ行ってみた。

画像7

画像2

画像8

『幡豆郡横須賀村誌』「金蓮寺」
 当寺は、始め不動松の地に在り。往古真言宗にて、尾張光福寺塔頭青龍坊なり。
 足利尊氏、暦応2年、この地に引き移し「青龍坊金蓮寺」と号す。本尊・弥陀は、山城天龍寺本尊なりしを、暦応3年、尊氏、天龍寺建立の際、小仏なる故、当寺に移す。弘法大師作と伝ふ。羽黒山の山科坊を召して住持となす。「三社三箇寺」の1として、3町3段寄附す。
 文和元年、小田原より不動院下り、至徳元年より妙鶴丸祈願所となる。文治年中、源頼朝、藤九郎盛長をして三河に七御堂を作らしむ。阿弥陀堂、是なり。武田番匠作る処、弥陀尊象は運慶作と伝ふ。
 明治23年、内務省より金百円下賜せられ、大正9年4月15日、特別保護建造物に指定さる。

『幡豆郡横須賀村誌』「金蓮寺大般若経」
 応永2年開始にて、同年中に200巻を書写す。寛正年中、妙鶴丸、新田成就祈祷の為、鳳来寺の経を取り寄せ転読せしむ。400巻は永正年中より天文年中に至りて書写を了す。筆者は円海坊、幸善坊、勝楽寺筆なり。

(注1)饗庭郷三社三箇寺
三社
 ・小山田の神明社
 ・饗庭の牛頭天王社(現在の饗庭神社
 ・友国の春日神社
三箇寺
 ・「饗庭不動」青龍山金蓮寺(真言宗→曹洞宗)
 ・「小山田地蔵」萬松山勝楽寺(真言宗→曹洞宗)
 ・西三河最大の前方後円墳「正法寺古墳」がある医王山正法寺(曹洞宗)
(注2)三河七御堂
https://note.com/sz2020/n/n31415156413d
(注3)上の古い写真も『幡豆郡横須賀村誌』から。写真で見ると小さそうだが、実はでかい。
萬松山勝楽寺
http://jizoson.org/


 『幡豆郡横須賀村誌』の記述は難しい。私の読解力では読み解けない。「尾張光福寺塔頭青龍坊」と言われても、尾張国の光福寺は、春日井市柏原町の光福寺(延暦元年(782年)創建。当初は天台宗「薬王院神宮寺」と称していたが、鎌倉時代に了海上人が浄土真宗に改宗して「光福寺」と改名した寺)しかヒットしないし、「塔頭」とは寺院内寺院のことで、「境外塔頭」なのか? そもそも塔頭なら「青龍院」、末寺なら「青龍寺」だろうし・・・。暦応3年、足利尊氏が医王山正法寺の再興時、住職として鳳来寺の玉林坊を呼ぶと、玉林坊は、鳳来寺から薬師如来像を持ってやってきたというから、「青龍坊」も光福寺の塔頭の院主の名では?

 旧地「不動松」(不動尊を祀る寺の松の巨木?)もどこなのか分らない。「不動の滝」(不動尊を祀る滝)なら各地にあるが・・・。阿弥陀如来ばかりが注目されているが、青龍山金蓮寺の通称は「饗庭の不動さん」でご本尊は不動明王である。

 文治2年(1186年)の安達盛長の話と暦応3年(1340年)の足利尊氏の話では、安達盛長の話の方が古いので、『幡豆郡横須賀村誌』の記述は、「安達盛長が源義朝の命で武田番匠に建てさせた饗庭の「三河七御堂」弥陀堂(本尊:阿弥陀如来)へ、不動松の青龍坊(本尊:不動明王)を足利尊氏が合併させて「饗庭郷三社三箇寺」金蓮寺を創建した」と読み解けばよいのであろうか?(平安時代、幡豆郡司の娘が金蓮寺を氏寺としたという記述があるという。この金蓮寺は、饗庭ではなく、不動松にあったのか?)
 『金蓮寺縁起』(筆者未見)には、「饗庭に弥陀堂を建立させた源頼朝は、不動松の不動明王が霊験あらたかなことを聞いて饗庭に移し、不動明王も阿弥陀如来と共に自分の守護主として尊信した」とあるそうです。源頼朝自筆の『大般若経』があったというが、『幡豆郡横須賀村誌』にあるように、鳳来寺から借りてきて複数人で複数年かけて書き写したものらしい。

★参考論文
「吉良町金蓮寺の大般若経について」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aichikenshikenkyu/8/0/8_152/_pdf/-char/en
小林輝久彦「室町幕府奉公衆饗庭氏の基礎的研究」
http://www.okuraken.or.jp/files/4514/9135/7013/63_kobayasi_ronzetsu.pdf

画像1


ところで、今の阿弥陀如来立像は、
・安達盛長が用意した運慶作
・足利尊氏が用意した京都嵐山の天龍寺の弘法大師作
のどっち? なぜ臨済宗天龍寺派大本山の天龍寺のご本尊が、真言宗の弘法大師作の阿弥陀如来像なの?(多分、阿弥陀如来像は運慶作で、ご本尊の不動明王像が弘法大師作かと。ちなみに、阿弥陀如来像は鎌倉時代の作で、両脇侍像は江戸時代に造り替えたもの。)

 調べれば調べるほど謎が増えるので、とにかく『金蓮寺縁起』をゲットして、学者が「史実は・・・」と言ってきても無視して、『金蓮寺縁起』に書いてあることを100%信じれば救われる、鎌倉時代で遊べる、楽しめる。
 そもそも、学者は「三河七御堂」の話を「三河七御堂伝説」と呼んで信じていない。学問は非情で、夢や浪漫に欠ける。

 お散歩撮影会が1番楽しい!
 ブログは書くのに手間ががかるし、「スキ」がつかなくて、「この記事も受け入れられなかったか」とショックを受けるだけ。(サポート(応援、支援)がないまま、いつまで書き続けられるかは不明。嫌になったらやめる。ブロガー(ブログの売上や広告収入、アフェリエイトで生計を立てている人)じゃないので気楽。)

・吉良遺産 #01「金蓮寺弥陀堂」(前編)
https://www.youtube.com/watch?v=wcvIhRDU3ko
・吉良遺産 #02「金蓮寺弥陀堂」(後編)
https://www.youtube.com/watch?v=aVePBO46f8E
・金蓮寺弥陀堂
https://www.city.nishio.aichi.jp/_resources/content/60090/20190128-141116.pdf

■あかりちゃんと一緒に

画像3

画像4

画像5

画像6


 菜の花が咲いた。春はもうすぐだ。(←立春はもう過ぎてるぞ!)


記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。