見出し画像

唐書に見る倭国と日本国

倭國者倭奴國也。(中略)日本國者倭國之別種也。以其國在日邉、故以日本爲名。或曰、倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云、日本舊小國、併倭國之地。

(倭国は倭奴国也。(中略)日本国は倭国の別種也。其の国、日辺に在るを以て、故に以って日本と名づく。或る曰く、「倭国、自ら惡其の名、雅やかならず、悪しとして、日本と改む」と。或る云ふ、「日本、旧小国。倭國の地を併わす」と。)

「倭国とは、「倭の奴国」のことである。(中略)日本国は、倭国とは別の国である。その国は、日が昇る辺りに位置するので「日本」を国号とした。または、倭国は、自ら「倭」という漢字の意味が雅やかではなく、悪いとして、「日本」と改称した。または、元々小国だった日本国が倭国を併合した。」

『旧唐書』東夷倭国伝
https://dl.ndl.go.jp/pid/1917791/1/72

日本、古倭奴也。(中略)咸亨元年、遣使賀平高麗。後稍習夏音、惡倭名、更號日本。使者自言、「國近日所出、以爲名」。或云、「日本乃小國、爲倭所并、故冒其號」。使者不以情、故疑焉。

(日本、古への倭奴也。(中略)咸亨元年、使を遣(つか)はし、高麗を平らぐるを賀す。後ち稍(ようや)く夏音を習い、倭の名を惡(にく)み,更(あらため)て日本と号(なづ)く。使者、自ら言(もう)すに「国、日の出ずる所に近く、以て名と為す」と。或いは云ふ。「日本は乃ち小国にして、倭の并す所と為すが。故に其の号を冒せり」と。使者。情を以ってせざるが故に疑へり。)

「日本とは、昔の「倭の奴」のことである。(中略)咸亨元年(670年)に、使者を派遣して高麗を平定したことを祝賀してくれた。後に徐々に中国語を学んで、「倭」という漢字の意味を知り、この国号を嫌い、国号を改めて「日本」と名乗った。使者自ら言うには、「国土が日の出る所に近いので、それで国名とした。また一説に、日本は元々小国で、倭と併合したために、その国号を冒したとも」と。使者は正確な情報を知っていて伝えていないようなので、このことは疑わしい。」

『新唐書』東夷伝
https://dl.ndl.go.jp/pid/1917791/1/83

 「倭国」とは、朝鮮半島南部~北九州にかけての約30ヶ国の連合国家で、大統領は邪馬台国の卑弥呼女王だったが、どうも奴国が統一して、「倭国」を名乗ったが、唐代には「日本国」と名乗っていたという。この「倭国」と「日本国」の関係であるが、

『旧唐書』:元小国「日本」と大国「倭」(旧・倭奴国)が存在。
・説①:倭国が日本国と改号した。
・説②:倭国が日本国を併合して「日本」と名乗った。

『新唐書』:元小国「日本」(旧・倭奴国)と大国「倭」が存在。
・説①:倭国が日本国と改号した。
・説②:日本国が倭国を併合して「日本」と名乗った。

と、『旧唐書』と『新唐書』では異なるが、
説①日本国とは、倭国のこと
説②日本国とは、日本国と倭国が合併した国のこと
の2説があるという。

学者の解釈は、日本国は、咸亨元年(670年)に遣唐使を送り、
①日本国とは天智天皇(671年12月3日崩御)の大津宮のことで、「白村江の戦い(663年)で唐と戦った大国・倭国は、小国・日本国が滅ぼした。日本国は唐の味方である」と主張した。
②小国・日本国が大国・倭国に勝てたのは、倭国の力が「白村江の戦い」で唐と戦って衰えたからであり、唐に感謝した。
であり、「天智天皇は、唐の侵攻を避けようと、唐と戦った倭国と日本国は別の国で、しかも倭国は日本国が滅ぼしたと示した」とする(が、遣唐使の説明があやふやなので信じてもらえなかった。とはいえ、唐が侵攻してこなかったので、日本国は滅亡を免れた)。

この「倭国」と「日本国」であるが、
①「白村江の戦い」後に九州王朝と大和政権が合体したとする説(古田説)
②小国「日本」とは茨城県の「日高見国」だとする説(邪馬台国茨城県説)
もある。



記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。