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斉藤義竜の死因は「狐憑き」

『大かうさまくんきのうち』は、織田信長の一代記『信長公記』を書いた太田牛一が書いた豊臣秀吉の一代記です。同じ人が書いたのですから、両書はほぼ同じなのですが、「斉藤道三」「斉藤義竜」について比較すると、『信長公記』には、
・「斉藤道三」については、斉藤義竜を認める段落と人物評の段落が欠如
https://note.com/sz2020/n/n52fcf9fb61b4
・「斉藤義竜」については、死に関する段落が欠如
しています。

「斉藤義竜」の死因について、『大かうさまくんきのうち』は、狐(野干)憑きだとしています。

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★本文画像
http://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/icp/132x-27-1


【翻刻】
さるほとに、さいとうしん九郎よしたつ、さいちよは一ちやう殿御むすめ、そく御ぞうしとてこれあり。あるとき、やかんつき候て、きゐのわつらひあり。百さのこま、せんさのこま、まんさのこまをたかせ、さまさまきとう候へとも、つゐにへいゆうなく、ふし三人びやうし。てんとう、おそろしき事。

【仮名交じり文】さる程に、斉藤新九郎義竜、妻女は一条殿御女、息御曹子とてこれあり。或る時、野干憑き候て、奇異の煩ひあり。百座の護摩、千座の護摩、万座の護摩を焚かせ、様々祈禱候へども、遂に平癒なく、父子三人病死。天道、恐ろしき事(也)。

【現代語訳】さて、斉藤義竜は、(江南の六角氏と同盟を組み、江北の浅井久政と戦うことになったので、浅井久政の娘(浅井長政の妹)「近江の方」(前室)とは離縁して)「一条の方」(後室)を迎えて嫡男を儲けていたのであるが、ある時、狐が憑いて、奇病にかかった。護摩を100回、1000回、10000回と焚かせて、様々な祈禱をおこなったが、遂に平癒することなく、父子三人とも病死した。(親兄弟を殺したからこういう死に方になった。)天道とは恐ろしいものである。

松波→西村→長井龍基─長井→斎藤秀龍入道道三┬義龍┬朝倉義景室
                      ├龍重├義興
                      ├龍定├池田源之助室
                      ├帰蝶├馬場殿
                      └利治└長龍

【別本『天正軍記 』慶長元和古活字版本(内閣文庫所蔵)】

さいし一でうとのむすめ御さう子と申てこれあり。あるとき、てぎはなるはたらきあり。きつねかりをなされ、さまさまふるまいとも候き。ひやくざのごま、千座のこまをたき、きたう候といへども へいゆうなく、つゐにちちご三人、ひやうしなり。だうさんは、めいじんのやうに申候へども、しよてんのはちにはなをそがるる事、前代みもんの事なり。

妻子、一条殿女、御曹子と申してこれあり。或る時、手際なる働きあり。狐狩りをなされ、様々振る舞ひども候らひき。百座の護摩、千座の護摩を焚き、祈禱候といへ共、平癒なく、遂に父子三人、病死なり。道三は名人のやうに申し候へども、諸天の罰に鼻を削がるる事、前代未聞の事なり。

どうも、狐狩りをしたので、狐に取り憑かれたらしい。
『大かうぐんきのうち』が和文である理由を、学者は、「太平記語り」や琵琶法師の『平家物語』ように、「読ませる本ではなく、読んで聞かせる本だから」としているが、私は、平仮名しか読めない豊臣秀吉に読ませる本だと思っている。
「狐憑き」「豊臣秀吉」といえば、豊臣秀吉の養女・豪姫(宇喜多秀家の正室。前田利家の四女)が病にかかり、「狐憑き」と言われた豊臣秀吉は、稲荷大明神に対し、「狐を退散させなければ日本中で狐狩りをする」と10月20日、石田三成と増田長盛に命じて狐狩の文書を出したことを思い出した。

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