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太田牛一『大かうさまくんきのうち』「斉藤道三と義竜(前編)」

 『大かうさまくんきのうち』は、織田信長の一代記『信長公記』を書いた太田牛一が書いた豊臣秀吉の一代記です。基本的に「和文」です。(豊臣秀吉は平仮名しか読めなかったのでしょう。)
 「和文」の長所は、「読めること」ですね。「土岐頼芸」は読めないけど、『大かうさまくんきのうち』には「ときのよりのりこう」とあるので、読めます。
 「和文」を含め、古文の欠点は、「句読点がないこと」ですね。お風呂屋さんの「ここではきものをぬいでください」という入り口の張り紙を、「ここで、履物を脱いで下さい」と読むか、「ここでは、着物を脱いで下さい」と読むかという脳トレのような話です。あと、「おぢ」は「伯父」なのか「叔父」なのか、「すけ」は「佐」なのか「輔」なのか「介」なのか「助」なのか、家系図で確認する必要があります。
 このように、「和文」は非常にやっかいなのですが、『大かうさまくんきのうち』を『信長公記』と合わせて読むことにより、「『信長公記』の漢字を太田牛一の読み方で読める」という利点があります。とはいえ、『信長公記』の「居城」(『大かうさまくんきのうち』では「ゐじやう」)を「いじょう」と読んだら、「『きょじょう』も読めないの?」とバカにされそうですね。

◎変体仮名:「尓」は「に」、「多」は「た」、「能」は「の」、「里」は「り」、「志」は「し」、「津」は「つ」(「っ」は「ツ」)などなど。

今回は、

1.『大かうさまくんきのうち』:原文の翻刻に句読点
2.『太閤様軍記』の内:仮名交じり文
3.  現代語訳
4.『信長公記』:参考文献(段落⑮と⑳の欠落、段落③の詳細説明を除き、ほぼ同じ文章。)

の4つを載せました。
http://dcollections.lib.keio.ac.jp/ja/icp/132x-27-1

1.『大かうさまくんきのうち』


ミ能のくにさいとう山しろたうさんハ、ぐわんらい五きなひ山しろのくに、にし乃おかのまつなみと申、一(いち)ほくの毛乃也。ミのゝくにへまかりくたり 、なか井とうさへもんをたのみ、にしむらをなのり、ほうこういたし、よりきをも津けられ、志ん上(せう)、なり多ち、ほとなく志うのくびをきり、なか井志ん九郎となのる。
とうさへもん、とうめう志んるい乃ものとも、やしんをおしとりあひなかはニ候。此とき、とき能よりのりこう、大くわに御ざいじやう候。なか井志ん九郎、とき殿へこんはう申尓つゐて、へちちやうなく、御か多ん候ゆへをもつて、ぞうぶん尓多つし、こゝ尓て、
  さいとう山しろたうさんとなのる。
とき殿御そく二郎殿、八郎殿とて、御きやうたひこれあり。か多しけなくも、二郎殿をむこ尓とり、なだめ申、どくがいをい多し、ころしたてまつり、そ能のち、又、御しやてい八郎殿をむこ尓とり、これ又御はらめさせ、大くわをのつとり候き。
ここ尓てなにものゝしわざやらん、らく志よにいわく、
  志うをきり、むこをころすは、みの、をはり
  むかしは、おさ多、いまハ、山しろ
とかいて、七まかり、百まかりに多てをきさふらいし。
山しろハ、せうくわ能ともからをも、あるひハうしさきにし、あるひハかまをすゑをき、そのおやこ、さいし、きやうだいともニひをたかせ、人をいりころし事、すさましきせいはひ也。
さるほと尓、一なん志ん九郎、二なんまこ四郎、三なんきへいじとて、きやうだひ三人、これあり。さうべち、人能そうれうたるものハ、かならすしもこころかゆふゆふとして、をんとうなる物に候。だうさんハ、ちゑのかゝみもくもり、志ん九郎はほ連も能とはかりこころへ、おとと二人をこさかしく、里こう能ものかなとさうきやうして、三なんきへいじを一(いツ)しきひょうゑのたゆふ尓なし、ゐなからくわんをすすめ、これ尓よツて、おとゝも、かつ尓のツておごり、志ん九郎をなひがしろ尓もてあつかひ候。
よそ能きこえ、む年ん尓そんし、
 十月十三日より、さくびやうをかまへ、おくへひき入、へいぐわさふらいし、山しろふし四人ともニ、いなは山尓ゐじやう也。
十一月廿二日、山しろたうさん、さんげのしたくへおりられ候。こゝにて おぢにて候、なか井はやとのすけとだんこうをあひきハめ、ぢうびやうときをまつ事ニ候。二人能おとゝ尓たいめん候て、一(いち)こん申多事候。じゆらい候へかしと申をくり候。
なか井はやと、たくミをめくらし、御きやうだい此ときに候あひ多、御ミまひもツともと申候ところ尓、すなはち、とうしん尓て、新(しん)くらうしたくへ、二人なからまかりき多る也。
なか井はやと、つぎ能ま尓か多なををく。これをミて、おなしことく津き能ま尓か多なをく。さて、おく能さしきへ入也。わさとさかつきをとりて、ふるまひをい多し、そのとき、ひ袮能ひツ中、めいよ乃物きれのふとか多な、さくてぼうか年つ袮、ぬきもち、せうさにさふらふ津るまこ四郎をきりふせ、又、うひやうゑ能多ゆふをきりころし、袮んらい能志うびをひらき、さんけ能山しろだうさんか多へミきのおもむき申つかはすところ尓、ぎやうてんかきりなし。
ここ尓て、まつ、かいを多てよと候て、にんしゆをよせ、四はう、まちすゑよりひをかけ、ことことくはうくわし、はだかしろ尓なし、ながら能かわをこし、山がたといふさん中へひき乃き、ふしとりあひ也。こく中尓ちぎやう志よぢ乃めんめんとう、ミな、志ん九郎よしたつか多へはせあつまり、山しろたうさんにんしゆ、したい、したいにてうすニなる也。
これによりあくるとし 四月十八日、こく中いなは山乃三里いぬい尓、津るやまとて、こうさんこれあり。此山へとりあかり、四はうをミくたしゐちん也。
おた能かつさのかミのぶながも、山しろたうさんのむこ尓て候あひ多、御てあはせとして、木そかわ、ひ多かわ能だいがうちこし、あかなべくちへさしかゝり、おほら能としまとうぞうばうかまへ尓い多ツて、御ちんをすゑられ、こゝ尓き多ひ能事あり。やしき能うち、ほり、く年まても、ぜにがめあまたほりい多し、こゝもかしこも、せ尓をしきたることく也。
四月廿日う能こく、新(しん)くらうよしたつ、いぬゐへむかツて、たうさんゐぢん能津る山へにんしゆをい多し、たうさんも、なからかわきわまてかけむかひ、ざいざい志よ志よ尓気ふりをあけられ、志かるところ尓、
 竹乃こしたうぢん、六百はかり、まんまる尓なツてかわをこし、たうさんは多もとへきりかかり、山しろもあひかかり尓かかりあひ、志はらくたゝかひ、ものゝかすともせすきりくつし、竹能こしたうちんをうちとり、たうさん、せう木ニこしをかけ、ほろをゆすりまんそく候ところ尓、又、
二番(にばん)やり尓、新(しん)くらうよしたつ、たいくんにてどツとかわこし、たうさんとにんしゆたてあはせ候。
さるほと尓、あはれなる事あり。たたいま乃やりまへに、たうさんかたき能新(しん)くらうをほめられ候。せい能つかひやう、むしやくはり、尓んしゆの多てやう、のこるところなきは多らき也。さすか、たうさんかこ尓て候。ミのゝく尓おさむへきもの也。とかくわ連わ連あやまり多るよと申され候。これをきくもの、よろひ能そてをぬらさすといふものなし。
さて、新(しん)くらうよしたつそなゑ能中より、むしや一きすゝみいつる。これハ、
 なか屋甚右衛門(じんへもん)と申もの也。又、これをミて、山しろたうさん尓んしゆ能うちより
 志は多かくないと申ものはしりいて、まん中尓てたゝきあひ、なか屋をおしふせ、くひをとる。志はたかくなひ、
はれかましきこうミやう也。
さ候ところ尓、さうはうより、とツとかゝりあひ、やりをうちあはせ、くろけふり多ツて志のきをけつり、つはをわり、ひはなをちらし、あひたゝかい、こゝかしこ尓て、おもひおもひのは多らきあり。
さるほと尓、なか井ちうさへもん、山しろ尓わ多しあはせ、たうさんかうつたちをおしあけ、むすとい多きつき、たうさんをいけとり尓つかまつらんといふところへ、こまきげんだ、はし里き多り。山しろかす年をなぎきり、おしふせ、くひをとる。ちうさへもん、のちのせうこ能ため尓とて、はなをそいで乃き尓けり。
新(しん)くらうよしたつ、かせん尓うちかツて、くひ志ツけんのところへ、山しろかくびもちき多る。ミよりい多せるとかなりと、とくたうをこそし多りけり。これより能ち、新(しん)くらう、はんかとなのる。むかし、もろこし尓、はんかといふもの、おや能くびをきる。それハ、ちゝ能くびをきツて、こうとなる也。いま能新くらうよしたつは、おや能くびをきツて、ちじよく、ふこうとなる也。
たうさんハ、めいじん能よう尓申候へとも、じひしんなく、五じやうをそむき、ぶたうさかんなるゆへ尓、志よてん能ミやうか尓そむき、こ尓こけうをおいい多され、こ尓はなをそかれ、こ尓くひをきられ、ぜんだひミもん能こととも也。てんたう、おそろしき事。(後略)

2.『太閤様軍記』の内


美濃の国、斎藤山城道三は、元来、五畿内山城の国西の岡の松波と申一僕の者也。美濃の国へ罷り下り、長井藤左衛門を憑み、西村を名乗り、奉公致し、与力も付けられ、身上成り立ち、程無く主の首を斬り、長井新九郎と名乗る。
②藤左衛門同名親類の者共、野心を起し、取り合ひ半ばに候。此時、土岐頼芸公、大桑に御在城候。長井新九郎、土岐殿へ懇望申につゐて別状無く御加担候故を以て増分に達し、此処にて斎藤山城道三と名乗る。
③土岐殿御息二郎殿、八郎殿とて御兄弟これあり。忝くも、二郎殿を聟に取り、宥め申、毒害を致し、殺し奉り、その後、又、御舎弟・八郎殿を聟に取り、これ又御腹召させ、大桑を乗っ取り候き。
④此処にて、何者の仕業やらん。落書に曰く、
 主を斬り 、聟を殺すは 身の 終はり 昔は 長田 今は 山城
と書いて、七曲がり、百曲がりに立て置き候いし。
⑤山城は、小科の輩をも、或は牛裂きにし、或は釜を据ゑ置き、其の親子、妻子、兄弟共に火を焚かせ、人を煎り殺し事、凄まじき成敗也。
⑥去る程に、一男・新九郎、二男・孫四郎、三男・喜平次とて、兄弟三人、是れ有り。想別人の惣領たる者は、必ずしも心が悠々として、穏当成る者に候。道三は、知恵の鏡も曇り、新九郎は耄者とばかり心得、弟二人を小賢しく利口の者哉と崇敬して、三男・喜平次を一色兵衛太輔になし、居乍ら位官を進め、是に依って、弟共勝つに乗って奢り、新九郎を蔑ろに持て扱ひ候。
⑦他所の聞こえ無念に存じ、十月十三日より作病を構へ、奥へ引き入、平臥候し。山城、父子四人共に、稲葉山に居城也。
⑧十一月廿二日、山城道三、山下の私宅へ下りられ候。爰にて伯父にて候、長井隼人佐と断行を相極め、重病時を待つ事に候。二人の弟に対面候て、一言申たき事候。入来候へかしと申送り候。
⑨長井隼人、巧みを廻らし、御兄弟、此時に候間、御見舞ひ尤もと申候処に、則ち同心にて、新九郎私宅へ二人なから罷り来たる也。
⑩長井隼人、次の間に刀を置く。是を見て、同じ如く、次の間に刀置く。扨、奥の座敷へ入也。態と杯を取りて振る舞ひを致し、其の時、日根野備中、名誉の物切れの太刀、作手棒兼常、抜き持ち、上座に候つる孫四郎を斬り伏せ、又、右兵衛大輔を斬り殺し、年来の愁眉を開き、山下の山城道三方へ右の趣き申遣はす処に、仰天限り無し。
⑪爰にて、先ず法螺を立てよと候て、人数を寄せ、四方、町末より火を懸け、悉く放火し、裸城になし、長良の川をこ越し、山県と云ふ山中へ引き退き、父子取り合ひ也。国中に知行所持の面々等、皆、新九郎義竜方へ馳せ集まり、山城道三人数、次第、次第に手薄に成る也。
⑫是に依り、明くる年、四月十八日、国中、稲葉山の三里乾に鶴山とて高山、是あり。此の山へ取り上がり、四方を見下し居陣也。
⑬織田の上総守信長も山城道三の聟にて候間、御手合はせとして、木曽川、飛騨川の大河打ち越し、茜部口へ差し掛かり、大良の戸島東蔵坊構へ至って、御陣を据ゑられ、爰に希代の事あり。屋敷の内、堀、くね迄も、銭亀数多掘り致し、爰もかしこも、銭を布きたる如く也。
⑭四月廿日卯の刻、新九郎義竜、乾へ向かって道三居陣の鶴山へ人数を致し、道三も長良川際まで駆け向かひ、在々所々に気振りを上げられ、然る処 に、竹腰道塵、六百計り、真丸に成って川を越し、道三旗本へ斬り懸かり、山城も相懸かりに懸かり合い、暫く戦ひ、物の数ともせず、斬り崩し、竹腰道塵を討ち取り、道三、床几に腰を掛け、母衣を揺すり、満足候処に、又、二番槍に、新九郎義竜、大軍にて瞳と川越し、道三と人数立て合はせ候。
⑮去る程に、哀れなる事あり。只今の槍前に、道三、敵の新九郎を褒められ候。勢の使い様、武者配り、人数の立て様、残る処無き働き也。流石、道三が子にて候。美濃の国、治むべき者也。兎角我々誤りたるよと申され候。是を聞く者、鎧の袖を濡らさずという者無し。
⑯扨、新九郎義竜備ゑの中より、武者一騎、進み出る。是は、長屋甚右衛門 と申もの也。又、是を見て、山城道三人数の内より、柴田角内と申者、走り入て、真中にて叩き合ひ、長屋を押し伏せ、首を取る。柴田角内、晴れがましき高名也。
⑰左候処に、双方より、瞳と懸かり合ひ、槍を打ち合はせ、黒煙立って、鎬を削り、鍔を割り、火花を散らし、相戦い、爰かしこにて、思ひ思ひの働きあり。
⑱去る程に、長井忠左衛門、山城に渡し合はせ、道三が打太刀を推し上げ、むすと懐き付き、道三を生け捕りに奉らんと云ふ処へ、小真木源太、走り来り、山城が脛を薙ぎ斬り、押し伏せ、首を取る。忠左衛門者、後の証拠の為にとて、鼻を削ひで退きにけり。
⑲新九郎義竜、合戦に打ち勝って、首実検の処へ、山城が首、持ち来る。身より出せる咎なりと、得道をこそしたりけり。是より後、新九郎范可と名乗る。昔、唐土に范可と云ふ者、親の首を斬る。それは、父の首を斬って、孝となる也。今の新九郎義竜は、親の首を斬って、恥辱、不孝と成る也。
⑳道三は、名人のように申候へ共、慈悲心無く、五常を背き、無道盛んなる故に、諸天の冥加に背き、子に故郷を追い出だされ、子に鼻を削がれ、子に首を斬られ、前代未聞の事共也。天道、恐ろしき事。

3.現代語訳

①斎藤道三は、元は、五畿内山城国西ノ岡(京都府乙訓郡西岡)に住んでいた「松波」という1人の武士であった。(京都から)美濃国へ下り、小守護代・長井藤左衛門長弘を頼りにして、「西村」と名乗り、家臣となると、与力(家来)も付けられ、一人前の武士になった。しばらくして(享禄3年ろも、天文2年とも)、無情にも、主人・長井長弘の首を斬り、「長井新九郎規秀」と名乗った。
②長井長弘の長井一族の者たちが野心を起こし、長井家の家督を巡って争っていた時、土岐頼芸は、大桑城にいたのであるが、長井規秀が懇望すると、すんなりと加勢してくれた。そのおかげで、長井規秀は、天文7年(1538年)、本意を遂げ、「斎藤山城守道三」(正しくは斉藤利政)と改名した。

土岐政房┬頼武┬次郎頼純
    └頼芸└八郎頼香

③元美濃国守護・土岐頼武の子に、土岐次郎頼純、土岐八郎頼香という兄弟がいた。忝(かたじけな)くも、斎藤山城守道三は、土岐頼純を聟に取り、ご機嫌を伺っていたが、天文10年(1541年)に毒殺した。(当時は、兄の死後、兄嫁と弟が結婚することは珍しくなく、)斎藤山城守道三は、その娘(若後家)の再婚相手に土岐頼香を選び、無理やり結婚させたが、天文13年(1544年)9月、土岐頼香も切腹させられ、大桑城を乗っ取られた。
④この時、何者かによる落書に、
 〽主をきり聟をころすは身のおはり むかしはおさだいまは山しろ
(主君を斬り殺し、娘婿まで殺すのは身の終わり(美濃・尾張の人である)。昔は(源頼朝の父・源義朝を裏切った)尾張国の長田忠致、今は美濃国の斎藤山城守。)
とあり、稲葉山城の城下町(岐阜県岐阜市)の「七曲り」「百曲り」と呼ばれる道の角に立てられた。
⑤斎藤山城守道三は、小さな犯罪を犯した者をも(重罪を犯した者と同様の)「牛裂きの刑」に処し、あるいは、「釜茹での刑」として、(犯罪者を大きな釜に入れ)犯罪者の親子、妻子、兄弟たちに火を焚かせて殺すなど、冷酷な処刑を行った。
⑥さて、斎藤山城守道三の子には、長男・新九郎義竜、二男・孫四郎竜元、三男・喜平次竜之の3人兄弟がいた。総じて人の上に立つ者は、たいてい心がゆったりとしていて、穏やかなものである。(兄弟で言えば、長男がそういう性格に育つものである。)斎藤山城守道三は、「智慧の鏡」が曇り、長男・斎藤義竜は「耄(ほ)れ者」(愚か者)だと思い、2人の弟を「小賢しい利口の者」と愛して、三男・斎藤竜之を「一色右兵衛大輔」にするなど、安々と官位を与えた。これにより、弟たちは「兄に勝った」と図に乗って奢り、ども勝ちに乗つて著り、兄・斎藤義竜を疎んじた。
⑦兄・斎藤義龍は、(弟たちが兄を疎んじるという)世間体を無念に思い、天文24年10月13日から仮病を使って奥に引き篭もって寝ていた。こうして、父・3人兄弟の4人は、共に稲葉山城に住んでいた。
⑧弘治元年11月22日(天文24年10月23日に「弘治」に改元)、斎藤山城守道三は、(2人の弟を山頂の稲葉山城に残して)稲葉山の山麓の屋敷に移った。これをきっかけに、斎藤義竜は、叔父・長井道利と、ある事を強行することにした。長井道利を使者として、2人の弟のもとへ遣わし、「重病になり、先は長くない。会って一言言っておきたい事があるので、お越しください」と伝えた。
⑩長井道利が言葉巧みに自分の意見を加えた(「御兄弟は此時に候間、御見舞可然」(兄弟であれば、こういう時は見舞うべきだ)と言った)ので、2人の弟は、「見舞うのは、弟としてもっともだ」と納得して、斎藤義竜の私宅へ行った。
⑪長井道利は、斎藤義竜がいる「奥の間」の手前の「次の間」に刀を置いた。これを見て、2人の弟たちも(「これが礼儀だ」と思い)、同じように「次の間」に刀を置いた。「奥の間」へ入ると、態(わざ)と「盃を」と言って、酒を振る舞い始めると、日根野備中守弘就(ひろなり)が、「大物切れ」と評判の「有動刀」(濃州関の兼常作)を持って抜き、上座に座ってい斎藤孫四郎竜元を切り臥せ、続けて、一色右兵大輔竜之を切り殺し、年来の「愁眉(しゅうび)を開き」(心配事(廃嫡されて3男に家督が譲られること)が取り除かれて、安心した顔つきになり)、山麓の屋敷にいる斎藤山城守道三に事の次第を報告すると、斎藤山城守道三は、この上なくびっくり仰天した。
⑪この時、斎藤山城守道三は、「まずは(出陣の合図である)法螺貝を吹け」と言って軍勢を寄せ集め、井ノ口を、四方の町外れから火を放って悉く焼き払い、稲葉山城を(防御のない)生(はだ)か城とすると、長良川を越え、山県郡という山間部(の大桑城)へ退いた。美濃国内に知行地を持つ武士たちは、皆、斉藤新九郎義竜の方へ馳せ集まり、斉藤山城守道三の方へ集まった軍勢は、次第、次第にその数が減っていった。
⑫翌・弘治2年(1556年)4月18日、斎藤山城守道三は、美濃国の稲葉山から3里(約12km)北西にある高山(標高180m)である鶴山へ登り、美濃国中を見下せる「鶴ヶ峰砦」(岐阜県岐阜市岩崎。「岩崎城」とも)を本陣とした。
⑬織田上総守(後に上総介)信長は、斎藤山城守道三の娘聟であるので、義父・斎藤山城守道三に呼応して、木曾川、飛騨川という大河を舟で渡り、大良(おおら、大浦。岐阜県羽島市正木町大浦新田)の戸島東蔵坊砦(大浦城。現在の金矮鶏神社(岐阜県羽島市正木町大浦新田))を本陣とした。ここに稀な事件が起きた。堀を掘っていると、孵化した銭亀(イシガメ)が屋敷内、掘り、垣根から出てきて、あちこち、銭を敷いたように見えたのである。
⑭弘治2年(1556年)4月20日の卯の刻(午前6時前後。『信長公記』では「辰の刻」(午前8時前後))、北西の斎藤山城守道三本陣・鶴山へ向けて斎藤新九郎義竜が軍隊を進めると、斎藤山城守道三も鶴山を下り、長良川の川岸まで軍隊を進めると、あちこちから奇声が上がった。
 一番合戦(緒戦、一番槍)では、竹腰重直隊約600人が丸くなって、「中の渡り」で長良川を越え、斎藤山城守道三の旗本へ切りかかると、斎藤山城守道三自ら参戦し、しばらく戦ったが、ものともせずに竹腰重直隊は敗れた。斎藤山城守道三は、竹腰重直を討ち取り、本陣の床几に腰かけ、母衣を揺すって満足していた。
 その時、二番合戦(二番槍)に斎藤新九郎義竜本隊が多人数でどっと長良川を越えて攻めてきて、斎藤山城守道三本隊と対峙した。
⑮この時、哀れなエピソードが生まれた。「一番合戦で勝って気を抜いている相手に、一番槍以上の数の二番槍を当てる」という作戦は、実に見事であったので、斎藤山城守道三は、敵(2人の子の仇)である斉藤新九郎義竜を次のように褒めたのである。「軍勢の使い方、軍勢の配置、軍勢の手配、全てが素晴らしい。さすが斎藤山城守道三の子である。美濃国の国主に相応しい人物である。我々は、斉藤新九郎義竜の評価を間違えていた」(わしが斉藤新九郎義竜を正しく評価していればこんな事態を招くことはなかったのに)。これを聞いた者は、皆、鎧の袖を涙で濡らした。
⑯さて、斉藤新九郎義竜軍から武者1騎が進み出た。これは、長屋甚右衛門という者である。これを見て、斎藤山城守道三軍からも柴田角内という者が、ただ1騎で進み出で、長屋甚右衛門と両陣営の中央で渡り合い、長屋甚右衛門を押し伏せて首をとった。柴田角内にとっては、晴れがましい手柄となった。
⑰その後、両軍がどっと進み出て戦闘を開始し、槍を交え、黒煙(土煙)がたって、鎬(しのぎ)を削り、鍔(つば)を割り、火花を散らして戦い、あちこちで敵の首をとった。
⑱そうしているうちに、長井忠左衛門尉(忠右衛門尉)道勝(長井長弘の子とも、長井道利の子とも)は、斎藤山城守道三と渡り合い、斎藤山城守道三が振り下ろした太刀を押し上げ、むんずと組み付き、斎藤山城守道三を生け捕りにしようと思っていた所へ、小真木源太(小牧源太道家)が走り寄り、(横槍を入れて)斎藤山城守道三の脛を薙ぎ払い、斎藤山城守道三の首を取ってしまった。長井道勝は、(「なぜ殺した。なぜ生け捕りにしないのだ」と激怒したが、)最初に組み付いた証拠として、斎藤山城守道三の鼻を削いで懐に収めて、その場を退いた。
⑲この「長良川の戦い」は、斎藤新九郎義竜の勝利に終わり、合戦後の首実検の所へ斎藤山城守道三の首が持ち込まれた。斎藤新九郎義竜は、「(父親殺しは)我が身から出た罪である」と言って出家した。そして「斎藤新九郎范可(はんか)」と名乗った。昔、唐土(中国)に、「范可」という者がいて、親の首を斬った。それには、父の首を斬る事が親孝行になる事情があったからである。しかし、今の斎藤新九郎義竜は、親の首を斬って、恥辱、親不孝となった。
⑳斎藤山城守道三は、名人(武芸の達人)だと言うが、慈悲の心が無く、五常(儒教で説く5つの徳目。仁・義・礼・智・信)に背き、人の道に背くことばかりしていたので、諸天のご加護を得られず、実子に故郷を追い出だされ、実子に鼻を削がれ、実子に首を斬られるという前代未聞の事となった。真に天道は、恐ろしい。

4.『信長公記』

①斎藤山城道三は、元来、山城国西岡の松波と云う者なり。一年下国候て、美濃国長井藤左衛門を憑み、扶持を請け、与力も付けられ候処、情無く、主の頸を切り、長井新九郎と名乗る。
②一族同名共野心を発し、取合ひ半の刻、土岐頼芸公、大桑に御在城候を、長井新九郎を憑み奉り候ところ、別状なく御荷担候。其の故を以て、存分に達し、
③其の後、土岐殿御子息・次郎殿、八郎殿とて、御兄弟これあるを、忝くも次郎殿を聟に取り申し、宥し奉り、毒害を仕り殺し奉り、其の娘を又、御席直しにをかせられ候へと、無理に進上申し候。
 主者稲葉山に居り申し、土岐八郎殿をば山下に置き申し、五、三日に一度づゝ参り、御縁に「御鷹野へ出御も無用。御馬などめし候事、是れ又、勿体なく候」と申しつめ、籠の如くに仕り候間、雨夜の紛れに忍び出で、御馬にて、尾州を心がけ御出で候ところ、追い懸け、御腹めさせ候。
 父・土岐頼藝公、大桑に御座候を、家老の者どもに属託をとらせ、大桑を追ひ出し候。それより土岐殿は尾州へ御出で候て、信長の父の織田弾正忠を憑みなされ候。
④爰にて何者の云為哉、落書に云ふ。主をきり聟をころすは身のおはりむかしはおさだいまは山しろと侍り、七まがり百曲に立て置き候らひし。恩を蒙り恩を知らず、樹鳥枝を枯らすに似なり。
⑤山城道三は、小科の輩をも牛裂にし、或ひは、釜を居え置き、其の女房や親兄弟に火をたかせ、人を煎殺し候事、冷まじき成敗なり。 
⑥山城子息、一男新九郎、二男孫四郎、三男喜平次、兄弟三人これあり。父子四人共に稲葉山に居城なり。
 惣別、人の総領たる者は、必ずしも心が緩々として、穏当なるものに候。道三は智慧の鏡も曇り、新九郎は「耄者」と計り心得て、弟二人を「利口の者哉」と崇敬して、三男喜平次を一色右兵衛大輔になし、居ながら、官を進められ、ケ様に候間、弟ども勝ちに乗つて奢り、蔑如に持ち扱ひ候。
⑦新九郎、外見、無念に存知、十月十三日より作病を構へ、奥へ引き入り、平臥候へき。
⑧霜月廿二日、山城道三、山下の私宅へ下られ候。爰にて、伯父の長井隼人正を使にて、弟二人のかたへ申し遣はす趣、「既に重病、時を期する事に候。対面候て一言申し度事候。入来候へかし」と申し送り候。
⑨長井隼人正巧みを廻し、異見申すところに、同心にて、則ち二人の弟ども、新九郎所へ罷り来るなり。
⑩長井隼人正、次の間に刀を置く。是れを見て、兄弟の者も同じ如く、次の間に刀ををく。奥の間へ入るなり。態と「盃を」と候て、振舞を出だし、日根野備中、名誉の物切のふと刀、作手棒兼常、抜き持ち、上座に候へつる孫四郎を切り臥せ、又、右兵大輔を切り殺し、年来の愁眉を開き、則ち、山下にこれある山城道三かたへ右の趣申し遣はすところ、仰天致し、肝を消すこと限り無し。
⑪爰にて螺を立て、人数を寄せ、四方町末より火をかけ、悉く放火し、井口を生か城になし、奈賀良の川を越え、山県と云ふ山中へ引き退く。
⑫明くる年四月十八日、鶴山へ取り上り、国中を見下し居陣なり。
⑬信長も道三聟にて候間、手合のため、木曾川、飛騨川、舟にて渡り、大河打ち越え、大良の戸島東蔵坊構へ至りて御在陣。銭亀、爰もかしこも、銭を布きたる如くなり。
⑭四月廿日辰の剋、戌亥へ向つて新九郎義龍人数を出だし候。道三も鶴山をおり下り、奈加良川端まで人数を出だされ候。一番合戦に竹腰道塵、六百計り真丸になつて、中の渡りを打ち越え、山城道三の幡元へ切りかゝり、散々に入りみだれ、相戦ふ。終に竹腰道塵、合戦に切り負け、山城道三、竹腰を討ちとり、床木に腰を懸け、ほろをゆすり満足候ところ、二番鑓に新九郎義龍、多人数焜と川を越え、互ひに人数立て備へ候。
(⑮相当部分欠)
⑯義龍備への中より武者一騎、長屋甚右衛門と云う者進み懸かる。又、山城人数の内より柴田角内と云ふ者、唯一騎進み出で、長屋に渡し合ひ、真中にて相戦ひ、勝負を決し、柴田角内、晴れがましき高名なり。
⑰双方よりかゝり合ひ、入り乱れ、火花をちらし、相戦ひ、しの木をけづり、鍔をわり、爰かしこにて思ひ思ひの働きあり。
⑱長井忠左衛門、道三に渡し合ひ、打太刀を推し上げ、むすと懐き付き、山城を生捕に仕らんと云ふ所へ、あら武者の小真木源太走り来なり、山城が脛を薙ぎ臥せ、頸をとる。忠左衛門者、後の証拠の為にとて、山城が鼻をそひで、退きにけり。
⑲合戦に打ち勝ちて、頸実検の所へ、道三が頸持ち来たる。此の時、身より出だせる罪なりと、得道をこそしなりけり。是れより後、新九郎はんかと名乗る。古事あり。昔、唐に、はんかと云ふ者、親の頸を切る。夫者、父の頸を切りて孝なすとなり。今の新九郎義龍は不孝重罪、恥辱となるなり。
(⑳相当部分欠)

なぜ『信長公記』には、段落⑮「斉藤道三の斉藤義竜の再評価」と段落⑳「斉藤道三の人物評」が欠落しているのでしょうか?
『信長公記』では、基本的には、織田信長の義父・斎藤道三をいい人に、その義父を討った斉藤義竜を悪い人に描きたいのでしょうね。

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