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貝原益軒『筑前国続風土記』(巻13)「鞍手郡磯光村 天照宮」

 ある本を読んでいたら、「天照大神=卑弥呼であり、『風土記』に天照大神が筑紫に降臨したとあるので、邪馬台国は筑紫にあった」と書いてあって、事実確認しようと思ったのですが、その本が見当たらない! 昨日は確かに机の上にあったのに・・・どこへ行った???

 そもそも天照大神は、「高天原のリーダー」であるので、高天原から離れられません。降臨したのは孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと、邇邇藝命)です(「天孫降臨」といいます)。

──筑紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき。

 この文は、通説では「筑紫(九州)の日向国の高千穂のクシフル岳に降臨した」と訳されていますが、異説では「筑紫国の日向峠の高祖(たかす。「たかち」の転訛)山(福岡県福岡市と糸島市の境に位置する山)の南峰「くしふる山」に降臨した」と訳します。

 どちらにしても山に降臨したって、凄いことですね。「海の向こうから来て、A港に漂着した」なら分かりますが、山に降臨したって・・・空飛ぶ天磐船に乗ってきたのでしょうか?

 また、『風土記』の天照大神が筑紫に降臨したという話は、笠置山(飯塚市と宮若市の境にある山)に降臨した天照大神(瓊瓊杵尊の子とされる天火明命(天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊))のことかもしれません。(なお、笠置山は、京都府相楽郡笠置町笠置笠置山にもあり、「邪馬台国東遷説」の根拠の1つになっています。)

※福永先生が「香春岳は「大和三山」と呼ぶにふさわしい三連山だ」とおっしゃってます。確かに山容はその通りです。でも「大和三山は香春岳だ」とするのはいかがなものか。邪馬台国東遷説が正しければ、「邪馬台国=田川の香春岳(元「大和三山」)に相当する山を奈良で探し、香具山、畝傍山、耳成山を新たな「大和三山」と呼ぶことにした」となるかと。
 『万葉集』(巻3ー0334番歌)に、
  忘れ草 我が紐に付く 香具山の 古(ふ)りにし里を 忘れむがため
(大宰府に赴任し、忘れ草を私の紐に付けています。大和国の香具山がそびえる懐かしい古里を忘れられるように。)
とありますが、邪馬台国東遷説では、故郷(邪馬台国)の山を忘れないように、新居住地(奈良盆地)の山に同じ名前を付けたとなろうかと。


■貝原益軒『筑前国続風土記』「鞍手郡磯光村 天照宮」

 礒光(いそみつ)村にあり。
 俗説、天照大神といへども、いにしへ従五位下を授られたるを見れば、天照大神にあらず。瓊杵速日(にぎはやひ)尊也。瓊杵速日尊を 天照大神といひたる事、『旧事記』にあり。(いつの頃よりか、八幡大明神、春日大神をも相殿に祭り奉る。)
 昔は笠木山の上に鎮座ありしか共、老幼の輩、参詣のわづらひあればとて、麓に移す。宮田村の枝村・千石原と云所の上、谷の中に今も其跡あり。
今、其の所を仏(ほとけ)谷といふ、是は山上に神社ありし時、稲の初穂を麓の谷にかけて祭りし故、穂懸(ほかけ)といひしを、訛(あやまり)て仏谷といふなり。其の後、神勅ありて、「鶴の一番(つがい)住む所に、遷座したまふべき」との御告げあり。因て、其の瑞を見るに、鶴田村に白鶴雌雄二居ける所あり。終に其の所を御廟(みやしろ)の地と定む。今の神廟の地、是れ他。此の社、むかしは鶴田村の境内也しが、礒光の田地、鶴田村の近辺にありて遠く、鶴田の圃、礒光の村際にありて遠かりし故、「たがひに耕作の便よろしからず」とて、近年、農民共、各相替へて、其の地を耕作せり。故に天照宮のまします所は、むかしのまゝなれど、今は礒光村の境内となる。鶴田村も、本より天照宮の敷地也。(「鶴田といふも、白鶴、田の中に栖し故、是れに拠りて村の名とす」と云ふ。)
 大凡(おおよそ)此の御神は上代より鎮座ましまし、住昔は御宮造もいかめしく、神領多くして、年中の祭礼、其の数しげく、祠官も数多ありて、是を勤行ひけるとかや。
 按ずるに、『三代実録』に、「陽成天皇元慶元年12月15日、筑前国正六位上天照神に從五位下を授たまふ」とあり。この御神の事ならし。徳治3年造營有し棟札あり。延寳8年庚申に、敷地の人々、相共にはかりて、新に神殿を改め作り、元禄6年、直方の家臣、小川権左衛門氏信、石鳥居を創立す。
粥田庄の惣社にして、礒光、鶴田、龍徳、宮田、大隅、尾崎、兵段(ひょうたん)、皆、天照宮の敷地なり。
【補足】先年、直方の頒主・黒田長清君の命をうけて、篤信縁記を作りて納めける。

https://www.nakamura-u.ac.jp/institute/media/library/kaibara/pdf/d13.pdf



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