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2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(第39回)「穏やかな一日」

 未だに源実朝(柿澤勇人)と坊門千世(加藤小夏)との間に世継ぎの誕生がなく、実母・北条政子(小池栄子)と乳母・北条実衣(宮澤エマ)は、気にかける。その源実朝は、同性愛者であると、北条泰時(坂口健太郎)に和歌でカミングアウトするが、北条泰時は和歌の意味を読み取れない。
 そんな中、源実朝が疱瘡になって病床についたのをいいことに、執権・北条義時(小栗旬)は、政(まつりごと)を進めるが、その傲慢なやり方に、源実朝は諦め、三浦一族の三浦義村(山本耕史)と和田義盛(横田栄司)は不満を募らせる。

「学んで損しちゃった」(北条政子)

 源実朝が疱瘡で死んだら善哉が継ぎ、北条政子が補佐するつもりであったろう。北条政子は政治を学んだ。人生に無駄はない。後に尼将軍となり、例の名演説に繋がる。

※ナレーションの長澤まさみさん登場!
「承元二年(1208年)から建暦元年(1211年)、様々な出来事を一日に凝縮してお送りいたします」

建永元年(1206年)10月20日 北条政子、善哉を、源実朝の猶子にする。
         10月25日 「承元」に改元。
承元  2年(1208年) 2月  3日  源実朝、疱瘡により鶴岡八幡宮参拝中止。
承元  3年(1209年) 5月12日  和田義盛、上総国の国司職を内々に望む。
           5月23日  和田義盛、上総国の国司職を正式に望む。
         11月  4日  切的実施。
         11月  7日  切的で負けた人が費用負担の宴会実施。
         11月14日  北条義時、有能な家人を准御家人にと望む。
         11月20日  守護の任期付輪番制の検討開始。
         11月27日  和田義盛の上総国の国司職の件、審議保留。
承元  4年(1210年) 7月  8日  善哉の母・辻殿、出家。
           7月17日  朝廷、藤原秀康を上総国の国司に任命。
承元  5年(1211年) 2月22日  源実朝、3年ぶりに外出。
           3月  9日 「建暦」に改元。
                                   9月15日  善哉、出家。法名は公暁。
建暦元年(1211年)12月20日  和田義盛の上総国の国司職の件、取下げ。

1.源実朝と疱瘡

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源実朝の肖像画で、頬が茶色いのは痘痕かな。

・「疱瘡罹患3題 」
https://note.com/sz2020/n/nb9d57d499efa
・「源実朝の疱瘡罹患 」
https://note.com/sz2020/n/n396c2f69aa09

2.備後国大田荘


・「荘園に関する2題 」
https://note.com/sz2020/n/n05cc1e60b592

3.源実朝と和歌

■公式解説「源実朝と和歌」
建仁3年(1203)9月に鎌倉殿・征夷大将軍となった源実朝。『吾妻鏡』によると、実朝は元久2年(1205)4月12日に12首の和歌を詠み、同年9月2日には後鳥羽上皇の親撰ともいえる『新古今和歌集』を京から取り寄せたと記されています。
古代・中世の人々にとって、政治と文化は切り離すことのできない関係でした。後鳥羽上皇の第3皇子である順徳天皇が著した故実書『禁秘抄』には、天皇が収めるべき芸能・教養として、第一に学問(漢籍による政道追究)、第二に音楽、第三に和歌と挙げられています。当時は楽器を奏でる音と和歌を詠み上げる声により神仏と交感することで、天下泰平・国土安穏を実現することができると考えられていたため、為政者である貴族たちは音楽と和歌の習得に励んでいました。
実朝が和歌を詠み始めたのは、朝廷と渡り合わなければならない幕府のトップ・鎌倉殿として、必要不可欠なことでした。
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/story/39.html

13歳:元久元年(1204年) 12月10日 坊門氏の娘、鎌倉着。和歌に興味。
14歳:元久  2年(1205年)   4月12日 歌始め。初めて12首の和歌を詠む。
                 9月 2日 『新古今和歌集』を得る。
18歳:承元  3年(1209年)   8月13日 藤原定家より『詠歌口伝』授かる。
22歳:建暦  3年(1213年)5月2&3日 「和田合戦」
                 11月23日 藤原定家より『万葉集』授かる。
                 12月18日 『金槐和歌集』(建暦本)成立。
28歳:建保  7年(1219年)   1月27日 源実朝、暗殺さる。
死後:貞享  4年(1687年)  『金槐和歌集』(貞享本)版行。
死後:昭和  4年(1929年) 佐々木信綱、『金槐和歌集』(建暦本)発見。

 源実朝の死後、他撰『金槐和歌集』(719首掲載)が刊行された。中には少数の「万葉調」(ますらおぶり)の秀作と多数の「古今調」(たおやめぶり)の凡作が掲載されている。賀茂馬渕が「万葉調」の歌を絶賛して以来、源実朝は「万葉ぶりの歌人」とされ、研究者は、
①先に『新古今和歌集』を得て、後に藤原定家から『万葉集』を授かった。
②「古今調」の歌は凡作で、「万葉調」の歌は秀作である。
ということから、「最初は『新古今和歌集』を読んで「古今調」の凡作を詠んでいたが、後に藤原定家より『万葉集』を授かって以降、「万葉調」の秀作を詠むようになった」と考えていた。
 ところが、昭和4年、藤原定家より『万葉集』を授かった翌月に書かれた自撰『金槐和歌集』(663首掲載)が見つかり、そこには「万葉調」の秀作が載っており、死後に加えられた719-663=56首の歌は「古今調」の凡作であることがわかった。このため、現在の研究者は、源実朝を「最初は「万葉調」の秀作を詠んでいたが、後には公家が好みそうな「古今調」の凡作を詠んだ早熟、早老の天才歌人」と評する。とはいえ、「万葉調」「古今調」は研究者の区分であり、私は、「源実朝は、「万葉調」「古今調」を意識することなく、最初は歌人として自由に詠んでいたが、後に政治家として朝廷に接近するために、公家好みの技巧的な歌を詠むようになった」と理解している。

今朝みれば山もかすみて久方の天の原より春は来にけり
宮柱ふとしきたてて万代に今ぞ栄えむ鎌倉の里
山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも
世の中はつねにもがもな渚こぐ海士の小舟の綱手かなしも

孤独・・・
我庵は吉野のおくの冬ごもり雪ふり積みて訪ふ人もなし
とか。

・「歌人・源実朝 」
https://note.com/sz2020/n/n26ef7f72b123
・『金槐和歌集』
https://note.com/sz2020/n/n12a2717aeb44
・小林秀雄『実朝』
https://note.com/sz2020/n/n6bc2fcd44709

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※片思いを打ち明けた歌
※この歌は、『金槐和歌集』 の恋部に収録されており、詞書は「初恋の心を 」である。
 
春がすみ 竜田の山の 桜花 覚束無きを 知る人の無き
(竜田山(京都府と大阪府に境の竜田川流域の山々の総称)の桜の花を、立ち込める春霞のために、鮮明に見えないのがもどかしい。私(男)の恋も、思い人(男)に知られぬままで、私はもどかしい恋心を持て余している。)

「これは恋する気持ちを詠んだもの。春の霞のせいで、はっきりと姿を見せない桜の花のように、病でやつれた己を見られたくない。されど、恋しいあなたに会いたい。切なきは恋心」(源仲章訳)

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※片思いを打ち明けた結果、ふられた歌

大海の 磯もとどろに 寄する波 われて砕けて 裂けて散るかも
(大海の磯に轟くように寄せる波が、割れて砕けて裂けて散っているように、私の恋(同性愛)のカミングアウトも、相手に伝わらず、当たって砕けてしまったことよ。)

──青年期は疾風怒涛(Sturm und Drang)の時代

「これが、ある日悶々として波に見入っていた時の彼の心の嵐の形でないならば、ただの洒落に過ぎまい。そういう彼を荒磯に置き去りにして、この歌の本歌やら類歌やらを求めるのは、心ないわざと思われる」(小林秀雄『実朝』)

4.和田義盛の上総介挙任問題


三浦義継┬三浦義明┬杉本義宗──┬和田義盛┬長男・和田常盛
    │     │      ├和田義茂├次男・和田義氏
    │     │      ├和田義胤├三男・朝夷奈義秀
    │     │      │    ├四男・和田義直
    │     │      │    ├五男・和田義重
    │     │      │    ├六男・和田義信
    │     │      │    ├七男・和田秀盛
    │     │      │    └八男・杉浦義国
    │     │      ├和田義長─和田胤長
    │     │      └和田宗実─藤原秀宗───藤原秀康
    └岡崎義実├三浦義澄──┬三浦義村(山本耕史)─三浦泰村
           ├大多和義久 └三浦胤義(岸田タツヤ)
           ├多々良義春 ─多々良重春
           ├長井義季
           ├杜戸(森戸)重行
           └佐原義連  ──佐原景連

■太宰治『右大臣実朝』
例の和田左衛門尉さまの国司所望の件も、その後、左衛門尉さまがこんどは堂々と陳情書を奉り、重ねて国司懇望の事、和田家の治承以来の数々の勲功をみづから列挙なされて、後生の念願ただこの国司の一事のみ云々とその書面にしたためられてゐましたさうでございまして、将軍家はその綿々たる陳情書をつくづくと御覧になり、前にその事に就いては尼御台さまから故右大将家の御先例などを承つて居られたにもかかはらず、和田左衛門尉さまをお召しになり、
ヨロシクトリハカラヒマス。シバラク待ツガヨイ。
 と事も無げにおつしやいました。左衛門尉義盛さまは老いの眼に涙を浮べておよろこびになつて居られました

 承元3年(1209年)5月12日、和田義盛は、上総国の国司職を内々に望んだ。源実朝は国司に推薦しようとし、北条政子に相談したが、北条政子は、「源頼朝は、受領は門葉(源氏一族)にみで、御家人が受領することは停止した。あなたはその先例を無視するのですか? 将軍であるあなたが新しい定めを作ろうと言うのであれば、女の私には口出しできません」と答えた。実際には、北条一族(平氏)の北条義時は相模守、北条時房は武蔵守であったから、和田義盛は、三浦一族(平氏)からも国司を出したいと思い、三浦長者として、三浦義村に先んじて、源実朝に内々に申し込んだのであろう。(ただ、源実朝は守護の任名権を持つが、国司の任命権は朝廷になり、源実朝は推薦するだけである。また、上総国は親王任国で、上総守(国司の長官)は太主と決まっているので、次官の上総介になる。)
 和田義盛は、同年5月23日、正式に款状(かじょう。嘆願書)を大江広元を通して提出し、治承4年(1180年)の源頼朝の挙兵以来の勲功を述べ、「一生の余執(よしゅう)はただこの一事たり」(この世での心残りは上総介になっていないこと)だとして上総国の国司職を望んだ。その結果、11月27日に「審議保留」にされたので喜んだが、審議中の翌・承元4年(1210年)7月17日、朝廷は藤原秀康(和田義盛の弟・和田宗実の孫?)を上総国の国司に任命してしまい、2年後の承元5年(1211年)12月20日、和田義盛は要望を取り下げた。

■『吾妻鏡』「承元3年(1209年)5月12日」条
 承元三年五月大十二日甲辰。和田左衛門尉義盛、「可被擧任上総國司」之由、内々望申之。將軍家、被申合尼御臺所御方之處、「故・將軍御時、於侍受領者可停止之由、其沙汰訖。仍、如此類、不被聽。被始例之條、不足女性口入」之旨、有御返事之間、不能左右云々。

(承元3年(1209年)5月12日。和田義盛は、「上総国の国司に(朝廷に)推薦して欲しい」と(源実朝に)内々に頼んだ。源実朝は、尼御台所(北条政子)に相談してみたところ、「故・源頼朝の時、侍(御家人)の受領は禁止と決められた。なので、このような事は許されない。新たな先例を作るというのであれば、女の私が口を出す事ではない」と返事したので、途方にくれたという。)
■『吾妻鏡』「承元3年(1209年)5月23日」条
承元三年五月大廿三日乙夘。左衛門尉義盛上総、國司所望事、以前者内々望也。今日已付款状於大官令。始載治承以後、度々勳功事。後述懷「所詮一生餘執、只爲此一事」之由云々。

(承元3年(1209年)5月23日。和田義盛が、上総の国司職(上総介)を欲しいと以前から内々に望んでいた。今日、とうとう款状(嘆願書)を大官令・大江広元に出した。はじめに治承以降の数々の手柄を書き、後半には、「この世での心残りは、ただこの一つだけ」だと述懐したという。)
■『吾妻鏡』「承元3年(1209年)11月27日」条
承元三年十一月大廿七日丁巳。「和田左衛門尉義盛、上総國司所望事、内々有御計事、暫、可奉待左右」之由蒙仰、殊抃悦云々。

(承元3年(1209年)11月27日。「和田義盛が上総の国司職を望んでいる件であるが、内々の謀り事があるので(水面下で事を進めているので)、しばらく判断を待つように」と言われたので、大喜びしたという。)
■『吾妻鏡』「承元4年(1210年)7月20日」条
承元四年七月小廿日丙午。晴。上総國在廳等、有參訴事。是、「秀康(院北面)去月十七日任當國守。同下旬之比、其使者入部、國務之間、於事、背先規、致非義。在廳等愁歎之刻、忽起喧嘩、刄傷數輩土民等云々。如相州、廣元朝臣、善信、有沙汰。「是非關東御計、早可奏達」之由、被仰下云々。

(承元4年(1210年)7月20日。晴れ。上総国の在庁官人(国衙の役人)が訴えに来た。それは、「藤原秀康(後鳥羽上皇の院御所の北面の武士)が、先月17日に上総国の国司に任命されました。その月の下旬の頃、その使者が入国して国務を始めたが、何かにつけて先の規定に背き、義ではないこと(勝手な振る舞い)をしている。在庁官人たちが嘆いているうちに、すぐに領民と喧嘩沙汰となり、数人の領民を斬ってしまった」という。北条義時、大江広元、三善善信の協議があった。「(朝廷が決めた国司の使者の問題であるので)関東(鎌倉)で裁決する件ではない。早く朝廷(後鳥羽上皇)へ訴えるべきだ」と命じたという。)
■『吾妻鏡』「建暦元年(1211年)12月20日」条
建暦元年(1211)十二月大廿日戊辰(注:「戌」の誤り)。和田左衛門尉義盛、「上総國司擧任所望事、已断餘執訖。可返給彼款状」之由、以子息四郎兵衛尉、相觸廣元朝臣。「先日、進置御前之上、不能左右」之趣、乍令返答、即以披露之。太不叶御意趣、「暫可相待之旨、被仰含之處、今及此訴、偏是、奉輕上計之所致也」云々。

(建暦元年(1211年)12月20日。和田義盛は、「上総国の国司職への推薦を希望してた事については、すでにあきらめた。款状(嘆願書)を返して下さい」と、子・和田義直から大江広元に伝えた。「先日、源実朝の御前に進め置いた以上、出来ないかも」と返答をしながらも、将軍に取り次いだ。源実朝は気分を悪くして「しばらく待ってるように仰せ含めておき、今、この件について審議していた。偏にこれは、お上の計らいを軽んじていることになる」と言ったという。)

5.守護の任期付(2年間)輪番制


 「守護(各国の警備担当者。今の都道府県警の長官)が職務怠慢で、年貢の略奪行為があとを絶たない」と、各国の国衙の役人から連絡が来た。源実朝が言うには「世襲制だと職務怠慢になる。定期的に交替させたらどうか」と提案した。
 まず手始めに、近くの国々の守護である千葉介成胤、三浦義村、小山朝政らに守護になったいきさつを聞いたが、土地との繋がりが深く、皆、源頼朝の任命書を持っていて、「交替させるのは難しい」と判断され、守護の任期付輪番制は実施されず、「今後においても、怠けたりせずに鎌倉幕府に仕えよ」と(大江広元に命じて)各守護に伝えるに留まった。

■『吾妻鏡』「承元3年(1209年)11月20日」条
承元三年十一月大廿日庚戌。「諸國守護人緩怠之間、群盜動令蜂起、爲庄保煩」之由、國衙之訴出來。依之、條々被凝群儀。「於爲一身定役者、還誇故實、可有懈緩之儀。結番人數各相替、差年限、可令奉行歟。不然者、被尋聞食國々子細、可被改不忠輩歟」之由、雖有其沙汰、未被一决。「以此次、彼職補任本御下文等、可進覽」之旨、先被仰近國。是、自然恩澤与勳功賞、事可有差別之故也。義盛、仲業、淸定等奉行之。

(建元3年(1209年)11月20日。「諸国の守護が怠けているので、盗賊が蜂起して(年貢を横取りするので、)荘園や保で(年貢を徴収できないで)困っている」と、国衙の訴えがあった。それで、色々と会議で提案された。(源実朝は、)「守護がずっと同じ家代々の役職となっているので、先祖の手柄ばかりに自惚れて、怠けているのであろう。数人で組み、交代で、年限を決めて、職務に当たらせたらどうか。でなければ、国々の子細を聞き、不忠の守護を交替させたらどうか」と、裁決されたが、未だに決定はされていない。(源実朝は、)「このついでに、その守護職を命じられた時の命令書を提出するように」と、先ずは(鎌倉に)近い国々に命令された。これは、先祖伝来の本領と、勳功賞で宛がわれた土地(新恩)とを、分けて考えるべきだとの考えからである。和田義盛、源仲業、清原清定が担当した。)

6.平盛綱

北条義時「いつまでも鶴丸では具合が悪い。諱(いみな)をつけてやろう」
鶴丸「諱!?」
北条義時「う~ん、盛綱」
鶴丸「盛綱!」
北条義時「氏もいるな。平でどうだ」
鶴丸「平、ですか?」
北条義時「鎌倉に、平家ゆかりの者がいる。よいではないか。源氏の世が安泰となった証だ」
北条太郎泰時「盛綱というのは?」
北条義時「これからも、太郎の命綱となって欲しいからな」
北条太郎泰時「いい名だ」
鶴丸「ついでに御家人にしてもらうわけにはいきませんか?」
北条太郎泰時「調子に乗るな」
北条義時「いや、面白い。北条を長年支えてきたのだ。そろそろいいかもしれない。本日の切的の技比べに紛れ込め。そして、ひときわ目立つ働きをしてみせよ。それを弾みに鎌倉殿にかけあってやる」
鶴丸「ありがとうございます!」

1度目ははずすも、2度目では見事に的を射て「3-1」で右方(北条泰時方)を勝利に導いた鶴丸改め平盛綱を「御家人に」と北条義時は源実朝に申し込むが、平盛綱を恋敵として嫉妬した源実朝は断るも、北条義時が拗ねたので許可した。

■フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
平 盛綱(たいら の もりつな)は、鎌倉時代初期の武士。鎌倉幕府の執権北条氏の家司。内管領長崎氏の祖。
経歴
平資盛の子[『尊卑分脉』]、或いはその曾孫[『系図纂要』では資盛―盛国(平清盛の家人である平盛国とは別人)―国房―盛綱とし、平姓関氏と繋がった系図(関実忠を盛綱の兄弟とする)となっている。]ともされるが、確かな出自は不詳である。
 鎌倉幕府執権の北条氏に家司として仕え、執権が別当を兼ねる侍所の所司を務める。承久3年(1221年)の承久の乱や貞応3年(1224年)からの伊賀氏の変の処理において実務能力を発揮して北条泰時・経時・時頼ら3代の執権を助けた。承久の乱後に幕府の「安芸国巡検使」として安芸国に赴き、同国国人の乱当時における動静を調べて泰時に報告したことなどは、その事跡の一つである[『鎌倉遺文』3066、同5652]。
 元仁元年(1224年)には泰時の命令を受けて北条氏の家法を作成したとされる。御成敗式目制定の奉行も務め、初の武家成文法の制定に関与した。文暦元年(1234年)には家令の地位に就いて、後世その子孫が幕府内管領の長崎氏として発展する礎を築いた。
仁治3年(1242年)に出家して隠退。『吾妻鏡』により、建長2年(1250年)3月には既に死亡していることが知られているが、詳細は不明である。法名は盛阿。
 平禅門の乱で著名な平頼綱は孫であり、鎌倉幕府末期の実力者長崎円喜は曾孫であろうとされる。

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▲切的(6cm四方の板を30cmの串に付けた的)を射る訓練

■『吾妻鏡』「承元3年(1209年)11月4日」条
承元三年十一月大四日甲午。於小御所東面小庭。和田新左衛門尉常盛以下、壯士等射切的。是「弓馬事、不可被思食弃」之由、相州依諌申、所被興行也。故可有勝負云々。

(承元3年(1209年)11月4日。小御所の東側の小庭で、和田常盛(和田義盛の長男)をはじめとする若い武士たちが切的を射た。これは、「弓馬の事(武芸)を忘れてはならない」と、北条義時が諫言したので、行われたのである。それで、勝負したそうだ。)
■『吾妻鏡』「承元3年(1209年)11月7日」条
承元三年十一月大七日丁酉。去四日弓勝負事、負方衆獻所課物。仍、營中及御酒宴乱舞。公私催逸興。以其次、「武藝爲事、令警衛朝庭給者、可爲關東長久基」之由、相州、大官令等、被盡諷詞云々。

(承元3年(1209年)11月7日。先日4日の弓の勝負について、負けた方が賭けの品物を提出した。それで、御所で呑んだり踊ったりの大宴会になった。将軍も部下も共に楽しんだ。そのついでに、「(和歌や蹴鞠は公家に任せ)武芸で(常に武芸の腕を磨いて)朝廷を警護(お守り)すれば、関東長久の(武家政権=鎌倉幕府が長く続く)礎になる」と、相模守・北条義時や大官令・大江広元が遠まわしに(源実朝に)言ったという。)

7.源実朝と北条義時の対立


 源実朝は、北条義時の言いなりになっていたわけではない。
 北条義時が「主達(おもだち)」と呼んでいる家人の中で、手柄をあげた者を「准侍」(准御家人)にしようとしたが、源実朝は、「分不相応な者の取立ては災いを呼ぶ」(これを「官打ち」という)と心配して却下した。個人的には、能力主義を採用して、その人だけ(一代限りで)准御家人にしてもいいと思うが。

■『吾妻鏡』「承元3年(1209年)11月14日」条
承元三年十一月大十四日甲辰。相州「年來郎從(皆伊豆國住民也。号之主達)之中、以有功之者、可准侍之旨、可被仰下」之由、被望申之。内々有其沙汰、無御許容。「於被聽其事者、如然之輩、及子孫之時、定忘以往由緒、誤企幕府參昇歟。可招後難之因縁也。永不可有御免」之趣、嚴密被仰出云々。

(承元3年(1209年)11月14日。北条義時は、長年仕えてくれた郎党(皆、伊豆国に住んでいる。「主達(おもだち)」と呼んでいる)の中で、功績がある者を「准侍」(准御家人)にする、と許可していただきたい」と望んだ。内々に裁断され、許可されなかった。「その事を許してしまえば、そのような連中の子孫の時代になると、きっと由緒を忘れ、間違って直参として幕府へ上がろうとするのではないか。後の問題を招く原因となる。絶対に許すべきではない」と厳しく仰せられたという。)

8.公暁(くぎょう / こうきょう / こうぎょう)

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                     ▲善哉丸、落飾し給ふ図

■『吾妻鏡』「建暦元年(1211年)9月15日」
建暦元年九月小十五日甲子。晴。金吾將軍若宮(善哉公)於定曉僧都室、落餝給。法名公曉。

(建暦元年(1211年)9月15日。晴れ。源頼家の子(善哉)が、定暁僧都の僧房で出家した。法名は公暁である。)

 「公暁」は、従来「くぎょう」と読まれてきたが、師が公胤(こういん)、公胤の師が公顕(こうけん)であることから、今では「こうきょう」もしくは「こうぎょう」と読むと考えられている。(『鎌倉殿の13人』では「こうぎょう」である。)

  …公顕─公胤─公暁

■フリー百科事典『ウィキペディア』「名前の読みについて」
 公暁の名は江戸時代以降呉音読みで「くぎょう」と呼ばれており、明治時代の『国史大辞典』で「クゲウ」とされて以降、主な歴史関係の書籍では「くぎょう」と読まれて来た。 一方で『承久記』の異本で鎌倉時代に成立したとされる『承久軍物語』では公暁は「こうきょう」と書かれ、1550年頃に成立した尊経閣文庫本『承久記』では「こうせう」と書かれている。天明年間の『承久兵物語』では「こうきやう」と書かれているが、寛永版『吾妻鏡』の版本では「クゲウ」の読みが振られており、徳川光圀によって編纂が命じられた『新編鎌倉志』でも受け継がれた。
 公暁の名は師の貞暁と公胤から取られたものとされているが、公胤とその師公顕は当時の記述では「こういん」「こうけん」と呼ばれている。通常僧侶の戒名は呉音で読まれることが多いが、公胤が属していた園城寺では、法名を漢音で読む風習があった。このため「公暁」の読み方も漢音に基づく「こうきょう」もしくは「こうぎょう」ではないかと複数の研究者が指摘している。

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▲北条時政の子(『鎌倉殿の13人』の設定)

北条四郎時政┬長男・三郎宗時    (片岡愛之助)  :母・伊東祐親の娘
(坂東彌十郎) ├長女・政子=源頼朝室 (小池栄子)   :母・伊東祐親の娘
      ├次男・江間小四郎義時 (小栗旬)       :母・伊東祐親の娘
      ├次女・実衣=阿野全成室(宮澤エマ)   :母・伊東祐親の娘
      ├三女・ちえ=畠山重忠室(福田愛依)   :母・?
      ├四女・あき=稲毛重成室(尾碕真花)   :母・?
      ├三男・五郎時連→時房 (瀬戸康史)      :母・?
      ├?女・きく=平賀朝雅室(八木莉可子)  :母・りく
      ├?女・?=滋野井実宣妻(?)  :母・りく=牧宗親の妹
      ├?女・?=宇都宮頼綱室(?)  :母・りく=牧宗親の妹
      ├四男・遠江左馬助政範 (中川翼):母・りく=牧宗親の妹
      ├?女・?=坊門忠清(坊門信清の子)室(?):母・不明
      ├?女・?=河野通信室(?):母・不明
      └?女・?=大岡時親(牧宗親の子)室(?):母・不明

北条義時の子(『鎌倉殿の13人』の設定)

北条義時──┬長男・金剛→頼時→泰時(坂口健太郎):母・伊東祐親の娘
(小栗旬)    ├次男・朝時(髙橋悠悟):母・比奈=比企朝宗の娘
       ├三男・重時(加藤斗真):母・比奈=比企朝宗の娘
       ├長女・竹殿=大江親広室(?):母・比奈=比企朝宗の娘
       ├四男・有時(?):母・?=伊佐朝政の娘娘
       ├五男・政村(?):母・のえ=二階堂行政の孫娘
       ├六男・実泰(?):母・のえ=二階堂行政の孫娘
       ├七男・時尚(?):母・のえ=二階堂行政の孫娘
       ├次女・?=一条実雅室(?):母・のえ=二階堂行政の孫娘
       ├?女・?=一条実有室(?):母・不明
       ├?女・?=中原季時室(?):母・不明
       ├?女・?=一条能基室(?):母・不明
       ├?女・?=戸次重秀室(?):母・不明
       └?女・?=佐々木信綱室(?):母・不明

源頼朝の子(『鎌倉殿の13人』の設定)

源頼朝──┬千鶴       (太田恵晴)   :母・八重=伊東祐親の娘
(大泉洋)   ├長女・一幡(大姫)(南沙良)    :母・政子=北条時政の娘
      ├長男・万寿→頼家 (金子大地)   :母・政子=北条時政の娘
      ├能寛→貞暁    (?)           :母・?=常陸念西の娘
      ├次女・三幡(乙姫)(太田結乃)   :母・政子=北条時政の娘
      └次男・千幡→実朝 (柿澤勇人)   :母・政子=北条時政の娘

源頼家の子(『鎌倉殿の13人』の設定)

源頼家───┬長男・一幡    (相澤壮太):母・せつ =比企能員の娘
(金子大地)  ├次男・善哉→公暁 (寛一郎) :母・つつじ=賀茂重長の娘
        ├三男・千寿丸→栄実(?)   :母・?=一品房昌寛の娘
        ├長女・竹御所   (?)   :母・?=源義仲の娘
        └四男・?→禅暁  (?)   :母・?=一品房昌寛の娘

▲NHK公式サイト『鎌倉殿の13人』
https://www.nhk.or.jp/kamakura13/

▲参考記事

・サライ 「鎌倉殿の13人に関する記事」
https://serai.jp/thirteen
呉座勇一「歴史家が見る『鎌倉殿の13人』」
https://gendai.ismedia.jp/list/books/gendai-shinsho/9784065261057
・富士市 「ある担当者のつぶやき」
https://www.city.fuji.shizuoka.jp/fujijikan/kamakuradono-fuji.html
・渡邊大門「深読み「鎌倉殿の13人」」
https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabedaimon
・大迫秀樹「「鎌倉幕府の謎」源頼朝と北条義時たち13人の時代」
https://gentosha-go.com/category/t966_1・Yusuke Santama Yamanaka 「『鎌倉殿の13人』の捌き方」
https://note.com/santama0202/m/md4e0f1a32d37
・刀猫    「史料で見る鎌倉殿の13人」
https://note.com/k_neko_al/m/m0f7e5011a2ac

▲参考文献

https://note.com/sz2020/n/n7aec3eacdf80

・毛利豊史「源実朝試論」
https://core.ac.uk/download/pdf/80536497.pdf




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