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尹良親王とユキヨシ様

1.尹良親王


 尹良(ゆきよし/これなが/ただなが)親王は、後醍醐天皇の皇子・宗良親王と井伊道政の娘・井伊重子(駿河三浦氏の娘なので、通称は「駿河姫」)の子とされる(母親については、知久敦貞の女とも(『南山巡狩録』)、香坂高宗の妹・紀伊后とも(大鹿村の伝承))。

 後醍醐天皇
   ├───宗良親王(信濃宮、大草宮、幸坂宮、尊澄法親王)
  二条為子   ├┬桜子姫【井嶋氏の祖】
         │ └尹良親王 (源尹良)
         │     ├──────────────┬良王【大橋氏の祖】
 井伊道政    │ 琴姫(世良田政義の娘)  ├良新 【氷室氏の祖】
   ├─井伊重子(駿河姫)        └崎之宮(夭逝)
  三浦宗久の娘【駿河三浦氏】

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 尹良親王は、井伊谷の井伊谷城の本丸(井伊氏居館)で生まれた。第二次世界大戦までは「尹良親王御胞衣塚」があったが、敗戦で天皇家の権威が薄れたのか、戦後間も無く消滅したという。
 上野国群馬郡桃井郷(群馬県北群馬郡榛東村)に住んでいたが、父・宗良親王が宮将軍を尹良親王に譲って政治活動から引退し、文中3年(1374年)に吉野に戻り、元中2年(1385年)8月10日に崩御されると、翌元中3年(1386年)8月8日、尹良親王は源姓を賜って「源尹良」と名乗り、正二位権中納言、左近衛大将、征夷大将軍を兼ねた。
 元中9年(1392年)閏10月5日の「南北朝合一」後も吉野に隠れ、「後南朝」(南北朝合一後に、南朝の再建を図った南朝の皇子や南朝遺臣による南朝復興運動)が始まって、戦乱の世は続いた。
 応永31年(1424年)8月15日、三河国足助へ向かおうとし、信濃国諏訪を発して浪合(長野県下伊那郡阿智村浪合)にさしかかった時、「浪合合戦」となり、最期を悟った尹良親王は、子・良王と辞世を従臣に託した後、大河原の民家に入って自害した。墓(首塚)は、浪合神社(長野県下伊那郡阿智村浪合宮の原)の塚(円墳)だという。(「宮の原」とは、『浪合記』に「宮の御腹なされし処とて、世話の宮の原と云ふなり」とある。)

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