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武田信玄の妻子

武田信玄がいつ、どこで亡くなったのかは不明ですが、
・4月12日、田口(愛知県北設楽郡設楽町田口)で没
・4月12日、根羽(長野県下伊那郡根羽村)で没
・4月12日、駒場(長野県下伊那郡阿智村駒場)で没
など諸説あり、「4月12日、駒場で没」とするのが有力説です。

  大ていは地に任せて肌骨好し 紅粉を塗らず自ら風流

 さて、武田信玄の子孫といえば、
・次男・海野信親流(信親と側室との間に生まれた信道(伊豆大島で没)の子孫。現在、武田邦信氏が第16代当主)
・五男・仁科盛信流(盛信には4人の男子がいたという。それぞれの子孫)
・七男・武田信清流(米沢武田氏。武田昌信氏)
の3系統である。

■禰󠄀津御寮人

 田口の「福田寺(ふくでんじ)」で武田信玄を看取った側室・禰󠄀津御寮人(禰津の方)は、武田信玄の2人の子を連れ、遺髪、守り刀、常備薬(富永藤兵衛が調合?)を持って静岡県袋井市堀越に隠れ住み、遺髪を埋めて「福田寺(ふくでんじ)」を建てたという。

 風林火山の旗をなびかせて、関東・甲信越・東海地方にまで勢力をのばしていた武田信玄と、側室「禰津(ねづ)の方」のお墓が袋井市堀越にあります。
 武田信玄は、元亀3年(1572)12月、三方原で徳川家康と戦った後、翌年2月に三州三河の野田城を攻め落としました。
 このころから、信玄公は病気が少しずつ悪くなってきましたので、伊那街道を北に向かい甲斐へ帰ることにしました。けれども病気はますます重くなり、この年の4月12日、三州田口という所で53歳で亡くなったのです。
 信玄公が亡くなるまでずっと付き添っていたのが側室の1人「禰津(ねづ)様」です。禰津様は、信玄公亡き後、正室やほかの側室のいる甲府へ帰ることを遠慮して、信玄公の遺髪と常に持っていた薬をいただいて、信玄公の子供2人と数人のお供を従えて、遠江、堀越の里に隠れ住んだのでした。
 そして、遺髪を埋めたところにお堂を建て、「福田寺」(ふくでんじ)と名付け、信玄公の供養をするとともに、「信貞」「信清」の2人の子供を育てました。そして守り刀と共に霊薬も大切に守っていきました。
 兄の信貞は、武田家滅亡の時甲府で亡くなっています。弟の信清は、上杉景勝に仕え、会津から米沢に移り、現在も子孫が暮らしているそうです。
 信玄の亡くなった奥三河の田口にも「福田寺」があり、ここには信玄公のお墓といわれている五輪塔があり、そこからも「福田寺」と名付けて信玄公を弔ったことと思われます。
 福田寺については、明治24年に海蔵寺に統合されて建物だけが残され、本堂は報徳社などに利用されていましたが、昭和19年の震災で倒れてしまいました。

『袋井に伝わる昔話』「武田信玄とその側室「禰津の方」」



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