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松平親氏の24具足と24人の従者

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 松平親氏は、水戸黄門のように(?)領内視察を行っていたという。(上の写真は、松平園地の「領内視察中の松平親氏像」。)
 領内視察は、義父(妻・水女の父)・在原松平信重が行っていたことで、在原松平信重は12具足(鍬、鎌、鋤、鶴嘴(つるはし)、畚(もっこ)、棒、尺杖、玄能、金棒、梃子(てこ)棒、鉞(まさかり)、熊手)を12人の従者に持たせて領内を見回り、人馬通行の道や橋を作らせたり、補修したりした。松平親氏は、領地が広がったからか、これを2セット、倍の24具足24人に増やした。
 当時の「玄能」が「松平館」(松平東照宮境内の資料館)に展示されている。現在の玄能は、釘を打ったり、凸面で木殺しをする金槌であるが、当時の玄能は、石を割るための大槌である。名の由来は「玄翁が、殺生石を砕く時に使った大槌」であり、3つに割れた殺生石の1つが岡崎市の「三河富士」こと村積山に飛んできたという。

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 松平園地の「領内視察中の松平親氏像」の松平親氏は、何かを指差している。多分、
「次はあそこを補修しよう」
「次はあそこに橋を架けよう」
と言っているのであろう。

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 台風の次の日、山へ行くと、道路に倒木があったり、岩があったり、土砂崩れをしていたりして、交通の障害となっている。12具足とは、基本的には、倒木を動かせる大きさに切る鉞、岩を動かす梃子棒、土砂を運ぶ畚といった生活道路補修用の道具であろう。なお、この話は『三河物語』に次のように載っている。

■大久保忠教『三河物語』
或る時は、鎌、鍬、銲(よき)、鉞(まさかり)などを持たせ給ひて出させ給ひ、山中の事なれば、道細くして、石高し。木の枝の道へ指し出、荷物にかかるをば切り捨て、木の根の出たるをば掘り捨て、狭き道をば広げ、出たる石をば掘り捨て、橋を架け、道を作り、人馬の安穏にと昼夜御油断無く御慈悲を遊ばし給ふ。

 『三河物語』については、
・文盲だった大久保忠教は『三河物語』を書くために文字を覚えた。
とか、
・大久保忠教は文盲だったので物語り、それを書記が文字起こしした。
ともされる古文書で、見たことのない漢字(大久保忠教作の国字?)や当て字、誤字が異常に多い。

 この場面では「銲」という漢字が登場する。
 「銲」は、辞書には、「釬」の異体字で、「①カン。腕につける防具。篭手(こて)。②捍。ゆごて。弓を射るとき、弦から手を保護するためのもの」とあるが、松平親氏像は装着していない。(暑いのだろうけど、手足むき出し、胸まで開いて歩いたら、虫に刺され、蛇に噛まれ・・・連歌会を好む領主(文化人)にも見えない。そもそも馬に乗っていたと思う。松平氏居館の横に馬場(現在は駐車場)があるが、馬は毎日乗らないと、いざという時に走れない。あと、髪の毛。私は坊主頭だったと考えています。)
 文脈からも、「銲」は身につける物ではなく、道具であろう。

 手元の訳本では、

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「手斧(ておの)」と訳されていた。

 実は『三河物語』には「よき」と訓がある。「斧(よき)」は「手斧」のことで、「手斧」には、「①ておの。片手で振る小型の斧。樵斧。ハンドアックス、②ちょうな。木を削る道具」の2つの意味があり、訳者は「手斧(ておの)」を採用したのである。「鉞の前に書かれているので、鉞に似た物であろう」と考えたのであろう。
 多分、正解は「誤字。正しくは「錍」。「金にひ」と覚えていて、「ひ」を「卑」としないで「旱」としてしまった」説でしょう。ただ、困ったことに、「銲(こて)」も、「手斧(よき)」も、「錍(おの)」も、12具足(鍬、鎌、鋤、鶴嘴、畚、棒、尺杖、玄能、金棒、梃子棒、鉞、熊手)に入っていないのです。
 私の説は、「「銲」は、「桿」(てこ。さお。棒)の「木」を「金」に替えた漢字で、「金属製の桿」=「12具足の金棒か梃子棒」であり、現在の「鉄梃」(かなてこ、バール)と同じ用途の道具」です。

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