見出し画像

歴史探偵「武士の都・鎌倉」


■歴史探偵「武士の都・鎌倉」

「鎌倉殿の13人」の舞台、鎌倉。武士の都、誕生の秘密を徹底調査。町への侵入ルートに設けられた恐るべきワナとは!?鎌倉を知れば、大河ドラマが何倍も面白くなる!
https://www.nhk.jp/p/rekishi-tantei/ts/VR22V15XWL/episode/te/347N8VG65P/

「歴史探偵」という番組は大嫌いなのでまず見ない。
たぶん、この番組の制作者は、歴史が大嫌いなのだろう。
(実際は大好きなのかもしれないが、番組の構成がNHKとは思えない低いレベルで、この番組を見ていると「受信料返せ!」と叫びたくなる。)

鎌倉に幕府が置かれた理由


①先祖ゆかりの地であるから
②天然の要害だから

1.先祖ゆかりの地


鶴岡八幡宮

康平6年(1063年)8月、河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が、「前九年の役」での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(鎌倉市材木座1丁目)に鶴岡若宮(元八幡、由比若宮)として勧請したのが始まりである。
 永保元年(1081年)2月には河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復を加えた。
 源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、源義家が勧請した経緯もあり、武家の崇敬を集めた。

★鶴岡八幡宮
https://www.hachimangu.or.jp/

2.天然の要害


 通説は「鎌倉は三方が山で、一方が海という天然の要害だから幕府を置いた」ですが、「鎌倉の守りは固くない」と主張する学者がおられます。なぜなら、新田義貞(「鎌倉攻め」)にしても、北条時行(「中先代の乱」)にしても、数ヶ月の兵糧攻めではなく、数日間の攻撃で鎌倉を落としているからです。

 番組では通説を証明するために、まずは「切通しの防御能力」の検証(コンピュータでのシミュレーション)をしました。
①切通しの上から弓で攻撃する。弓で応戦しながら切通しを通る。
②切通しの上から弓で攻撃する。弓で応戦しながら切通しを通るグループと切通しの左右の崖に登って射手を攻撃するの3グループに分けて切通しを通る。
どちらのケースでも切通しを通れなかった。全部で200種類のシミュレーションをしたが、どれも切通しを通れず、「切通しの防御能力が非常に高いことが分かった」ので、学会(実験考古学?)で発表するそうです。私が知りたいのは、切通しの上から弓で攻撃した鎌倉軍の兵士が持っていた弓矢の本数です。普通は24本。使い切ったら投石くらいでしか攻撃できません。
 また、200種類のシミュレーションの内容は知りませんが、私なら「弓で応戦しながら切通しを通る」ではなく「2人1組で盾で弓矢を防ぎながら通る」(応戦しないでやり過ごす。決戦の地はここではなく、鎌倉)ですし、「切通しの左右の崖に登って射手を攻撃する」ではなく「火矢を放って射手を山火事で攻める」(道には燃える物がないが、山にはある)という作戦にします。

 次に番組では『太平記』の「新田義貞が黄金の太刀を海に投じて、竜神に祈ると、海が開けて道が出来、歩いて由比ヶ浜に達した」という伝説を信じ、
・前提:当日は非常に強い北西風が吹いていた。文献に北西の切通しで放った火で、鎌倉が火の海になったとある。
・理論:エクマン輸送。強風により、海岸線が後退し、道が開けた。
という検証実験をしていますが、伝説を信じるとは・・・受信料の無駄使いかと。
 史実は・・・新田義貞は、鎌倉の北西の化粧坂切通から鎌倉を攻めていたが、海岸付近の極楽寺坂切通の苦戦を聞くと、化粧坂切通を脇屋義助に任せて、極楽寺坂切通に移った。北西の切通しで放った火で、鎌倉が火の海になった時点で新田義貞の勝ちです。新田義貞は極楽寺坂切通を通って由比ヶ浜に達しました。

ここから先は

2,192字

¥ 500

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。