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徳川家康の側室・西郷局

1.通説

 徳川家康の三男・秀忠の母を於愛(「於相」とも表記。初名は「丁子」)の方という。倉真(くらみ)川沿いの静岡県掛川市上西郷の生まれで、東三河西郷氏の西郷清員の養女となって、西郷局(さいごうのつぼね)と名乗った。
 徳川家康の長男・信康は自害し、次男・秀康は豊臣秀吉の養子となったので、三男・秀忠が徳川家康の跡を継いで、第2代将軍となった。於愛の方は、この将軍・秀忠の母である。

 西郷を流れる倉真川を水石を探しながら遡ると、の温泉で有名な倉真である。そんなことから、極度の近眼であった於愛の方を徳川家康は、「昧見姫(くらみひめ)」と呼んで可愛がっていたという。

★「倉真(くらみ)」「逆川」の語源

そもそも、くじら山は、日坂駅のほとり南にありて宮村といふ。人皇三十七代孝徳帝の御宇とかや、嫁石権現となんいへる宮有り、御姫宮おはしましき。或時、権現、八幡宮を囲碁に誘ひ給ふとき、竜宮より、雄くじら、雌くじらをして、彼の姫宮を押て貰はんことをいいおくられけり。その時、権現、姫をいとおしみ給ふて、北の方なる大沢といへる処に姫を置かせられぬ。されば、七日がほど暗夜のごとくなりしとなん。八幡宮、碁石をもって、彼の鯨をうち殺し給ふ。そこをくらみ村といふ。是こそ鯨五百間にあまりしと一念こりて死て巌石となり、今、連理の山これなり。うち付け給う石、頂に残りて今もまま見あたりぬ。

『雄鯨山由来記』

むかし、此神の姫を、龍宮へ迎へんと願ひしかども、神ゆるし給はず、龍紳これを恨んで、塩井川へ潮を出し、雌雄の鯨、浮み出で、姫を奪び取んとす。折節、此御神、碁盤を投げかけ、雌雄鯨を滅し給ふ。忽ち、その鯨二つの山と成って今にあり。碁石の出るを雄くじら山といひ、姫を投隠し給ふ所を、今に暗闇(くらやみ)村といふ。

『東海道名所図絵』
https://dl.ndl.go.jp/pid/765195/1/7

《東三河西郷氏》

                  徳川①家康
                     戸塚忠春  ‖─徳川②秀忠
                 ‖─丁子(於愛子、於相子、西郷局)         
西郷信員(正守)─種員(正勝)─於さい(於さだ)
                 ‖ 
                                                  服部正尚(蓑笠之助)

 於愛(西郷局)の母・於さいは、西郷(静岡県掛川市上西郷)に住む夫・戸塚忠春を亡くし、服部正尚(蓑笠之助)と再婚し、於愛(西郷局)と共に西郷(一説に掛塚の鋸店)に住んでいた。そして、於愛(西郷局)は、伯父(母の兄)・西郷清員の養女となって、徳川家康と再婚(前夫は討死した西郷義勝)し、徳川2代将軍秀忠を生んだ。
 「西郷局」の「西郷」は、「東三河西郷氏の出身」の意とも、「掛川市西郷地区出身」の意ともいう。

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