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『信長公記』に見る安土饗応

 4月21日。安土御帰陣。去る程、四国阿波国、 神戸三七信孝 へ参らせられ侯につきて、御人数御催なされ、
 5月11日、住吉に至りて御参陣。四国へ渡海の舟ども仰せ付けられ、その御用意半ばに候。信長公、当春、東国へ御動座なされ、武田四郎勝頼、同・ 太郎信勝、武田典厩、一類歴々討ち果たし、御本意達せられ、駿河、遠江両国、家康公へ進めらる。その御礼として、 徳川家康 公、ならびに、穴山梅雪、今度、上国侯。「一廉御馳走あるべき」の由侯て、まず、皆道を作られ、「所々御泊々に、国持ち、郡持ち大名衆罷り出で候て、及ぶ程、結構仕り侯て、御振舞仕り侯へ」と、仰せ出だされ侯ひしなり。
 5月14日、江州の内、番場まで、家康公、穴山梅雪、御出でなり。惟住五郎左衛門 、番場に仮殿を立て置き、雑掌を構え、一宿振舞申さるる。同日に、三位中将信忠卿、御上洛なされ、番場御立ち寄り、暫時御休息のところ、惟住五郎左衛門 、一献進上侯なり。その日、安土まで御通侯ひき。
 5月15日、家康公、番場を御立ちなされ、安土に至りて御参着。「御宿、大宝坊しかるべき」の由、上意にて、御振舞の事、惟任日向守に仰せ付けられ、京都、堺にて珍物調え、おびただしく結構にて、15日より 17日まで、3日の御事なり。中国備中へ羽柴筑前守相働き、宿面塚の城、荒々と取り寄せ攻め落し、数多討ち捕り、ならびに、ゑつたが城へ、また取り懸け侯ところ、降参申し罷り退き、高松の城へ一所に立て籠もるなり。また、高松へ取り詰め、見下げすみ、くも津川、ゑつた川、両河を堰切り、水を湛え、水攻めに申しつけられ侯。芸州より、毛利、吉川、小早川、人数引卒し、対陣なり。信長公、これらの趣、聞こし召し及ばれ、「今度、間近く寄り合い侯事、天の与うるところに侯間、御動座なされ、中国の歴々討ち果たし、九州まで一篇に仰せ付けらるべき」の旨、上意にて、 堀久太郎、御使として、 羽柴筑前方へ、条々仰せ遣わされ、「惟任日向守、長岡與一郎、池田勝三郎、塩河吉大夫、高山右近、中川瀬兵衛、先陣として出勢すべき 」の旨、仰せ出だされ、すなわち御暇下さる。
 5月17日、 惟任日向守 、安土より坂本に至りて帰城仕り、いずれも何れも、同事に本国へ罷り帰り侯て、御陣 用意侯なり。
 「5月19日、安土 御山惣見寺にて、幸若八郎九郎大夫に舞を舞わせ、次の日は、四座の内は珍しからず、丹波猿楽、梅若大夫に能をさせ、 家康公、召し列れられ侯衆、今度、道中辛労を忘れ申す様に見物させ申さるべき」旨、上意にて、御桟敷の内、近衛殿、信長公、家康公、穴山梅雪、長安、長雲、友閑、夕庵。御芝居は御小姓衆、御馬廻、御年寄衆、家康公の御家臣衆ばかりなり。初の舞は「大職冠」、2番「田歌」、舞良く出来侯て、御機嫌斜ならず。「御能は、翌日仰せ付けらるべし」と御諚侯ひつるが、日高に舞い過ごし侯に依りて、その日、梅若大夫、御能仕り侯折節、御能、不出来に見苦しき侯て、梅若大夫、御折濫なされ、御立ち大形ならず。幸若八郎九郎大夫 居申し侯楽屋へ御使、菅屋玖右衛門、長谷川竹両使を以て、「かたじけなくも上意の趣、能の後にて舞を仕り侯事、本式に非ずといえども、御所望侯間、今一番仕り侯へ」と仰せ出だされ侯。この時「和田酒盛」を舞い申し侯。また勝れて出来、御機嫌直り、ここにて、森乱、御使にて、幸若大夫、御前へ召し出だされ、御褒美として、黄金 10枚下さるる。面目といい、外聞実儀、かたじけなく頂戴なり。次に、梅若大夫、御能悪く仕る事、曲事におぼし召され侯へども、「黄金かかわり惜しむの様に、世間の褒貶あるべきや」の御思慮加えられ、右の趣の条々、仰せ聞かされ、その後、梅若大夫にも金子10枚下さる。過分かたじけなき次第なり。
 5月20日、惟住五郎左衛門、堀久太郎、長谷川竹、菅谷玖右衛門 4人に徳川家康公御振舞の御仕立て仰せ付けらる。御座敷は高雲寺御殿。家康公、穴山梅雪、石河伯耆、坂井左衛門尉、この他、家老の衆御食下され、かたじけなくも、信長公御自身御膳を居えさせられ、御崇敬斜ならず。御食過ぎ侯て、家康公、御伴衆上下残さず、安土御山へ召し寄せられ、御帷下され、御馳走申すばかり無し。
 5月21日、家康公 御上洛。「この度、京都、大坂、奈良、堺、御心静かに御見物なされ、もっとも」の旨、上意にて、御案内者として 長谷川竹、相添えられ、織田七兵衛信澄、惟住五郎左衛門両人は、「大坂にて家康公の御振舞申しつけ侯へ 」と、仰せ付けられ、両人、大坂へ参着。
 5月26日、 惟任日向守 、中国へ出陣のため、坂本をうち立ち、丹波 亀山 ( 京都府亀岡市 ) の居城に至り参着。
 次日、27日に、亀山より愛宕山へ仏詣。一宿参籠致し、 惟任日向守、心持ち御座侯や、神前へ参り、太郎坊の御前にて、2度、3度まで鬮を取りたる由、申し侯。
 28日、西坊にて連歌興行。発句、惟任日向守。
  ときは今 あめか下知る 五月哉   光秀
  水上まさる 庭のまつ山       西坊
  花落る 流れの末を 関とめて    紹巴
かように、百韵仕り、神前に籠置き。
5月28日、丹波国 亀山へ帰城。申し付く。


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