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兼岩市太郎編『掛川誌』(3号)「西郷斎宮故宅」(明治28)

 『以貴小伝』云。

「於愛の方は、西郷局と云、戸塚五郎大夫忠春が女なり。忠春、西郷弾正左衛門正勝が女に添ひて局を儲けたり。天文23年、忠春、遠江国大森の軍(いくさ)に討たれければ、内室は再び服部平大夫正尚に嫁し、於愛殿も継父正尚のもとに在りしを、外祖弾正左衛門正勝が孫右京進義勝にめあはせて、女(むすめ)1人、おのこ1人を産み給ふ。元亀2年の春、右京進義勝、甲斐の武田が手の者と戦ひて討たれければ、於愛殿、継父のもとに帰りておはせしを、外舅なりし西郷左衛門佐清員、をのが娘にして、天正6年の春、東照宮に参らせしかば、西郷局と召されて、明くる7年の4月7日、第3の御子長丸君(則ち台徳院御所の御事也)を産みまいらせ、次の年9月20日に、又、第4の御子薩摩守殿を儲け、初め義勝がもとにて儲けをれし女は、清員の子西郷新太郎宗円に嫁し、男子は西郷孫兵衛勝忠と名乗り、後に紀伊頼宜公に仕ふ。天正17年の5月19日、局、失せ給ふ。御年38歳にておはせしとて、駿府の龍泉寺に送りて御葬あり、宝台院殿と申せしなり。
 台徳院御所の御時、寛永5年の7月、従一位を贈らせ給ひ、勅使、駿府に下向せらる。此の時、勅号を賜り、龍泉寺を改めて宝台院と云。住持にも紫衣を聽されたり。御弔ひ料として、300石の地を寄せらる。
 西郷左衛門清員、さる剛の者なりしかば、家起こして所領の地、あまた賜る(1万石)。子孫、相伝へて、元禄の御時に至り、御気色に違ふこと有りて、所領、半ばを削られたり。
 御父戸塚五郎大夫忠春が子、四郎左衛門忠家は、局の異母の御兄なり。初め今川家に随ひ、後に御家人になりて、薩摩守殿に仕ふ。武蔵国忍の城代となりて、文禄年に身まかれり。
 其の次の御兄は、仏門に入りて心翁と云。牛込護本山天龍寺を再興して寺主となり、父の忠春が墳墓をも遠江国瀧谷法泉寺よりうつせしとぞ。
 四郎左衛門忠家が子孫、今に御家人たり。」天龍寺、今は四谷追分にあり。天和3年、今の地に移ると云。

 此の書は近頃の物なれども、甚だ精撰也。此の外、もとより西郷局の御事を記せる書、多し。詳略ありといへども、大概、異なることなし。仰、西郷局の御事は、知る者多しといへども西郷村土人の説に依て、或いは、人の惑ひて生じことを恐る。故に切に是を詳らかにす。
 服部平太夫は、伊賀の人にて、東照宮に仕へ、蓑笠之助と云ひし人也。又、戸塚五郎大夫忠春は、三州の西郷弾正左衛門正勝の女を妻とす。百姓にてはあらず、今も戸塚と云ふ所あり。其の住せし所なり。又、按ずるに、戸塚氏、此の西郷に住して三州の西郷氏を娶ることは因縁あることにや。『武徳編年集成』に永禄5年7月22日、浜名郡宇津山城主、朝比奈紀伊守泰長、三州賀茂郡西江(或いは西郷)の中山五本松の城主、西郷弾正正勝入道、同孫九郎元正父子を討ち取り、正勝が庶子孫九郎清員(或いは清円)は虜と成りしが、捕手の者の手を挽き放ちて、万丈の渓に飛び落ち、幸ひにして死を逃る。此の事、上聴に違せしかば、清員に父が旧領を賜り、西郷の古与宇(ごよう)と云ふ所に砦(山注:五葉城)を築きて居住すとあれば(三州の西郷氏、国初以前、遠州の西郷に来たり住せしことは無き也)、西郷局は、西郷の戸塚に住せし戸塚五郎大夫忠春の女なれば、戸塚の家にて生まれ給へること、論無し。然に或いは、此の西郷村に住せし西郷氏の女なる由云ひ、又、美人が谷(或いは、ビンゼが谷)と云ふ所あるは、「局の生まれ給へる村なる故に此の名あり」などと云はるは付会のこと也。土人の説には此の類のこと多し。見ん人、惑ふこと無かれ。
 又、西郷の構村(山注:現在の構江)に西郷斎宮の神を祀ると云ふ祠あり。又、其の子孫ならんと見ゆるともあれど、西郷局の生まれ給へる家にてはあらず。然れども、斎宮の神に祀ると云。又、図書屋敷など云ふ所あれば、久しく西郷に住して、村名を以て氏とせし人なり。
 今川氏真の時、此の西郷に住せし人なるべし。

以上、本来、人に見せる記事にはあらず。自分の為の覚へ書き也。

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