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石川数正は日本武の子孫か

──全人類はアダムとイブの子孫である。

世界の人口は80億人。
全てがアダムとイブの子孫だという。
もしそうであれば、
家系図を書けば、頂点は2人、底辺は80億人のピラミッド状になるはず。

──実際はそうではない。

私には両親がいて、その両親にも両親(祖父母)がいて・・・
家系図を書けば、逆ピラミッド状になる。
n代前の祖先の数は2のn乗人(男性だけなら2の(n-1)乗人)いる。
その中には源氏の人もいるかもしれないし、日本武尊もいるかもしれない。

「家系図制作業」という業者さんがいる。
制作費は松竹梅で、
高い松では、天皇から私までの家系図を
竹では、教科書に載ってる有名人から私までの家系図を
安い梅では、菩提寺へ行って、過去帳に載ってる名前で家系図を
作ってくれる。

最も人気なのは、武田信玄と繋いでくれる家系図で、
江戸時代に業者から購入した武田家系図は見た目が古いので、
本物のように見える。
「甲府では、1軒に1つ武田家系図がある」
という都市伝説(ジョーク?)があるが、その真偽を私は知らない。

モデルの武田アンリさんが「武田信玄の直系の末裔」だというが、
「武田家旧温会」は否定している。


三河国の日本武(やまとたける)の子孫といえば、

①愛知県豊川市赤坂町宮路を本貫地とする宮道氏
宮道氏は日本武の第三皇子・建具児王の子孫だという。
蜷川宮道親直は、越中国新川郡太田庄に移り、「蜷川氏」と称した。
※関連神社:宮道天神社

②愛知県岡崎市大和町の大荒田命の後裔
日本武三世孫・大荒田命の後裔が住んでいた。
※関連神社:白鳥神社

あと、日本武は双子で、兄の墓が三河(愛知県豊田市)にある。
※関連神社:猿投神社

──石川数正は日本武の子孫か?

遡れば、岡崎市や豊川市のご子孫と石川家の縁組があったかもしれない。
とはいえ、石川氏は三河人ではない。

石川数正の祖先については、
説①:松平初代親氏に上野国からついて来た従者(兎汁伝承)
説②:下野国から三河入りした石川源氏・石川政康(蓮如の依頼)
の2説がある。

※石川源氏:源義家(八幡太郎義家)の六男・源義時を祖とする。
※松平初代親氏の従者には、石川氏以外にも、神谷不能(上野国神谷)、藤谷不阿弥、青山師重(上野国吾妻郡青山郷)、近藤らがいた。彼らは南朝遺臣で、元は後醍醐天皇の孫・尹良親王が上野国寺尾へ来た時に迎えた新田氏の家臣(の子孫)だという。

上の徳川氏の系図は1本線であるが、実は、徳川家康は「次郎三郎」系(松平初代親氏の次男の三男の筋)である。

 松平初代親氏┬長男:信広【松平郷松平(松平太郎左衛門家)】
       └次男:信光【岩津松平】┬長男:親長【岩津松平】
                   ├次男:守家【竹谷松平】
                   └三男:親忠【安祥松平】…家康

神社考古学では、神社を「生きた古墳」と呼び、由緒書を古史古伝と同レベルに扱う。ただし、由緒書は、書き替えられているので、注意を要する。
①明治時代の神仏分離による書替:天王社のご祭神は牛頭天王から建速須佐之男命へ、秋葉神社のご祭神は秋葉三尺坊から火之迦具土神へ変更され、由緒書も書き替えられた。
②祭神変更による書替:遠江国の式内・己等乃麻知神社(ご祭神・己等乃麻知媛命)は、ご祭神を八幡神に変え、社名も事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)に変え、由緒書も書き替えられた。
③吉田家による書替:遠江国一宮には小國神社説と己等乃麻知神社(現・事任八幡宮)説がある。前者が通説であり、後者は吉田家の「遠江国一宮也」というお墨付きを得た神社である。吉田家では、お金次第で、由緒書を、いろんなレベルで書き替えてくれていた。

 ただし、遠江国一宮に関する話は少し複雑で、武田信玄の遠江国侵攻に際し、己等乃麻知神社では、社宝を事任神社、小國神社、砥鹿神社に分けて避難させた。すると、小國神社(別名「事任神社(ことのままのかみやしろ)」)と、己等乃麻知神社の御神紋「亀甲に卜象」を御神紋とした砥鹿神社の霊力がアップし、小國神社は遠江国一宮、砥鹿神社は三河国一宮になってしまったという。(己等乃麻知神社は「元宮」にあったが、武田信玄によって焼かれ、現在地に事任八幡宮として再建された。)

 吉田家は、明治維新まで、現在の神社庁の役目を司っていた家で、松平家康の徳川復姓&「三河守」任官に向けて朝廷に献上した「徳川氏系図」は、吉田家(吉田兼右)の創作だという。
 また、上掲の『尊卑文脈』「徳川氏系図」は、実線部分は得川義季開基の菩提寺・長楽寺の系図に似ているが、点線部分は神竜院梵舜の制作だという。(満義の子が上野国を離れて以降、長楽寺が世良田氏の菩提寺ではなくなっているので、長楽寺には満義までの記録しかない。)

【長楽寺系図】

義季┬得川頼有─頼泰
  ├頼氏三河守。文永9年、勘気を被り佐渡へ流罪)
  ├教氏家時満義(「世良田」と号す)
  │  └仏宗(長楽寺長老)
  ├有氏─義有─行義(「江田」と号す)
  ├女
  └頼園(宮内卿。阿闍梨)

得川頼氏が三河守になっているので、徳川家康が三河守になってもおかしくはない。ただし、徳川家康が得川氏(世良田満義の後裔)ならばの話ではあるが。


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