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謎だらけの西郷局

西郷局については、書いたことがある。

書いてみて思ったことは「謎だらけ」ということである。

天文21年(1552年) 誕生?(1歳/-8歳)
天文23年(1554年) 実父・戸塚忠春討死(3/-6歳)
永禄  4年(1561年) 誕生?(10歳/1歳)
永禄  9年(1566年)? 西郷義勝と結婚(15/6歳)
元亀  2年(1571年)3月  4日 西郷義勝、討死(20/11歳)
天正  6年(1578年)3月 徳川家康と再婚(27/18歳)
天正  7年(1579年)4月  7日 徳川秀忠を生む。(28/19歳)
天正  8年(1580年)9月10日 松平忠吉を生む。(29/20歳)
天正17年(1589年)5月19日 急逝(38/29歳)

①父母
実父

・戸塚五郎大夫忠春:『於国文書』
・戸塚作右衛門忠之(戸塚五郎大夫忠春の孫)
・服部平太夫正尚(養父とされるが実は実父)
・服部平太夫正尚の父(於愛は服部平太夫正尚の妹)
・秋山十郎:『武家事紀』(上巻の徳川系図。下山殿との混同か?)
※服部平太夫正尚は徳川方の忍者で、秋山十郎兵衛は武田方の忍者。
https://dl.ndl.go.jp/pid/946584/1/336
・「(西郷局は)三河の内、小川という在所の御人」(『石川正西聞見集』)。小川城主は石川春重。天正3年(1575年)の「大岡弥四郎事件」の連座、もしくは、天正7年(1579年)の「信康事件」の連座で切腹。
養父
○母の再婚相手
・服部平太夫正尚
○家格を上げて徳川家康の側室になるため
・西郷正勝の養女
・西郷清貞(西郷正勝の子)の養女
・西郷家員(西郷清貞の子)の養女

実母
・西郷正勝の娘・於貞:通説
・石原百度右衛門女房の下女:「石谷叟行状」
・稲葉の一類:『古老茶話』

②生年:天文21年説と永禄4年説があるが、永禄4年説では、天文23年に実父・戸塚忠春が討死した7年後に生まれたことになる。
→可能性①:実父・戸塚忠春が亡くなったのは永禄4年以後
(戸塚忠春の姪・於国の「先祖覚」には、西郷局の結婚時に生存とある。)→可能性②:実父は戸塚五郎太夫忠春ではない。
(実父は遠江国佐野郡上西郷の富豪・冨塚五郎大夫か?)

③初婚:元亀2年に前夫・西郷義勝が討死している。この時、1男1女、もしくは2男1女を儲けている。元亀2年は永禄4年誕生説では11歳(満10歳)であり、2人、もしくは3人の子は、今でいう小学生が生んだことになる。
→西郷義勝の子は、後室・於愛の子ではなく、前室・諏訪部定久の娘の子ではないか?

④再婚:夫が死んだというのに出家せず、天正6年、徳川家康と再婚した。実父が戸塚忠春、養父(母の再婚相手)が服部正尚では、「身分が低くて不釣合い」と考えたのであろうか、西郷清員の養女となり、結婚後は「西郷局」と名乗った。
『どうする家康』では、鳥居元忠が、於愛のことを「夫が討ち死にして以来、浜松の城で働きながら娘を育てております。西郷の家の出で、身元も確か」と築山殿に紹介していた。正しくは「夫が討ち死にして以来、浜松の城で西郡局様の侍女として働く母・於貞の再婚相手の服部正尚の家で、娘(後の西川城主・西郷家員の正室)を育てております。父は戸塚氏、母は西郷の家の出で、身元も確か」かな?

⑤急逝:天正17年(1589年)5月19日、駿府で死去した。法名は「竜泉院殿」、後に「宝台院殿」。築山殿の侍女による毒殺という。
→築山殿の侍女たちは皆、築山殿が亡くなった時に殉死(佐鳴湖に入水自殺)したはずである。

下の動画では、将軍の生母なので話を盛っているとする。

 徳川家康は、於愛の目が悪いので、盲(めくら)と静岡県掛川市の西郷を流れる倉真川(くらみがわ)とをかけて「昧見姫(くらみひめ)」と呼んでいたというから、静岡県掛川市出身なのは間違いないと思う。ちなみに於愛役の広瀬アリスさんは、静岡県静岡市清水区出身である。



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