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大久保忠教『三河物語』にみる松平親氏と松平泰親

在原松平信重─水女
        ‖
世良田長親┬松平①親氏────────────┬松平信広【太郎左衛門家】
     └松平②泰親┬教然(妙心寺)   └松平③信光【岩津松平家】
               ├益親(京都へ)
               ├家久
               ├家弘
               └久親

【概要】 徳川氏の遠祖・世良田/得川親氏は、出家して時宗の時衆(遊行上人の取り巻き連中)となり、三河国の松平郷に流れ着き、娘はいるが息子はいなかった郷主・在原松平信重の娘・水女と結婚し、家督を継いだ。この松平親氏は武勇に優れ、慈悲深い人であったので、住民の心を掴んだが、病気で急死したので、これまた武勇に優れ、なかなか慈悲深かった弟・松平泰親が松平家を継ぎ、まだ幼い2人の松平親氏の子(信広、信光)の面倒を見ながら、松平氏を近隣十数か村を領有する有力国人領主に成長させた。また、都へも進出し、松平信光は、室町幕府政所執事・伊勢貞親の被官となった。
 松平泰親が松平親氏の2人の子と共に岩津城を落とした時、松平親氏の長男・松平信広は足を負傷して歩行困難になったので(一説に生まれつき足が悪かったので)松平郷の松平氏居館を守る「太郎左衛門家」の祖とし、松平親氏の次男・松平信光が岩津城に入って「岩津松平家」の祖となった。

※徳川家康は、「18松平」の1つである「安祥松平家」の宗主に過ぎない。松平郷の「太郎左衛門家」が松平宗家であるが、現在は、徳川家康を輩出した「岩津松平家」の分家「安祥松平家」を宗家としている。
※「18松平」:松平家は、実際、約18家に分かれていたが、「18」としたのは、「松」の字を分解すると「十八公」となるからだとする説がある。

■大久保忠教『三河物語』

1.徳川氏について


 げにや八幡太郎義家より御代々嫡々然れども、義貞の威勢により、それに従って新田の内、得川の郷中におはし給ふ故によりて「徳川」殿と申し奉りき。義貞、尊氏に打ち負け給ふ時、得川を出させ給ひてより、中有の衆生の如く、何(いず)くの定め給ふ処も無く、10代ばかりも、此方、彼方と、御流浪なされ、歩かせ給ふ。
 徳の御代に時宗にならせ給ひて、御名を徳阿弥と申し奉る。西三河坂井郷中へ立ち寄せ給ひて、御足を休めさせ給ふ。折り節、御徒然(とぜん)さの徒然(つれずれ)に、至らぬ者に御情をかけさせ給へば、若者1人、出来させ給ふ。
 然る処に、松平の郷中に太郎左衛門尉と申して、国中一の有徳なる人、有りけるが、いかなる御縁にか有るやらん、太郎左衛門、独媛(ひとりひめ)の有りけるを、徳阿弥殿を婿に取り、一跡に立てまいらする。
 然る処に、坂井の御子、後に御尋ねをはしまして、御対面有る時、「尤も御疑ひ、更に無し。然り」とは云へども、「人の一跡を継ぐ上は、惣領とは云ひがたし。家の子にせん」と仰せあって、末の世話、乙名(おとな)とならせ給ふの由、しかとの事はなけれども、申し伝へに有り。

2.初代松平親氏について

 さて又、後には太郎左衛門尉親氏、御法名は、即ち徳阿弥。如何にいはん哉、弓矢を取りて云ふに計(はか)り無し。早、中山17名を切り取らせ給ふ。殊更、御慈悲におひては並ぶ人無し。民(たみ)百姓、乞食、非人どもに至る迄、哀れみを加えさせ給ひて、或る時は、鎌、鍬、銲(よき)、鉞(まさかり)などを持たせ給ひて出(いで)させ給ひ、山中の事なれば、道細くして、石高し。木の枝の道へ指し出、荷物にかかるをば切り捨て、木の根の出たるをば掘り捨て、狭き道をば広げ、出たる石をば掘り捨て、橋を架け、道を作り、人馬の安穏にと昼夜御油断無く御慈悲を遊ばし給ふ。
 御内の衆、仰せられけるは、「我が先祖10代計り先に、尊氏に居所を払われて、此方彼方(ここかしこ)と流浪して、遂に本望を遂げる事無し。我又、此国へ迷ひきて、今又少し頭を持ち上ぐる事、仏神三宝の御哀れみも有りか。我、一命を跡10代に捧げ、此あたりを少しづつも切り取りて、子供に渡すもの成れば、代々に切り取り、切り取りするものならば、先10代内には、必ず天下を納め、尊氏先祖を絶やして本望を遂ぐべき」と仰せられければ、御内の衆、一同に申し上げけるは、「御先祖は、只今こそ承り候らへ。其の儀は兎も角も、其の儀に構い申さず候。年月、当君の御情、雨山忘れ難く存知候儀を、各々寄り合ひ申しても、別の儀を語り申さず。さても、さても、御慈悲と申し、又は御情、此の御恩の何として報じあぐべき哉。只2つと無き命を奉り、妻子、眷属をかえりみず、昼夜の稼ぎにて、御恩を報ぜん」と申すなり。親氏、聞こし召されて、「面々申され候事、恥入りて候。我が面々に何をもって慈悲とも覚ゑず。又、何をもって情とも覚へざる。又、何をもって面々に思ふつかれんとも覚へざるに、面々の左様に申さるるは、分別に及ばず。不審にこそあれ」と仰せければ、面々、申し上げ候。「先ず、御慈悲と申す事は、ご存知なきや。あれに伺候申す5、3人の面々は、重罪の御咎を申し上げる者なるを、妻子ともに火、水の責めにて責め殺させられではかなはざるものを、妻子、眷属、ゆるしおかるるのみならず、其の身が一命迄、御ゆるされ、あまつさえ、いつもの如く、御前え召し出され、召しつかわさるる御事は、是に過ぎたる御慈悲、何かは御座候はん哉。あの者ども一類、女房どもの一類の者迄も、人より先に一命を捨て、御奉公申し上げ候らはんと存知、定め申したり。ましてあの者どもは、『妻子の一命を下さるる御恩は、末世此御恩報じ上げ申す御事、此世にて成り難し。此御恩には、燃ゆる火の中えも、御奉公成らば飛び入らんと、一心に思ひ定めて罷り有り』と申すなり。それのみ成らず、面々も心に入て稼ぎ申す事、御執着に思し召さるるに『近う参りて、膝を直し罷り有れ』との御情は、雨山御忝なく身に余り存知候」と申し上げ候らへば、御言葉も出されず、御涙を押さえさせ給へば、面々、愈(いよいよ)涙を流し、御前を罷り立つ。申しつる如く、雨、露、雪、霜にもいとはず、夜は稼ぎ、かまり、昼は此方、彼方の働き、昼夜、身を捨てて御奉公申し上げ申すにつけて、あたりを切り取らせ給ふて、御子・太郎左衛門尉泰親ゑ御代を御譲り給ふ。

3.初代松平泰親について

 太郎左衛門尉泰親、御法名・用金(ゆふきん)。是も御父に劣らせ給はざりし弓取と申し、御慈悲中々申し尽くしがたし。
 然る所に、大臣殿、勅勘を被らせ給ひて、三河の国ゑ流罪ならせ給ふ。然りとは申せども、程無く赦免ならせ給ひて、御帰京とぞ申しける。其の時、国中におひて、大小人に寄らず、名の有る侍に「御供申せ」と有りし時、国中をさがせ給へども、源氏の嫡々にてわたらせ給へば、是にましたり族姓なし。「其の儀ならば、泰親、御供あれ」と仰せられて、御供こそ成さられけり。其れよりして、三河の国ゑ御綸旨には「徳川泰親」と下され給ふによって、早、国中の侍も、民百姓に至る迄も、恐れをなさざる者はなし。
 然る間、松平の郷中を出させ給ひて、岩津に城を取り給ひて、御居城として住ませ給ふ。
 其の後、岡崎に城を取り給ひて、次男に譲らせ給ふ。岩津をば和泉守信光に御代渡され給ふ。

大久保忠教『三河物語』
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992777/20

※『三河物語』「徳の御代」考
https://note.com/sz2020/n/n1963ebf69e74
※『三河物語』「銲(よき)」考
https://note.com/sz2020/n/nf07e8d785653
※『三河物語』「松平泰親」考
https://note.com/sz2020/n/naa8590b8a942

1.徳川氏について


清和天皇…義国┬義重【新田氏】┬義兼…義貞
         │       └義季【得川氏】┬頼有…
         │                └頼氏【世良田氏】…親氏
        └義康【足利氏】…尊氏

 徳川家康は、清和源氏・河内源氏義国流・新田氏系得川氏(世良田氏)の末裔で、嘉字「徳」を用いて「徳川」と改姓した(徳川家康に言わせれば復姓した)徳川氏初代であるが、実は「安祥松平家宗主・松平元康」(松平家9代宗主)である。
 得川氏は、南朝遺臣(新田義貞に与して足利尊氏に追われる武士)となり、10代に渡って宮城県塩竈市など、「中有(死後、行くべき場所が決まらず、閻魔大王の採決を待っている期間)の衆生(彷徨う霊魂)」のように逃げ回っていたとあるが、実際に逃げ回ったのは、南朝遺臣の祖父・親季、父・有親と幼い松平親氏の3代である。「10代」とは、「新田氏の祖・新田義重から松平親氏まで」である。

①新田義重─②得川義季─③世良田頼氏─④教氏─⑤家時─⑥満義─⑦政義─⑧親季─⑨有親─⑩松平親氏─⑪泰親─⑫信光…⑱徳川家康

 『三河物語』によれば、松平親氏は、「10代前(実際は3代前)に足利尊氏に得川荘を追われた。今後は少しずつ領地を増やしていけば、10代後に、松平氏は天下を取って、足利尊氏の子孫を絶やせるだろう」と「御内の衆」(「松平郷譜代」の家臣衆。酒井氏、石川氏、成瀬氏、本多氏、青山氏等)に語ったという。(そして、その予言通り、松平親氏9世孫・徳川家康が天下を取った。)

 世良田徳太郎は、時宗の時衆(「阿弥衆」「客寮衆」とも。僧俗の中間的存在。剃髪、僧形であるが、鑑定、和歌など諸芸に通じ、妻帯も可能)となり、「徳阿弥」と名乗った。遊行で、三河国酒井郷に立ち寄った時、身分の低い女性(酒井氏の娘)のラブレター攻撃にあい、仕方なく情けをかけてやったら、子供(酒井広親)が出来てしまった。
 その後、松平郷の郷主・松平太郎左衛門尉信重という三河国内では最大の大金持ち(有徳人)の連歌会の書記を務め、詠んだ歌も見事であったので気に入られ、一人娘の次女・水姫(長女・海姫は既に死亡)と結婚すると、松平信重に息子ができなかったので、松平家の一跡(跡継ぎ)になった。
 こうした時、酒井広親が松平郷へやって来た。松平親氏は、「そなたは、確かに私の長男である。私が得川親氏であれば、嫡男として得川家を継がせられるが、今の私は得川親氏ではなく松平親氏である。他人の家を継いだ身であるので、そなたを嫡男として松平家を継がせることはできない。(松平家の娘・水姫との間に生まれた男子を嫡男として松平家を継がせる。)松平家の家臣となれ」と言った。さらに、「酒井家宗主を、末代に渡って松平家宗主の世話役、乙名(家老)とする」と言ったと伝わるが、これは言い伝えであって、証文は存在しない。

※『三河物語』の著者・大久保忠教は、酒井氏の偉そうな態度を嫌っていたようである。たとえば、廊下で徳川氏とすれ違う時、家臣は道をあけて礼をするが、酒井氏は家臣でありながら、同格だとして礼をしなかったという。

2.初代松平親氏について

 松平親氏は、
①武芸の達人で、中山七名を平定した人
②貧民を救済する慈悲深い人
③領内を視察して回り、領民に声をかけたり、道路工事をした人
であった。

※中山七名(中山七郷)=松平郷の南東、額田郡中山庄の7つの郷村。秦梨、田口、岩戸、麻生、大林、名之内、柳田の7ヶ村(7郷)。『三河物語』では「中山十七名」とする。

 領内視察は、義父・松平信重が行っていたことで、松平信重は12具足(鍬、鎌、鋤、鶴嘴(つるはし)、畚(もっこ)、棒、尺杖、玄能、金棒、梃子(てこ)棒、鉞(まさかり)、熊手)を12人の従者に持たせて領内を見回り、人馬通行の道を作らせたり、補修したりした。松平親氏は、領地が広まったことも有り、これを2組、倍の24具足24人に増やした。当時の玄能(石を割るための大型の金槌)が松平館(松平東照宮境内の資料館)に展示されている。

3.初代松平泰親について


 松平郷は山に囲まれている。松平親氏が考えていたのは、松平郷の南にある岡崎平野への進出であり、松平泰親は、さらに中央政府とのリンクが必要だと考えた。
 さて、松平郷から岡崎平野への進出には、3つのルートがある。それは、
①松平郷から南下
②松平郷から東へ進んで南下
③松平郷から西へ進んで南下
である。
 松平親氏はまずは松平郷から南下を試み、林添村に進出し、手に入れるが、それ以上の南下は大給城の城主・長坂氏に阻まれた。
 そこで、松平郷から東へ進んで大平郷(岡崎市大平町)への南下を試み、中山七名(中山七郷。松平郷の南東、額田郡中山庄の7つの郷村)へ進出して、手にするも、松平親氏は突然、病死した。松平親氏の子はまだ幼かったので、弟・松平泰親が家督を継いだ。
 松平泰親は、松平郷から西へ進んで南下を試みた。まずは岩津城を落として居城とし、次に北上して松平郷と岩津城の間の大給城と保久城を攻め落とした。こうして松平氏の眼前に、広大な岡崎平野が広がった。

 松平泰親は、さらなる発展には、中央政府とのリンクが必要だと考えた。それには裕福な財力を利用しようと、子・益親を京都へ送り、京都に屋敷を構えさせて高利貸しをさせたというが、『三河物語』『徳川実紀』『改正三河後風土記』では、「洞院中納言実熙(1409-1459)は、正長2年(1429年)、密通が発覚し、勅勘を蒙って解官され、父・満季からも義絶されて、三河国に追い出され、金銭的に困窮していた。翌・永享2年(1430年)、赦免されて権中納言に還任する時、松平泰親は、経済的支援と交換に中央政府へのとりなしを持ちかけ、松平泰親自身は三河国目代に任じられて「松平三河守泰親」(『三河物語』では「徳河泰親」)と名乗り、松平信光は室町幕府政所執事・伊勢貞親の被官になった」とする。

■『徳川実紀』
 洞院中納言実熈といへる公卿、三河国に下り、年月閑居ありしに、(世には実熈三河に左遷ありしよし伝ふるといへども、応仁より後は争乱の巷となり、公卿の所領はみな武家に押領せられ、縉紳の徒、都に住わびて、ゆかりもとめ、遠国に身をよせたる者少からず。この卿も、三河国には庄園のありしゆへ、こゝにしばらく下りて年月を送りしなるべし。)泰親この卿の冗淪をあわれみ、懇に扶助せられ、すでに帰洛の時も国人あまたしたがへ都まで送られしかば、卿もあつくその恩に感じ、帰京の後、公武に請ひて、泰親を三河一国の目代に任ぜられしかば、是より三河守と称せらる。
■『浪合記』
 永享11年、洞院大納言実熈、三河国に流され、大河内に在す。
 嘉吉3年、皈落有りて、内大臣に任す。皈落の時、松平太郎左衛門尉泰親、当家の者して、金銀を借し奉りて供奉す。
 泰親女は、実熈の妾なり。此妾に男子一人有り。富永五郎実興と称す。三河国富永の御所と云ふは、実興殿の事なり。三州山本の祖也。又、尾崎、山崎等も此の子孫也。

 松平氏発展の契機は、室町幕府政所執事・伊勢貞親の被官・松平信光が、寛正6年(1465年)の「額田郡一揆」の鎮圧を、戸田宗光とで行い、褒賞として三河国内各所に所領を与えられたことである。

 ──松平信光と戸田宗光は仲が良かった?

仲が良かったからか、仲が悪かったので政略結婚で仲良くしようと思ったのか、戸田宗光の奥さんは松平信光の娘です。

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