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越前国府

 高志国(こしのくに)は、細長くて統治しにくいので、京都から近い順に、「高志道前」「高志道中」「高志道後」の3国に分割されたようです。その後、「高志前」「高志中」「高志後」の表記を経て、「大化の改新」と呼ばれる行政改革により、「越前」「越中」「越後」の表記に定まったようです。


■『和名類聚抄』

 平安時代には「越前」は、まだ「こしのみちのくち(越の道の口)」と呼ばれていたようで、平安時代(10世紀前半)の『和名類聚抄』には、

・越前「古之(こし)乃見知乃久知」
・備前「岐比(きび)之美知乃久知」
・筑前「筑紫(つくし)之三知乃久知」
・肥前「比(ひ)之三知乃久知」
・豊前「止与久迩(とよくに)之美知乃久知」

とあります。

※「~前国」:「~の中で最も都に近い国」「~の入口の国」。

■『催馬楽』「道口」


 平安時代初期の『催馬楽(さいばら)』の「道口(みちのくち)」には、「見知乃久知 太介不乃己不尓 和礼波安利止 於也尓万宇之太戸 己々呂安比乃加世也 左支无太知也」とあります。

見知乃久知(みちのくち)太介不乃己不尓(たけふのこふに)和礼波安利止(われはありと)於也尓万宇之太戸(おやにまうしたべ)己々呂安比乃加世也(こころあひのかぜや)左支无太知也(さきむだちや)。

『催馬楽』「道口」

【現代語訳】「道の口(越国の入口。京都より東)の武生の越前国府に私はいます」と、親に伝えて下さい。親しい「あいの風(東風)」さんよ、先に立って(発って)、(西へ、京都へ)吹いて行って、私が送る手紙が着くより前に着いて教えてあげて下さいね)。

※あいの風:北陸地方の日本海岸で使われる言葉で、春から夏にかけて吹く東風のこと。 地域により「あえの風」「あゆの風」と言う。毎日吹かれていると、心が通い合うのか、ここでは「合い」と掛ける。「たち」も風が「立つ」と「発つ」(出発する)の掛詞である。

■越前国府

 この『催馬楽』により、越前国の国府は、太介不(たけふ)に置かれていたことが分かります。

『福井県史』

■紫式部と越前国府

 長徳2年(996年)、紫式部の父・藤原為時は、従五位下越前守に叙任されて越前国武生へ下向しました。この時、娘・紫式部も同行し、武生で1年ほどを過ごしたようです。
・『紫式部集』には、日野山を詠んだ和歌が載せられています。
・『源氏物語』「浮舟」では、浮舟を慰める母の言葉に「武生の国府に移ろひたまふとも、忍びては参り来なむを」(たとえ武生の国府のような遠い所へあなたが行ったとしても、私はこっそりとやって参りましょうものを)と「武生の国府」が出てきますが、これは紫式部が過ごした越前国府のことでしょう。

 暦に「初雪降る」と書きたる日、目に近き日野岳といふ山の雪、いと深う見やらるれば、
(25)ここにかく 日野の杉むら 埋む雪
      小塩の松に 今日やまがへる
返し、
(26)小塩山 松の上葉に 今日やさは
     峯の薄雪 花と見ゆらむ

  日記に「初雪降る」と書いた日、目の前にそびえる日野山という山に、雪が、たいそう深く積もっているのを見て、(そばの侍女に? 都に住む人に?)
  ここ越前の国府にこのように日野山の杉の木の群れを埋める雪は
  都で見た小塩山の松に、今日は見間違えます。
(侍女の? 都に住む人の?)返歌に、
  都でも、今日は小塩山の松の葉に雪が降り積もって、
  小塩山の薄雪が桜の花に見えますよ。

【意訳】「越前国府の前の日野山には杉の木が埋まるほど雪が降り積もって、京都の小塩山を思い出す」と送ったら、返事には、「京都の小塩山ではパラパラと雪が降って、桜の木に花が咲いたように見えますよ」とあった。

※日野岳=日野山。地元で「越前富士」と称される標高795mの山。
※小塩山(おしおやま)=京都府京都市西京区にある標高642mの山。

■国府発掘プロジェクト

 越前国武生は、福井県中部に位置し、福井市に次いで福井県第2の人口を有し、「府中」と呼ばれていた「武生市(たけふし)」のことのようです。
 国衙は、かつての「武生市役所」(福井県越前市蓬莱町。現・武生市公会堂記念館)にあったと考えられるも、建物を壊して発掘調査するわけにもいかず、国衙の位置は不明のまま、平成17年(2005年)10月1日に武生市と今立町が合併して「越前市」になりました。

 越前市は2023年度から、越前国府の所在地を探る「国府発掘プロジェクト」に乗り出しました。

 国衙があった場所だと以前から有力視されていや本興寺(福井県越前市国府1丁目)の境内を掘り起こし、2023年10月に溝を発見し、11月に「越前国府の位置が確定した」と発表しました。

 越前国に限らず、国府はとにかく広い!
 だから、上の地図の4つの説の重なっている場所を掘れば、そこは間違いなく国府で、今回の溝のように、国府関連の何かが出土するでしょう。

 「越前国府の場所が不明」「越前国府の場所が判明」と言っていますが、位置は「府中」と呼ばれていた場所であることは分かっており、問題は、国府の位置ではなく、
①国府の範囲(上の4説のどれが正しいか)
②国衙の位置
③移転説の検討
です。
 国府は、
・「越前國府在丹生郡行上七日下四日」(『和名類聚抄』)
・「太介不」(『催馬楽』「道口」)
と「丹生郡武生」にあるも、そこがどこであったかが問題です。
 上の地図の区域に「武生」という地名は残っておらず、「府中」と呼ばれており(「府中」という新地名により、「武生」という地名が消され(上書きされ)た?)、明治2年9月、「府中町」を「武生町」に改称し、さらに、昭和23年(1948年)4月1日、南条郡武生町と神山村が合併して、武生市が発足しました。

 「太介不」は「武生」ではなく、「竹生」であり、「竹が生い茂る土地」の意味だとする説があります。しかし、「竹生」では、「竹生島」同様、「たけふ」ではなく、「ちくぶ」と読まれるのでは?(江戸時代(文化12年)、西尾領内に「竹生」があった(『丹生郡小誌』)。)

 さらに、「越前国府は、奈良時代は丹生郡武生(現・敦賀市石ケ町)にあり、平安時代に南条郡(旧・丹生郡)府中町(上の地図の場所)に移転した」という移転説があります。
 ちなみに、私の説は、移転説で、「前期越前国府は、(石ケ町の南の)福井県敦賀市道口にあった」です。ただし、自説「道口説」は、
・道口=越前国の入口であって中央ではない。
・国府を築くには狭い。
・「道口」の旧地名を「武生」とする資料がない。
という欠点がありますが、川が流れているので、税を運ぶには都合がいいかなと。国府が広いことや、石ケ町=武生説を考慮すると、前期越前国府は、「道口~石ケ町一帯」にあったのかなとも思います。
 国衙の近くに国分寺があり、国分寺の横に八幡宮があります。越前国分寺の位置は分かっていませんが、八幡宮は敦賀郡にありました。角鹿国の国府が敦賀市にあり、角鹿国、三国国、高志国が「大化の改新」で合併し、高志国の国府が越前国府になったのでは?

※『先代旧事本紀』「国造本紀」
・角鹿国造 角鹿国(越前国南西部)→越前国敦賀郡
・三国国造 三国国(越前国北東部)→越前国坂井郡
・高志国造 高志国(越前国中部) →越前国丹生郡

※『和名類聚抄』「越前国」
・敦賀郡(「国造本紀」の角鹿国) 「越前国一宮」氣比神宮
・丹生郡(「国造本紀」の高志国) 「越前国府在丹生郡」
・足羽郡             北ノ庄城、福井城。
・大野郡             大野城
・坂井郡(「国造本紀」の三国国) 三国湊。継体天皇の本拠地。

※『延喜式』
 越前国 駅馬 松原八疋
        鹿蒜、淑羅、丹生、朝津、阿味、足羽、三尾、各五疋。
     伝馬 敦賀、丹生、足羽、坂井。各五疋。
(注)淑羅=叔羅(しくら)。叔羅川=日野川。
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/tosyo/file/614799.pdf

※高志国は丹生郡にあったというから、単純に考えれば、国府は丹生郡丹生郷(現・越前市丹生郷町)にあったようにも思われます。

■八岐大蛇

 越国といえば八岐大蛇。
 『古事記』には「高志之八俣遠呂智、年毎に来たり」(毎年、越国から八岐大蛇が来る)、『出雲国風土記』「意宇郡の条 母理郷」には「所造天下大神大穴持命、越の八口を平(ことむ)け賜ひて還り坐しし時」(大穴持命(大国主命)が越国の八口を平定されてお帰りになられた時)とあり、八岐大蛇は越国八口に住んでいたらしい、
 この「八口」の比定地には、新潟県岩船郡関川村八ツ口、富山県高岡市八口などがありますが、私は越国の中心地=丹生郡付近にあると思っており、新潟県坂井市丸岡町八ツ口(丸岡城(福井県坂井市丸岡町霞町)の近く)ではないかと思っています。
 なお、上の動画では、八岐大蛇=越国王とされていますが、八岐大蛇=産鉄民の神(シュメールの九頭のドラゴン)だとか、八岐大蛇=九頭竜川であるような気もします。

■継体天皇

 継体天皇の本拠地「高向(たかむく)」(越前国坂井郡高向郷)は、福井県坂井市丸岡町高椋になります。生まれは父親の本拠地の滋賀県高島市ですが、父親が亡くなって、母の実家がある福井県坂井市に移ったとのことです。



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