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三河七御堂

 源頼朝が、三河国初代守護・安達盛長に命じて、次の7ヶ寺に御堂を建てさせた。これを「三河七御堂」という。

①船形山普門寺(渥美郡/豊橋市雲谷町):再興・化積上人は源頼朝の弟。
②赤岩山赤岩寺(八名郡/豊橋市多米町赤岩山):裏山に赤い巨岩。
③陀羅尼山財賀寺(宝飯郡/豊川市財賀町観音山):本尊は千手観音。
④煙巌山鳳来寺(設楽郡/新城市門谷鳳来寺):源頼朝が堂宇、石段を寄進。
⑤御堂山全福寺(宝飯郡/蒲郡市相楽町):廃寺。「さがらの森」内の平地。
⑥龍田山長泉寺(宝飯郡/蒲郡市五井町岡海道):安達藤九郎盛長の五輪塔。
⑦青龍山金蓮寺(幡豆郡/西尾市吉良町饗庭七度ケ入):国宝の弥陀堂。

 このうち現存するのは、金蓮寺の国宝・弥陀堂(愛知県内最古の木造建造物)のみだというが、実は・・・。

■林自見正森述『三河刪補松(みかわさんぽのまつ』(1775年)
一、蒲冠者範頼、三河守たる時、藤九郎、監として造営ありし七堂。
 一、金蓮寺(吉良村)
 一、丹野御堂
 一、陀羅尼山財賀寺観音堂
 一、赤岩山法言寺弥陀堂(此の堂、享保年中、造替)
 一、船形山普門寺観音堂(此の堂、宝永年中、造替)
 一、龍田山長泉寺
 一、鳳来寺弥陀堂
(注1)林自見(はやしじけん)述『三河刪補松』は、元文5年(1740年)の『三河国二葉松』の訂補を目的に編纂された書。
(注2)「蒲冠者範頼(源三河守範頼)」が、安達(比企)藤九郎盛長を現場監督(作事奉行)として建てさせたとある。源範頼は、源頼朝の異母弟で、安達盛長の娘を妻とし、官位は「三河守」(元暦元年(1184年)8月6日任)であるが、三河国守護にはなっていないと思われる。ただ、安達盛長が派遣される前に、三河国の行政に関わっていたかもしれない。そもそも安達盛長が三河国守護になったのは、源頼朝繋がりであろう。

①船形山普門寺

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 普門寺の沿革(上掲現地案内板)
 普門寺の創立は、遠く奈良時代にさかのぼる。全国に仏法をひろめるために各地をまわられた行基菩薩が船形山に登られ、眺望のすばらしさに霊気を感じ、観音さまのあらたかなお告げに接した。この体験をもとに、2尺8寸の聖観音立像を自ら刻み聖武天皇のお言葉もたまわって普門寺が建設された。神亀4年(727年)のことと「三州船形山普門寺略縁起」に記されている。
 平安時代から真言宗に属し寺の勢力は大そう振ったが、高倉天皇の嘉応年間(1169-1170)多くの天台宗の僧侶が密法を学ぶため大挙当山に走り主導権争いは激化して武力衝突となり兵火のため一山が全焼するという悲運にあった。
 荒廃した山寺を再興したのは化積上人である。源頼朝の舎弟と云われる兵部卿阿闍梨化積上人は普門寺の学頭となって以来源家再興のため平家追討を祈念した。頼朝の命を受けた、有名な文覚上人も当寺に来りて五壇の法を修したと云われる。
 文覚上人にまつわる伝説としては、水に困った当寺のため祈るや奇蹟あらわれてたちまち泉湧き出でたと伝えられる。
 この時仏師運慶に命じて護摩堂の本尊として不動明王を刻ませた。この像は、源頼朝の等身の像と伝えられている由緒あるものであるが、現在はお堂とともに破損はいちぢるしい。

 紅葉(イロハモミジ)の名所の普門寺は、行基創建の高野山真言宗の寺で、普門寺を再興した化積上人が源頼朝の弟である縁で、建久元年(1190年)、源頼朝が上洛する際に宿としたことで知られいる。(行基は監視されていて、奈良から出たことは無いはずであるが、行基は遠江国(静岡県浜松市北区引佐町四方浄)生まれとされ、遠江国や三河国には数多くの行基創建の寺が存在する。)

 『普門寺縁起』(筆者未見)に、源頼朝が平家追討の祈祷をして、自分と等身大の不動明王像(現在は護摩堂ではなく客殿に安置)を造らせたとあるそうです。この運慶作「不動明王像」(162.9cm)は、「身丈不動尊」の名で親しまれています。

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■公式サイト「普門寺の開山」
当寺は、 奈良時代神亀4年(727)に行基によって開山されたと伝わっています。
天文3年(1534)成立の『普門寺縁起』には、次のような伝承が記されています。関東に向かう途中で当山に登った行基が、この山の地景を奇特に感じ、寺院草創の志を抱き修行をしていたところ、観音様が姿を現して「山の形にちなんで山号は「船形山」、観音様にちなんで寺号は「普門寺」と名付けよ」とお告げをされました。行基はその観音様の姿を自ら彫り、このお告げの内容を聖武天皇に報告したところ、堂塔建立が命じられて普門寺が開創されることになりました。普門寺は天智天皇彫刻の五大明王を本尊とする「東谷」、観音様を本尊とする「西谷」からなり、聖武天皇は尊勝峯(神石山)と雨応峯(雨応山)から見渡せる範囲を寺領とした、といいます。
豊橋市教育委員会によって平成16年(2004)から行われた学術調査によれば、裏山の船形山山腹にある「元々堂址」の本堂跡からは10世紀半ばの遺物が出土しており、また本尊聖観音菩薩立像が11世紀、菩薩形立像が10~11世紀の彫刻であることが判明しており、普門寺の成立が古代に遡ることは確実視されています。

★公式サイト
https://fumonji727.com/
★参考論文:井上佳美「『船形山普門寺梧桐岡院闓闢之縁起由来』についての基礎的考察」
https://core.ac.uk/download/pdf/228929116.pdf

②赤岩山赤岩寺

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 聖武天皇の勅願により、行基が神亀3年(726年)に創建した高野山真言宗の寺。「赤岩山法言寺」と称したが、役人が間違えて帳簿に「赤岩寺」と書いていたので、「赤岩山赤岩寺」が正式名になってしまったという。

 安達盛長が源頼朝の命で建立したとされる「三河七御堂」の一つに「赤岩山法言寺弥陀堂」(『三河刪補松』)が挙げられ、享保年中(1716-1736)に建て替えられたとあるが、現存しない。

 国指定重要文化財・木造愛染明王坐像があることで知られる。

③陀羅尼山財賀寺

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 聖武天皇の勅願により、行基が神亀元年(724年)に創建した高野山真言宗の寺。建久3念、源頼朝は、本堂を再建したという。

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 観音山の中腹から山麓にかけて伽藍が展開する。仁王門の仁王像(国指定重要文化財)が有名。

★公式サイト
http://www.ccnet-ai.ne.jp/zaikaji/

④煙巌山鳳来寺

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 「平治の乱」で父・源義朝は知多半島の野間で、長田忠致の裏切りにより、入浴中に「せめて小太刀の一本でもあらば」と言って暗殺された。父・源義朝とはぐれてしまった源頼朝は、鳳来寺に逃げ込んだが、後に捕らえられ、伊豆の蛭ヶ小島に流されて、北条政子と出会う。

 後に源頼朝は、匿ってくれたお礼に鳳来寺に石段を寄進し、三河国守護・安達盛長に命じて堂宇を建立させたという。

⑤御堂山全福寺(廃寺)

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『宝国山養円寺記』(筆者未見)に、全福寺について「聖武天皇の御世の神亀年中、行基が十一面観音を刻み、これを祀ったのが創始であり、その後、頼朝が、三河国守護・安達藤九郎盛長に「三河七御堂」の一つとして全福寺を再興させた」とあるというが、文明元年(1469年)、 萩原芳信は、御堂山(標高364m)の山頂に丹野城 を築くも、翌・文明2年(1470年)の「丹野城の戦い」で破れ、城も寺も荒廃した。現在は廃寺となり、「さがらの森」内に本堂の礎石(市指定有形文化財)が存在するのみである。

⑥龍田山長泉寺

■『宝飯郡誌』
 本尊・薬師如来は、行基菩薩の作にして「安養院」と号し、天台宗なり。往昔、安達藤九郎盛長、本国に於いて七堂を建立す。其一なりと云。(三河守範頼は、この国を領して三十五万石とあり。範頼、藤九郎盛長を奉行として七御堂を建立せしには非ずや云々。)永正六年正月、大檀越・本村城主松平太郎左衛門尉長勝、伽藍を再興し、曹洞宗に改め、「長泉寺」と称す。この寺の戌亥の方に五輪の塔あり。安藤藤九郎盛長の石碑と伝えり。而て寺領三石。
「長泉寺の市指定文化財」(現地案内板)
  長泉寺の市指定文化財
安達藤九郎盛長五輪塔
 鎌倉時代、三河国の初代守護となったのが安達藤九郎盛長である。藤九郎盛長は、源頼朝の命により、三河各地の社寺の再興、造営に努めたが、中でも金蓮寺(吉良)などの三河七御堂が特に有名で、長泉寺もその1つといわれている。寺伝による開基はそれよりも古く、神亀年中(724-728)行基上人によるとされ、境内には、五井の地名の起こりの、行基上人が掘ったと伝えられる5つのうちの1つの井戸がある。このような行基伝説は全国に、全国各地にみることができる。
 藤九郎盛長の墓とされる五輪塔は、鎌倉初期の五輪塔の特徴を備えていり、供養塔との説もあるが、藤九郎盛長とこの地との密接なつながりをよく示す遺跡として貴重である。          昭和32年1月10日 指定

 境内には行基が掘ったという5つの井戸(「五井」地名の由来)の1つがあります。

 本堂の裏に安達藤九郎盛長の墓(五輪塔)があります。安達(比企)盛長(正室は、頼朝公の乳母・比企局(ひきのつぼね)の長女)は、正治2年(1200年)4月26日に赴任先の三河国で亡くなったと伝えられています。享年65。
 通説では、安達盛長は鎌倉にいて、三河国へは守護代・善耀を派遣していますので、「墓ではなく、供養塔」、もしくは、「善耀の墓」ではないでしょうか?

安達藤九郎盛長の五輪塔(現地案内板)
 市指定有形文化財
  安達藤九郎盛長五輪塔
安達藤九郎盛長は建久5年(1192年)、三河の国に守護がおかれたとき初代守護となった。長泉寺は藤九郎が普請奉行となって建立したもので、このほかにも、吉良の金蓮寺、鳳来寺、豊橋の普門寺、財賀寺、法言寺、大塚の全福寺(廃寺─礎石が市史跡に指定)を建立したり、保護の手をさしのべて、のちに三河七御堂として栄た。
五輪塔は5つの石を組み合せて建てられたものである。下から方(地)、円(水)、三角(火)、半円(風)、円(空)を表わす五大(この世の全ての生物を生存させる最低限の基本要素)を形どっている。藤九郎は正治2年(1200年)この地に歿し、縁故の最も深い長泉寺に墓を建てたものである。
        昭和32年1月10日指定
             蒲郡市教育委員会
(注1)建久5年は1194年ですよ。
(注2)「普請奉行」は土木工事。建設工事は「作事奉行」ですよ。

 後に五井松平氏の菩提寺となり、五井城主の五井松平氏5代(忠景(元芳。松平第3代信光の7男)、元心、信長、忠次、景忠)の墓が墓地の北側にある。第6代伊昌(これまさ)は、徳川家康の関東移封に伴い下総国へ移った。

⑦青龍山金蓮寺

■『愛知県幡豆郡誌』(大正12年)
金蓮寺 曹洞宗 横須賀村大字饗庭
本尊 阿弥陀如来
文治年間、源範頼、三河守となり、比企藤九郎盛長を目代となす。盛長、頼朝の命を受けて、「三河国七御堂」を造営す。吉良金蓮寺は、其の一なり。別堂に不動明王を安置す。弘法大師の作にして、霊験顕著なれば、遠近の参詣頗る多し。

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 「饗庭のお不動さん」として親しまれている青蓮山金蓮寺は、暦応3年(1340年)に足利尊氏が現在の場所に移したという。足利尊氏による饗庭郷の新田開発によって創建・再興された「三社三箇寺」(小山田の神明社、饗庭の牛頭天王社(現在の饗庭神社)、友国の春日神社、青龍山金蓮寺、萬松山勝楽寺、医王山正法寺)の1ヶ寺である。(青蓮山金蓮寺がある吉良町饗庭は、「饗庭(あいば)塩」の産地で、現在は否定されているが、『忠臣蔵』の背景にある吉良と赤穂の争いは、塩問題に起因するとする俗説があった。)
 真言宗の寺であったが、寛政9年(1797年)に希外透聞和尚を中興開山として曹洞宗に改宗したという。
 国宝・弥陀堂は、唯一現存する「三河七御堂」だとされてきましたが、その建築様式は、源頼朝の時代からやや下った鎌倉時代中期のものです。なお、愛知県内の国宝建造物は、犬山城の天守(犬山市)、茶匠・織田有楽斎の茶室「如庵」(犬山市)、金蓮寺弥陀堂(西尾市)の3件です。

■『文化財ナビ愛知』「金蓮寺弥陀堂」
 弥陀堂は、平安時代の浄土信仰の中で極楽浄土を求めて建てられた阿弥陀堂の系統に属し、その遺例は中尊寺金色堂(岩手・国宝)などに見られる。それらは方三間、総丸柱で、中央に四本柱を立てて尊像を祀る有心堂の仏堂であったのに対し、金蓮寺弥陀堂は桁行3間、梁間3間、寄棟造、檜皮葺、正面に庇を出し、左側面後方に2間の庇を加え、周囲に落縁(おちえん)を巡らした邸宅風の意匠を取り入れた仏堂であり、同種の建物としては金剛峰寺不動堂(和歌山・国宝)がある。内部は四天柱を用いず、来迎柱2本を側柱列より後退させていることから、鎌倉時代中頃の建物と考えられている。(杉野丞)
https://www.pref.aichi.jp/kyoiku/bunka/bunkazainavi/yukei/kenzoubutu/kunisitei/0044.html

 また、源頼朝自筆の『大般若経』があったとか。
★参考論文「吉良町金蓮寺の大般若経について」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/aichikenshikenkyu/8/0/8_152/_pdf/-char/en

 改めて、「三河七堂」の一覧。

①雲谷の船形山普門寺(神亀4年(727年)行基開山)の観音堂
②多米の赤岩山赤岩寺(神亀3年(726年)行基開山)の弥陀堂
③財賀の陀羅尼山財賀寺(神亀元年(724年)行基開山)の観音堂
④門谷の煙巌山鳳来寺(大宝2年(702年)利修仙人開山)の弥陀堂
⑤丹野の御堂山全福寺(神亀年間行基開山)の丹野御堂
⑥五井の龍田山長泉寺(神亀年間行基開山)の?
⑦饗庭の青龍山金蓮寺(文治2年(1186年)安達盛長創建)の弥陀堂
※鳳来寺については常行堂説もある。

東三河に偏ってますね。
室町時代の守護所は、西三河の岡崎市(岡崎城の対岸。岡崎古城の前)に置かれたのですが、鎌倉初期は蒲郡市に置かれていたのでしょうか?

不思議なのは、地図上で長泉寺と金蓮寺を直線で結ぶと、中央に三ヶ根観音があり、その直線を東へ延長すると鎌倉、西へ延長すると野間になります。

★三河国の守護一覧
https://cms.oklab.ed.jp/el/nanbu/index.cfm/7,239,c,html/239/20190304-161713.pdf

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